森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

高野山でブラタモリ(1/2)

ブラタモリ』#82高野山(1/2)

高野山空海テーマパーク!?


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近江「今回は後ろ前じゃない、たぶん…」

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久し振りに『ブラタモリ』やりま~す。

弘前秩父長瀞十和田湖と休んだので、2ヶ月ぶりになります。


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この画像は、一部を除いてスマホでテレビのモニターを撮影したものを使用しているのですが、最近、連続撮影するとスマホが熱くなりすぎてオーバーヒートを起こして機能停止になってしまうのです。アハハ。夏のせい?


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そんなわけで、しばらく休んでいたのですが、今回も途中で警告が出て、ギリギリでした。やっぱり使いすぎかなあ?


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タモリさんは高野山で修行したことがあります。(嘘)


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高野山といえば、


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高野山大学


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近江ちゃんの今回のファッションとかヘアスタイルとかの方がいろいろ気になるわ。


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受けようとしてた?


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今回の旅のお題


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テーマパーク好き♥


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高野山大学密教文化を研究している木下浩良先生。


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38年前は、高野山大学生だった。


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空海(774-835)

俗姓は佐伯氏。讃岐国多度郡屏風浦(現善通寺)に生まれた。

延暦23年(804)、入唐。青竜寺の恵果阿闍梨から胎蔵界法、金剛界曼陀羅法を受け、伝法潅頂を授かる。

大同元年(806)、筆写した多くの経典、図像などを携えて帰国。

弘仁7年(816)、高野山の地を賜らんことを奏請して許され、ここに金剛峯寺を開いた。

弘仁14年(823)、東寺を賜り、鎮護国家の道場とした。

金剛峯寺で没し、延喜21年(921)弘法大師と諡された。


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弘法にも筆の誤り


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空海「うどん食うかい?」


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それはおいといて


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木下「自身の理想のお寺だと考えられます」


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草彅「空海を身近に感じられる場所なんです」


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草彅「その始まりは高野山へ向かう参詣道から」 


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ということで、川を渡って参詣道の入り口へ向かうタモリさん。 


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高野山真言宗に属し、金剛峯寺を総本山とします。


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草彅独立剛「今日は高野山ブラタモリ!」


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参詣道のスタート地点に到着したタモリさん。


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木下「こちらです。どうぞ」


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昭和30年代まで船があった。


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ここがスタート地点だとわかるものが描かれている。


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タモリ「何か立ってますね」

今は参詣道の途中に移されているということで、移動。


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木下「絶対、空海さんもこの道歩いてます」


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木下「昔はもっと大きかったんです」


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タモリ「下乗!」


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後宇多天皇(1267-1324)

第91代天皇(在位1274-87)。名は世仁。亀山天皇の第二皇子。即位の年に元の第1回襲来、7年目に第2回の襲来があった。

持明院統後深草天皇といろいろあって、亀山系の大覚寺統との両統迭立が始まる。

後二条天皇(第94代)、後醍醐天皇(第96代)の父親で、二人が天皇在位時には院政をおこなったが、元亨元年(1321)院政を停止、後醍醐天皇の親政とした。

院政をやめてからは、出家して大覚寺に住み、密教の研究に没頭した。仏道の修行に熱心で学究肌で文学も愛した「賢主」であったらしい。


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木下「涙を流しています」


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1313年は、持明院統の第95代花園天皇の時代だったので、大覚寺統後宇多上皇は割と暇だったのかも。

花園天皇は、持明院統でありながら後宇多上皇をリスペクトしていたそうな。


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木下「たとえ上皇さんであっても自分の足で歩きなさいということです」


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平安時代に白河・鳥羽上皇の御幸があって、高野山は天下の霊場として知れわたるようになったと云われているのだけれど、その頃はどうだったのだろうか。


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タモリ「沿道に白いものがずっと建ってますね」


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数えていけば、あとどのくらいか分かる。


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木下「実はこの形は五輪塔の形なんです」


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五大ですな。


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供養塔ですな。


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よく知らないけれども、日本独自の形状の仏塔で、成仏できる仏塔なのだとか。


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無理しすぎ。真面目な方だったのね。


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文永6年。


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文永の役は、文永11年(1274)、弘安の役は、弘安4年(1281)。「文永は人に梨、弘安は人に肺」て覚えたなあ。


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文永6年(1269)は、元が日本に朝貢させようとして、高麗を仲介とした使者を派遣していた外交交渉の時期にあたる。


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元寇との関係は、ビミョーな気がするけど。


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わかりません。


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近江「だいぶ、まだ、ありますね」


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生きてるだけで罪なのさ。


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近江ちゃんは、悪口に罪悪感を感じるようだ。


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極楽に行けるとは限らない。


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すべりこみセーフって!


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178町石。


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177町石。


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176町石。


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175町石。


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分かるなあ。マラソンとかでも最初からゴールまで考えたら、しんどいもんな。


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ということで、ゴールはまだまだ先なので、この夏の近江ちゃんを振り返ってみましょう。


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#78弘前


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#79秩父


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#80長瀞


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#81十和田湖


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#81奥入瀬渓流


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そして、6時間後。


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20kmの山道を!?


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途中で熊に襲われた!?


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草履で靴ズレした?


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途中で気絶した?


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んなわけないか。


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ホントは、175町石から車に乗りました。 

 


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次の記事へと続く

 

 

📄この記事の前

🔘大宮でブラタモリ(1/2) - 森の踏切番日記

🔘大宮でブラタモリ(2/2) - 森の踏切番日記

 

📄関連日記

🔘さぬきうどんでブラタモリ - 森の踏切番日記

 

 

 

 

 

米澤穂信の短編集『満願』の感想

8月の読書録08ーーーーーーー

 満願

 米澤穂信

 新潮文庫(2017/08/01:2014)

 ★★★☆

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満願 (新潮文庫)

 

本書は2014年に刊行された米澤穂信の短編集が文庫化されたものである。本作は、2014年に山本周五郎賞を受賞し、「このミステリーがすごい!」「ミステリが読みたい!」「週刊文春ミステリーベスト10」の国内部門ランキングすべてで1位を獲得し、史上初の三冠を達成したことで、当時話題になった。直木賞候補にも挙がったが、受賞は逃している。

 

地味でシブい印象の短編集だが、後からジワジワ効いてくる。ただ、文庫本のオビにある煽り文句程にはスゴいとは思わなかった。どちらかというと、ミステリマニア好みの短編集なのだろうか。私はミステリマニアではない。

 

年間ランキングというのは、断トツの支持でもない限り、相対的な評価だと思うし、プロ野球の打撃成績のように数字で表せるものではないので、それをもって最高傑作とするわけにはいかないだろう。本短編集がオールタイム・トップ100に入るほどの傑作とは思わなかった。短編集は、それ自体弱いというのはあるけれども。

 

 

 

巻頭の「夜警」では、殉職した警察官の美談に隠された真実が暴かれる。まず、書き出しが良い。

葬儀の写真が出来たそうです。

そう言って、新しい部下が茶封筒を机に置いていく。気を遣ってくれたのだろうが、本音を言えば見たくもない。それに、写真に頼らなくても警察葬の様子は記憶に刻み込まれている。あの場の色合いも、匂いも、晩秋の風の冷たさも。

これだけで、語り手が警察関係者で、誰かが殉職して、「新しい部下」という言葉から、それは恐らく語り手の前の部下で、語り手にとっては忘れたくても忘れられない悔恨の記憶であることが分かる上手い書き出しである。

語り手は、交番に勤務する勤続20年になるベテラン巡査部長である。勤続20年にもかかわらず巡査部長である彼には痛恨の過去がある。彼は疲れ切っている。彼の語り口は暗い。この暗さは、過去の作品の『ボトルネック』や『追想五断章』などと同じ傾向の暗さである。

彼が勤務する交番に、警察学校を出たばかりの新人警察官が配属される。ベテラン巡査部長は、この新人が警察官としての資質を欠いていることを見抜く。その判断が間違いではなかったことに、配属されてからわずか一ヶ月余りで新人は殉職してしまう。刃物を持った男が暴れている現場に駆けつけた際、相手を射殺したものの、自らも切りつけられてしまったのだ。彼の最期の言葉は、

「こんなはずじゃなかった。上手くいったのに。上手くいったのに……」

この小説は、新人が配属されてからの日々をベテラン巡査部長が回想する形で進められるが、日常の交番勤務が詳しく描写される中で、新人の警察官としての資質の危うさが語られ、事件当日の小さな齟齬が語られる。何が「こんなはずじゃなかった」のか。

新人警察官が単なる報告の途中で唇を舐める個所がある。心理学的には、緊張したりストレスを感じると唇が乾くため無意識に唇を舐めるという。彼には緊張する理由があったのだが、こういう細かい描写に感心した。

作中、警察官に向かないタイプについて語られているが、自分の失敗を誤魔化そうとしたり隠蔽したりする人間は、どこの職場についても遠からず駄目になるだろうと思う。そんな人間が警察官になったばっかりに、命を落とす羽目になったということだろう。

ラストの一行は少し弱いかなと思ったが、なかなかの佳作である。

 

 

「死人宿」では、失踪した恋人との復縁を希望する証券マン(推定26歳)が、元カノの居所を探り当て、彼女が仲居として働いている山奥の温泉宿を訪れる。ところが、その温泉宿は年に数人は死人が出るという「死人宿」と異名をとる自殺の名所だった。主人公が、再会した元カノから解決を依頼された事件とは、という話だが、ミステリとしては少し弱いかなという印象である。女性宿泊客に色々な柄の浴衣から好きな浴衣を選んでもらうサービスをしている旅館もあるしなあ、と屁理屈を言いたくなった。

元カノが無神経な主人公に冷淡な言葉を投げつける場面は、『さよなら妖精』の太刀洗万智を思い出させた。そういえば、『王とサーカス』は、まだ文庫化されないのだろうか。待ち遠しいなあ。単行本買えよ。

この小説には、二人の関係がどうなったかは書かれていないが、主人公の元カノとの復縁はならないだろうと思わせる。なぜならば、元カノの方は、すでに自立していて主人公を必要としていなさそうだから。人間関係を常識だけで推し量ると、見るべきものが見えなくなるという教訓めいた話だった。

 

 

男から見れば、どう考えてもゲス野郎にしか見えないのに、なぜか女にモテモテという男はいるものである。何か特殊なフェロモンでも出ているのだろうか。そういう男は、オスの本能であちこちで種付けをするものであり、得てして生活力が無かったりする。「柘榴」は、そんなゲス野郎と結婚してしまった美人ママと娘の美人姉妹の話であるが、少女の暗い情念が恐ろしい。表題の「柘榴」は、鬼子母神の説話とギリシア神話のペルセポネーに基づいている。

このゲス野郎は声が武器で、「耳に心地よい声の響きや気を逸らさぬ話しぶりが妙に異性を魅了する」男である。その声は、実の娘すら「心の奥底をざわつかせる」不思議に柔らかい声なのだ。人間は視覚が発達しているので、まず見た目で判断するが、聴覚は視覚よりも原始的な知覚なので記憶に残りやすいのだそうだ。これは、私の偏見だが、声フェチの人は視力が低い人に多いと思う。

モテる男の声といえば、「フクヤマに決まってるやん」と、妹が言いました。さいですか。私が魅力的だなと思う女性の声は八木亜希子のような声かな。

嗅覚も原始的な知覚なので本能を刺激しやすいのである。男女問わずモテるためには「匂い」に気を遣うべきなのだ。臭い奴が嫌われるのは必然なのだ。

 

 

「万灯」は、社会派ミステリ仕立てになっている。時代設定は昭和50年代である。主人公の商社マンは、資源開発のプロジェクトを手がけている。彼は、インドネシアでの仕事で実績をあげ、部長待遇の開発室長としてバングラデシュでのプロジェクトを任される。ところが、バングラデシュでの交渉は難航を極め、ライバル会社の横槍も入り、主人公はある決断を迫られることになる。

バングラデシュという舞台設定が効果的で面白い。長編にもなり得る密度の高い内容で緊迫感がある。オチは、ショート・ショートにありそうなオチなので途中で読めてしまう。私の好みで云うと、ラストが少しきれいすぎる。主人公をもっと追いつめて苦しませるべきだったと思う。

会社人間が尊い仕事をしているつもりで、知らず知らずのうちに人としての道を踏み外してしまう、というのは社会派ミステリの普遍的とも云えるテーマだが、良く出来たストーリーだと思った。この密度の高さで長編で読んでみたかった。

 

 

今回、最も気に入ったのが「関守」である。スポーツ系のライターを目指しながら挫折した何でも屋のライターが、コンビニで売る都市伝説のムックのための急ぎの仕事を受け、先輩から「死を呼ぶ峠」のネタを提供してもらうという京極夏彦風の導入だが、もちろんオカルトではない。弱いネタを強引に都市伝説に仕立て上げるために取材に向かった主人公は、峠の寂れたドライブインのばあさんに話を聞く。このばあさんの語り口がとぼけていてユーモラスでリアリティがあって良い。オチも意外性があって申し分ない。ある意味現代の怪談と云える。私好みの一編である。

 

 

表題作の「満願」は、主人公の弁護士が独り立ちしてから初めて取り扱った殺人事件にまつわる物語である。弁護を担当することになった被告人は、苦学生時代に世話になった下宿先の夫人であった。彼女は、夫が借金をこしらえた相手を刺殺して罪に問われたのである。時代設定は昭和61年だが、下宿時代の回想が昭和40年代後半、事件が起きたのは昭和52年、裁判が終わったのは昭和55年となっている。

夫人が満期釈放となった日、彼女が挨拶に訪れるのを待ちながら主人公は、下宿時代に触れた彼女の人柄を回想し、事件のあらましを回想し、裁判の経過を回想する。お世話になった夫人の罪が少しでも軽くなるように主人公は未熟ながらも奮闘したのだった。彼には夫人が殺意を持って人を殺めたとは思われなかったのである。すべてを回想し終わったとき、主人公は小さな齟齬に気がつき別の可能性に思い当たる。ミステリとしては少し弱いかという印象が残る。

この小説に出てくる下宿先の主人は、家業の畳屋を継いだのだが、商売に向かないタイプの人間であるばかりでなく、生活破綻者の駄目人間である。酒に溺れて借金を重ねて、「女房が立派なのはなお悪い」とうそぶく人間であり、同情の余地はまったく無い。夫人は、不幸な結婚生活の中で何か心の支えを必要としていたのだろう。主人公は、下宿時代にはこの夫人に淡い恋心を抱いていたと思われるが、真相に気づいてしまった後では、それも過去のものとなってしまった。表題の「満願」は、目論見を果たして出所した夫人に罪の意識が芽ばえなかったのか、主人公が問いかけるものであるが、夫人が主人公の前に姿を見せないまま小説は終わってしまう。

この小説は、夫人の独白にしても面白いのではないかと思った。

 

 

全六編の短編はバラエティに富んでおり、短編集としてのバランスは良かったと思う。どの作品の登場人物も自分の人生を真摯に生きているのだが、知らず知らずのうちに人間の持つ暗い情念という底なし沼に入り込み、気がついた時には取り返しのつかない所まではまり込んでしまったという感じである。こうした悲劇が日常生活の延長上に突如として現出するところに恐ろしさを感じた。

著者には、密度の高い長編ミステリを期待したい。

 

 

 

 

満願 (新潮文庫)

満願 (新潮文庫)

 

 

 

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筒井康隆の短編集『繁栄の昭和』の感想

8月の読書録07ーーーーーーー

 繁栄の昭和

 筒井康隆

 文春文庫(2017/08/10:2014)

 ★★★★

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繁栄の昭和

 

本書は2014年に刊行された短編集が文庫化されたものである。短編が9編とコントが2題、それにエッセイが1編という構成になっている。表題は、巻頭の短編のタイトルがそのまま使われているが、全体的に昭和を感じさせる内容と云えるか。『創作の極意と掟』(講談社文庫)に引き続いて読んだので、いろいろ思い当たる事があって面白かった。

 

 

表題作「繁栄の昭和」は、昭和の探偵小説風だが一筋縄ではいかない。「反復」が効果的に使われているメタフィクションな作品。「繁栄」という言葉が繰り返し使われるが、最初に出てきた段階で違和感を覚え、繰り返される度に違和感が増し、最終的には「繁栄の昭和」の亡霊に取り憑かれたかのような気分になる。

過去は、記憶と記録の中にしかない。それは完全な情報ではあり得ない故に、京極夏彦風に云うと、歴史は物語に過ぎないのだ。「昭和の繁栄」は二度と戻らないが、虚構の世界には虚構の「昭和の繁栄」がずっと残っていくのだ。

 

「大盗庶幾」は、江戸川乱歩作品へのオマージュと云える作品。いろいろ出てきて楽しかった。ここで描かれているのは、乱歩作品の中の虚構の世界の大正時代から戦前の昭和時代なのだが、なぜか懐かしい気分になる。何年か前に小原愼司の漫画をアニメ化した『怪人二十面相の娘』を深夜に見ていたことを思い出した。あれは、よきアニメであった。

 

「科学探偵帆村」は、巻末の松浦寿輝による解説によると、海野十三へのオマージュであるようだ。さすがに海野十三作品は知らないが、知らなくても十分楽しめる内容である。始めは話がどこへ向かっていくのか見当がつかなかったが、オチでは脱力させられた。過去作品の「郵性省」や「ハリウッド・ハリウッド」を思い出したが、アイディアはまったく新しく、進化した作品と云える。UFOが出てきて処女懐胎したりするので、読んだばかりの三島由紀夫の『美しい星』を連想して、ちょっと笑った。

 

リア王」は、伝統的な自然主義リアリズムを信奉する名優が主宰する劇団「伝灯座」の古典的な「リア王」が、とあるきっかけで歌入り(「君の瞳に恋してる」)になってしまい、それが受けたことから、劇中歌がどんどん増えていき、仕舞いにはカーテンコールでよりによって、「It's A Small World」が歌われるという、時代の変化を感じさせる皮肉な内容の一編である。昔の筒井作品なら、結末は主人公が悲惨な目に遭うことが多いのだが、お年を召されて丸くなられたのか、ハッピーエンドになっている。

 

「一族散らし語り」は、ツツイワールドお馴染みの日本建築の迷路のように入り組んだ大きな屋敷での悪夢のような話。今回は、衰退しつつあり、腐敗しつつある。「繁栄の昭和」も今は昔の話という風情で哀感がある。

 

「役割演技」は、格差社会の見せかけの繁栄の虚しさを感じさせる悪夢的な話。現実の世界でも、皆が自分の役割を演技させられていると云えよう。演技をとちれば、仲間から追い出されるわけである。怖い怖い。

 

「メタノワール」は、映画の撮影と実生活がごちゃ混ぜになっていく話で、過去の作品では「市街戦」などが思い出されるが、本作では、深田恭子北村総一朗船越英一郎宮崎美子が実名で登場する。 メタフィクションの映画版をフィクションで書いたというややこしい構造の一編である。

深田恭子のテレビドラマ『富豪刑事』は良かったなあ。設定の変更が功を奏した成功例だったなあ。某アイバ君の『貴族探偵』とは大違いだ。今年度の4月~6月期は珍しくテレビをよく見たのだが、その反動でテレビ拒否症が再発してしまい、7月以降はテレビをほとんど見ていない。

 

「つばくろ会からまいりました」は、不思議な味わいがする一種の愛妻小説。主人公が最後に理屈抜きに確信を得ることから、この話全体が夢の中の出来事だったような気にさせられた。

 

「横領」では、話の展開上唐突感のある主人公が語る話が印象に残った。夢とセレンディピティの関係を思い起こした。いいところで終わって、夢から覚めたような気分になる。

 

「コント二題」のうち「絵の教室」は、次のエッセイ「高清子とその時代」に出てくるエノケン映画のコントのような時事コント。「知床岬」は、「知床旅情」の歌詞の大ボケ新解釈だが、こちらも時事コントで、作品集全体の中では、次のエッセイへのワンポイント・リリーフのような役割を果たしているようだ。

 

巻末のエッセイ「高清子とその時代」は、ある日、高清子という女優が自分の妻に似ていることに気がついたことから、気になりはじめた著者が、高清子について調べるに従い、その魅力にハマっていく過程を綴ったもの。そこから浮かび上がってきたものは、昭和という激動の時代を生き抜いた一人の女性の人生で、NHKの朝ドラとは似て非なる感動があった。

高清子という女優については、まったく知らなかったが、本エッセイによると、大正2年浅草生まれで、昭和の初期にエノケン榎本健一)一座に参加し、数本の映画に出演している。二十歳で結婚した相手の正邦乙彦は、ジプシー・ローズを日本一のストリッパーに育て上げた演出家で、のちに内縁関係になっている。正妻の高清子は苦労が絶えなかったようだ。永井荷風のお気に入りだったようで、『断腸亭日乗』に名前が出てくることから、戦後も舞台に立っていたことが分かる。昭和57年没、享年69。

坂口安吾も高清子がお気に入りだったようで、「この人には、変テコな色気があった。色々な女の、色々の色気がなければならぬ」と書いているそうだ。坂口安吾、いいこと書くなあ。高清子は、気が強くて負けず嫌いな人だったそうだが、そういうところも妻に似ていて著者にはポイントが高いようだ。単行本も文庫本も表紙の写真は高清子になっていて(上の画像は単行本の表紙)、どんだけ好きやね~ん。そやけど、つまるところは、「妻そっくりの女優を好きになる愛妻家」いう役割を演じとるんやんかいさ。相変わらずでんなあ。

 

 

 

 

繁栄の昭和 (文春文庫)

繁栄の昭和 (文春文庫)

 

 

 

 

 

🔘「ラ・シュビドゥンドゥン」(作詞作曲:筒井康隆 ピアノ演奏:山下洋輔) - YouTube

 

 

 

 

 

筒井康隆の作家としての遺書という『創作の極意と掟』

8月の読書録06ーーーーーーー

 創作の極意と掟

 筒井康隆

 講談社文庫(2017/07/14:2014)

 ★★★★

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創作の極意と掟 (講談社文庫)

 

本書は、心して読まねばならない書物である。なぜならば、これは筒井康隆の「作家としての遺言」であるからだ。表題の「創作」は、小説のことである。著者が対象として念頭に置いたのは、「プロの作家になろうとしている人、そしてプロの作家すべて」だというが、それ以外の人が読んでも得るものが多々あるし、著者の他のエッセイ集と同様の面白さがある。

 

「小説とは何をどのように書いてもよい文章芸術の唯一のジャンルである、だから作法など不要」というのが著者の持論だったという。そういう著者が敢えて書いた小説作法だから、ただの小説作法であるわけがない。全体を通して受ける印象は、やはり、小説とは自由に書いてよいものであり、作法などはないということである。

 

自由に書いてよいといっても、独りよがりな文章では駄目であるし、陳腐な表現でも駄目である。自由であるということは、己で己を律しなければならないということであり、自分の文章に責任を持つということではないだろうか。そのためには覚悟と情熱がなければならない。新しい小説には何か新しいものがなければならないし、様々な技法をものにするためには経験を積むことが必要である。そして、やはり、本をたくさん読んだ方がよい。

 

本文は、31の項目に分かれているがタイトルはすべて熟語である。「凄味」から始まり、「色気」、「揺蕩」、「破綻」、「濫觴」、「表題」、「迫力」、「展開」、「会話」、「語尾」、「省略」、「遅延」、「実験」、「意識」、「異化」、「薬物」、「逸脱」、「品格」、「電話」、「羅列」、「形容」、「細部」、「蘊蓄」、「連作」、「文体」、「人物」、「視点」、「妄想」、「諧謔」、「反復」と続いて、最後が「幸福」となっている。

 

各項では、古今東西の名作が、純文学系から、エンタメ系、SF、ラノベに至るまで、例として取り上げていて、名作が何故名作となり得るのか解説されている。とくに小説家を志さなくても、読書をするときに大いにためになると思う。作家の逸話がいろいろ紹介されているのも読書好きにはたまらない。著者の日記やエッセイを読むときは、いつもそうなのだが、紹介された本が本当に面白そうで全部読みたくなるので困る。また、著者自身の作品についても言及されていて、筒井康隆ファンには大変うれしい内容になっている。

 

 

聖痕 (新潮文庫)

 

 

濫觴(らんしょう)」は、大河もその源は觴(さかずき)にあふれる程度の小流であるということばから、物事の初めをいう。一説に、さかずきをうかべる意という(『新漢和辞典』大修館書店)。ここでは、小説の書き出しを指す。この項には、こんなことが書いてある。

小説作法本に小説の出だしはどうあるべきかなどと書かれていれば、これはもう無視した方がよい。考慮されるべきはあくまで、「その小説の出だしはどう書けばよいか」である筈だ。ひとつひとつの作品にはその作品に最も相応しい出だしがあるのだから。それを考えることこそが個個の作家の作業なのである。

 

 

「表題」で思い出したのは、『涼宮ハルヒの憂鬱』である。このタイトルは当初、「憂鬱」という画数の多い漢字はラノベには相応しくないのではないかという理由で別のタイトルが検討されたのだが、結局そのままのタイトルで刊行されて大ヒットになったという逸話がある。その時ボツになったタイトルが、

『創造主のマスカレード』

『グルグルグルーミー

『タブルサイドH』

『むかつくグルーミーデイズ』

オルタナティブガール』

『HARUHI!』

ハルヒ伝 閉鎖空間変化自在篇』

などであったという(『涼宮ハルヒの秘話』より)。ラノベっぽいけど、ヒドすぎるわ!『涼宮ハルヒの憂鬱』というタイトルが秀逸であり最も相応しいタイトルだったことがよくわかる。

この項では、小説のタイトルはその作品に最も相応しいものがよいのだが、テーマとも内容ともまったく関係のないタイトルをつけるというのも、表題に困った時のひとつの方法であるとして、自身の短編小説「ムロジェクに感謝」を例として挙げている。このタイトルの意味が長らく理解不能だったのだが、ようやくスッキリした。

 

 

「遅延」の項では、涼宮ハルヒ・シリーズに関して、

SF的首尾結構は整っているし、センス・オブ・ワンダーにもSF的合理主義精神にも欠けるところはない。

と評価している。特に、『涼宮ハルヒの消失』は文芸誌編集者の間でも評判がよかったという。著者は、涼宮ハルヒ・シリーズからライトノベルに対する姿勢が変わり、『ビアンカ・オーバースタディ』を書いてしまったと明かしている。知らなかった。

 

 

ビアンカ・オーバースタディ (角川文庫)

 

 

「迫力」の項では、「最大の迫力を生むのは死である」として、星新一の「殉教」が取り上げられていて懐かしかった。このショート・ショートは、昭和33年(1958)に雑誌『宝石』に発表された星新一最初期の傑作で、『ようこそ地球さん』(新潮文庫)に収録されている。最初に読んだのは中学時代だったと思う。この「殉教」と「処刑」の2編は大人になってから読み返してみて、その迫力に戦慄したものである。

 

 

「展開」には、こんなことが書いてある。

通常の小説の場合は、よほどの着想でない限り、あまりおかしな展開にはしない方がよかろうと思う。つまり小説のよき展開として「序破急」や「起承転結」以外の技法はないのだ、と考えておいた方がよい。

ただし、文学性を重視した作品においては、展開は作家の自由であるという。

そこにこそ小説の自由さがひとつ存在するからだ。

 

この項を読んだあと少し気になって、脚本の「三幕構成」について調べてみたのだが、三幕構成 - Wikipediaに映画の脚本の三幕構成についての解説があったので思わず熟読してしまった。なぜか『アナと雪の女王』をおもな例として取り上げていて、丁寧な解説で勉強になった。脚本の場合も、特にエンタメ系は、よき展開として「三幕構成」以外の技法はないということのようだ。 

 

 

「形容」の項では、いかなる小説であっても絶対に使ってはいけない形容は、「筆舌に尽くしがたい」という形容だと書かれている。そりゃそうだ。この項では、「美しい形容に溢れた文章を書く作家」として三島由紀夫を取り上げている。

この人の形容表現もまた借用不能、剽窃不能であろう。作品全体がまさに三島由紀夫調でなければならないからである。

として、『禁色』から文章を引用して、

単に形容だけではなく、美学や古典文学からあらゆる世相に至るまでの教養と知識に鏤められた文章はもう、どんな作家たちにも書けないだろう。

とある。ちょうど、本書と並行して『美しい星』を読んでいたので、ものすごく納得した。古典文学といえば、三島が清少納言について、頭のいい女性独特の誇り高さがあって周りの男性がバカに見えて仕方がなかったのだろう、というような意味のことを書いていたのを読んだことがあるのを思い出した。

『美しい星』を読んで、ミシマに少しはまってしまったのだが、そっちの方は趣味も興味もないので『禁色』系の小説は敬遠するとして、何か読んでみたいと思っている。昨年話題になった『命売ります』は、立ち読みでザッと読んで、さほど興味を持たなかったから、まあよいか。

 

 

「細部」の項では「神は細部に宿る」ということで、フロベールを取り上げている。この項目は、そのまま『ボヴァリー夫人』論になっていて読み応えがあった。「ボヴァリー夫人フロベールである」と言ったのは誰だったか忘れてしまったなあ。

 

 

「文体」の項には、

文体というものは作品内容に奉仕するものである、と小生は思っている。

とある。ここで取り上げられたレーモン・クノーの『文体練習』と高橋源一郎の『国民のコトバ』は、どちらも面白そうで、機会があれば読んでみたい。

 

 

「妄想」の項には、

小生、小説を書く者にとっていちばん大切なものは妄想ではないかと思うのだ。妄想というのは時には猥想などとも言われるように性的な空想だけと思われがちだがなかなかさにあらず、すべての想像の根幹にあり、着想と言われるもののすべてはここから発するものではないかとさえ思う。

とある。私は、この項目だけはクリアできるな。

女性の場合は、男性と比較して右脳と左脳を結んでいる脳梁が太いことから、思考と感情が結びつきやすいのではないか、と著者は推測している。ここで取り上げられている本谷有希子の『嵐のピクニック』と川上弘美の『神様』は、どちらも著者が高く評価している作品だが、私は前者よりも後者の方が好みである。どちらも面白い作品だが、小説にも相性というものがあって、前者の方は私が好む面白さとは少しベクトルが違うように思われる。ただ、「パプリカ次郎」のような作品は好きだ。川上弘美の最近の作品は読んでいないが、また読みたくなった。『なめらかで熱くて甘苦しくて』は、読んでみたい。最近私が注目している女性作家は、最果タヒ藤野可織である。

 

 

「反復」は、31の項目の中で最も分量が多い。というのも、『ダンシング・ヴァニティ』(以下「DV」と略)の自作解説になっているからである。

小説の中での反復にはさまざまな意図や意味があり、「DV」ではそれらの反復を多種多様に駆使している。特に過去の他の作家の作品には見られなかったであろうと思われる反復もあり、この小論では「DV」を読んでいただいた読者のために、それらを分類し、解説していきたいと思う。また、「DV」では取りあげることのなかった種類の小説の反復ということについても、この機会に触れておくつもりである。そもそもこの作品は、ダンス、演劇、映画、音楽など他の芸術ジャンルに顕著な反復が、なぜ小説でなされ得ぬのかという疑問から発したものなので、できるだけ他のジャンルとの比較の上で考察していきたい。

『ダンシング・ヴァニティ』は、もちろん読んでいるので、この項目は興味深く拝読した。最近なぜか「セレンディピティ」という言葉が再流行しているようだが、ここでも言及されている。負のセレンディピティは嫌だなあ。東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』と桜坂洋の『All You Need Is Kill』に関する考察は、文学の行く末について考えてさせられる。最後にはプルーストからハイデガーまで飛び出してくる本項は、凄味と迫力があり本書を象徴する内容である。

 

 

ダンシング・ヴァニティ (新潮文庫)

 

 

最後の「幸福」の項では、小説家であることの不幸と幸福が語られているが、結局のところ「作家として認められている幸福は何ものにも換え難いものがある」ということで、最後は、小説家であることの「幸福」を噛みしめているのだろうか

……。

と、無言で締めくくられている。

 

 

 

 

創作の極意と掟 (講談社文庫)

創作の極意と掟 (講談社文庫)

 

 

 

 

 

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※『偽文士日碌』筒井康隆(角川文庫)の感想

 

 

 

 

三島由紀夫の『美しい星』読んだら草生えたわ

8月の読書録05ーーーーーーー

 美しい星

 三島由紀夫

 新潮文庫(1967/10/30:1962)

 ★★★★☆

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本書は、五月頃に書店で山積みにされているのを見て、懐かしいなと思って購入した。懐かしいなと思ったのは、高校時代に同級生がこの本を読んでいたのを思い出したからだ。当時は、「自分たちは他の天体から飛来した宇宙人であるという意識に目覚めた一家を中心に、核時代の人類滅亡の不安をみごとに捉えた異色作」という訳の分からない小説にさほど興味が湧かなかったので、自分も読んでみようという気にはならなかった。ただ、『美しい星』というタイトルは妙に印象に残った。

 

本書が五月頃に書店に山積みにされていたのは、映画化されたからだったようだ。映画の方は知らないうちに公開され、知らないうちに終わってしまったようだ。本書を五月に購入したものの、すぐに読む気にはならず、しばらく本棚で寝かせていたのだが、八月になってようやく読む気になった。三島由紀夫のような文芸作品は、なんとなく真夏に読むのがふさわしいような気がするのだ。学生時代の名残だろうか。高校時代にこの小説を読んで夏休みの宿題の読書感想文を書こうとしたならば、きっと後悔したに違いない。せめて『金閣寺』にしておくべきだったと思ったに違いない。

 

 

美しい星 (1967年) (新潮文庫)

※昔の新潮文庫の『美しい星』(Amazonより)

 

 

三島由紀夫が空飛ぶ円盤に多大な関心を持っていて、昭和30年(1955)7月に発足した「日本空飛ぶ円盤研究会」の会員だったことは有名な話である。最相葉月の『星新一/一〇〇一話をつくった人』(新潮文庫)によると、会員番号12番だったそうだ(星新一は143番)。熱心に円盤観測会などのイベントにも顔を出していたという。

 

空飛ぶ円盤が頻繁に目撃されるようになったのは、第二次世界大戦中からだというのが定説である。戦後も海外で目撃情報が相次ぎ、日本でも目撃されるようになった。空飛ぶ円盤に関する本も出版されベストセラーになった。最相葉月の前掲書によると、そうした中で「日本空飛ぶ円盤研究会」が発足されたということだ。会長の荒井欣一は陸軍出身で書店を経営していたという。いたって真面目な会だったそうだ。三島の他にも石原慎太郎など多くの著名人が会員に名を連ねていたが、世間では空飛ぶ円盤の話でもしようものなら奇人変人扱いされる時代だったという。

 

SFという言葉も日本ではほとんど知られていなかった。1950年代には、海外のSF映画は日本でも上映されていたし、ゴジラはすでに登場していたが、SFとは呼ばれなかったようだ。引き続き最相葉月の前掲書によると、星新一ブラッドベリの『火星年代記』の日本語訳を読んで感銘を受けたのが昭和31年(1956)のことで、この年、星新一は日本空飛ぶ円盤研究会に入会している。SF同人誌『宇宙塵』の創刊が昭和32年(1957)で、この年、星新一は商業誌デビューを飾っている。翌年、星新一は「ボッコちゃん」を発表。雑誌『SFマガジン』の創刊が昭和34年(1959)12月で、1960年代に入ると英米のSFが大量に流入するようになる。星新一が初の単行本『人造美人』を刊行したのが、昭和36年(1961)のことである。昭和37年(1962)には、第1回日本SF大会(MEGCON)が催された。筒井康隆の商業誌デビューは昭和35年(1960)であり、小松左京の商業誌デビューは昭和37年(1962)である。1960年代初頭、日本のSFは生まれたばかりであった。

 

本書の解説によると、『美しい星』は、雑誌『新潮』の昭和37年1月号から11月号にわたって連載され、同年10月20日新潮社より単行本として刊行された。作者37歳の時の作品である。当時すでに日本を代表する小説家の一人であった三島が、空飛ぶ円盤や宇宙人を題材にした小説を発表するというのは、やはり冒険だったのではないだろうか。前述の通り、日本ではSFはマイナーな存在であったし、筒井康隆のエッセイなどに書かれているように文学的にはキワモノ扱いされていたのである。本書の解説を担当した奥野健男が指摘するように、日本の純文学は空飛ぶ円盤とか宇宙人のようなものを体質的に受け付けないのだ。

 

主人公の大杉重一郎は、ある日、自身が火星人であるという意識に目覚める。当時の感覚では代表的な宇宙人といえば火星人だったので妥当な選択と云えよう。他の家族も次々と自身が宇宙人であるという意識に目覚めるのだが、長男の一雄は水星人、妻の伊余子は木星人、最後に目覚めた長女の暁子は金星人とバラバラである。一雄と伊余子は重一郎に引きずられた気配が濃厚である。この二人は重一郎ほど宇宙人にはなりきれていない。そこは水星人と木星人だなと思わせる。暁子は重一郎とは別の意味で宇宙人である。金星は英語ではVenus、つまり愛と美の女神を象徴している。三島としては、暁子は金星人でなければならなかったと推測する。ここで重要なのは、バラバラの惑星からやって来た四人が地球で家族になるという宇宙的連帯なのだろう。暁子は金星人でなければならないので、一雄と伊余子に水星人と木星人が割り振られたと見る。内惑星が兄妹で外惑星が父母ということになる。

 

火星や金星、ましてや、水星や木星に宇宙人なんかいるわけないだろうというまっとうな意見を述べる人は多いと思うが、屁理屈はいくらでもつけられるものである。例えば、遠い昔に他の星系から訪れた高度に文明の発達した宇宙人の子孫とか。彼らは地球人には見つからないようにうまくカモフラージュしているだけなのだとか。この四惑星の住人はもともとは先祖を同じくするのだが長い年月の内に忘れてしまい、大杉家の四人にはそうした記憶がないのだとか。奥野健男は、こうしたSF的発想に疎い人であったようだ。この小説にSF作品としてのリアリティが欠けているということはないのである。本書の解説は昭和42年(1967)に書かれたものだが、当時の文芸評論家のSFに対する認識がこの程度のものであったことが分かる。

 

この小説の文体は、これでもかというくらい純文学の文体である。知的で格調高く硬質な文章である。『金閣寺』の文体と比較するとよくわかるが、文章のリズムがまったく違う。決して読みやすい文章ではないが、じっくりと読ませる刺激的かつ美しい文章である。久し振りにこういう文章を読んで心地よかった。この文体で内容は宇宙人に目覚めた妄想家族の話である。このギャップが面白い。

 

ついに日は雲をつんざいて眩ゆい顔を出した。この最初の一閃を受けて、投げられた矢を発止と受けとめるように、西南の富士の頂きの雪は、突然薔薇色に変貌した。

 

1960年代から日本のSFは快進撃を始めるが、筒井康隆によると、SF作家は文壇から差別されたままであったという。昭和45年(1970)11月25日、三島由紀夫割腹自殺。ミシマの行動は私にはいまだに理解できない。1970年代、日本にSFブームが訪れ、SFの「浸透と拡散」が始まる。映画『未知との遭遇』が公開され、ピンク・レディーが「UFO」を歌った時点で、空飛ぶ円盤は一般に完全に認知されたといってよいだろう。私は宇宙人と交信できるとか、私はUFOを呼べるとか、実は私は宇宙人だとか、私は宇宙人の子供を生んだとか、私は宇宙人に拉致されたとか、頭にマイクロチップを埋め込まれて操られたとかデンパな連中が続出したものである。こうして見てみると三島には先見の明があったと云えよう。

 

あれは小学五年生の時だっただろうか、夏だったか秋だったか、放課後だったか休日だったか。とにかく小学校の校庭で遊んでいた時のことだった。男女合わせて数人いたと記憶している。一人が急に空を指さして、「あ、UFO」と言った。指さす方を見てみると、北の空を白の大きなレゴブロックの上に一回り小さい赤のレゴブロックを乗せたような物体が、西から東へ向かって音もなく水平に飛んでいた。飛行機だとすれば少し低すぎる高さである。グライダーの類でもないし鳥でもない。UFOとしか言いようのない物体だった。UFOは空を滑るように飛んで行き、すうっと消えてしまった。私がUFOを目撃したのは、この時一回きりである。

 

この小説で三島が描く地上の情景や夜空の情景は美しいのだが、対照的に登場人物は皆俗物ばかりであり、その言動は卑小で醜く滑稽である。彼らを描写する筆致は皮肉が効いていて容赦ない。この星の自然の美しさと人間社会の醜悪さが効果的に対比されている。この小説でこれだけ笑えるとは思わなかった。

 

大杉家の四人は宇宙人の自覚を持ちながら、その思考はどこまでも人間的である。主人公の妻は家庭的で平凡な主婦そのものであり、彼女は夫に影響されているに過ぎない。長男は性欲に従順な学生であり、軽薄で幼稚な野心家に過ぎない。長女は「快い怠惰な無関心」を持する美人である。何不自由なく育てられた美人は充足しているのである。

 

主人公の大杉重一郎は資産家だが劣等感を持った無為の人に過ぎない。彼は繊細で想像力豊かな人間であり、当時の東西冷戦下で現実味を帯び始めた核戦争に対する不安に耐えきれなくなった結果、宇宙人に目覚めたと云えよう。彼の宇宙人としての使命は、地上の危機を救うこと。彼をひと言で表現すると「切実」である。彼は東西両陣営の指導者に手紙を書いたり、同志を募ったり行動的であるが、地球人の大杉重一郎では恐らくこのように行動的にはなれなかったのであろう。自身の不安を払拭するためには宇宙人にならざるを得なかったのである。彼は、高等学校の同窓会で地球を救済すべく演説をぶつのだが相手にされない。彼が切実になればなるほど滑稽さが増すのは何故だろう。この星には人類を滅ぼしても余りあるほどの核兵器があるというのに。同窓会の出席者は皆俗物である。危機感の欠乏という意味では、筒井康隆の『アフリカの爆弾』などを思い出した。

 

彼は地球人の病的傾向をよく承知していた。民衆というものは、どこの国でも、まことに健全で、適度に新しがりで適度に古めかしく、吝嗇で情に脆く、危険や激情を警戒し、しんそこ生ぬるい空気が好きで、……しかもこれらの特質をのこらず保ちながら、そのまま狂気に陥るのだった。 

 

民衆というものは、戦争が始まろうが、核兵器が大量に存在しようが、放射能が垂れ流されようが、日常にしがみつくものであり、そうした状況が長く続けば感覚が麻痺してしまって、戦争だろうが核兵器だろうが放射能だろうが、気にならなくなるものなのである。

 

宇宙人であるという自覚は、自らが選ばれた存在であるという優越感をもたらす。これは疎外感や孤独感の裏返しである。長男の一雄の場合は、宇宙人であるという幼稚な優越感に満足しているに過ぎない。長女の暁子は、宇宙人であるという自覚から孤高の存在となるが、端から見れば自意識過剰の妄想女子に過ぎない。彼女の金星人としての最高の価値は「純潔」にある。ヴィーナスの純潔という逆説を作者が気に入ったに違いない。暁子は文通相手だった金沢に住む自称金星人の青年・竹宮に会いに行く。金星人だと自称するだけでも十分に胡散臭い青年であるが、暁子はすっかり信じてしまう。二人のやりとりを読んでいると、その滑稽さにムズムズしてくる。

 

竹宮の美意識には三島の美意識が投影されている。竹宮にとって、空飛ぶ円盤は美的要請によって出現する存在だという。この世界は虚妄であり、確実なのは円盤の存在と金星世界の輝かしい美だけなのだという。かなり観念的であるが、妄想女子を口説くにはこういう殺し文句が有効であるか。空飛ぶ円盤は、火星人にとっては地球救済の象徴であるが、金星人にとっては美の象徴であり、ここに大杉家の宇宙的連帯に亀裂が生じることになる。暁子は金沢の海で空飛ぶ円盤を目撃するが、そのことを家族には内緒にする。

 

「だまされる人がいるから、嘘も成り立つわけね」

 

この小説で描かれる空飛ぶ円盤目撃の描写は、よくある空飛ぶ円盤目撃談を踏襲している。三島自身は、結局空飛ぶ円盤を目撃することはできなかったのだろう。その無念がこの小説を書かせたのかも知れない。三島にとって空飛ぶ円盤は芸術上の観念的存在であるようだ。因みに、暁子が空飛ぶ円盤を目撃した内灘の北に位置する羽咋市はUFO出没多発地帯として有名である。よく知らないが、内灘町でUFOといえば、河北潟の内灘(U)噴水(F)オブジェ(O)のことらしい。

 

第四章の冒頭に出てくる「見えざる遊星ケトウ」は、インド天文学において日食や月食の原因とされた悪魔の星で、計都星のことである。『ガリバー旅行記』に出てくるラピュータ(ジブリの元ネタ)のように科学者が住んでいるという話を昔読んだ記憶があるのだが、調べてみても出典が分からなかった。

 

主人公に敵対する自称白鳥座六十一番星あたりの未知の惑星から来た宇宙人だという仙台の三人組も典型的な俗物である。白鳥座六十一番星は固有運動が大きいことで古くから知られており、アシモフなどのSFにも登場する連星系である。この辺りにも、三島のSFに対する造詣の深さがうかがわれる。

 

リーダー格の羽黒真澄は独身の万年助教授である。床屋の曽根は、他人の噂話が死ぬほど好きで嫉妬深くて下品な小市民である。羽黒の教え子だった銀行員の栗田は、惚れた女が他の男に殺されてから神経衰弱になり、すべての女を憎悪している。三人の共通項は他者に対する憎悪。最終目標は人類滅亡。草生えるわ。この三人もある日、空飛ぶ円盤を一緒に目撃して以来、自身が宇宙人であるという意識とその使命に目覚めたのだった。その言動はまったく宇宙人らしくなく俗物そのものである。曽根と栗田は羽黒に唆されてその気になっているに過ぎない。この三人は宇宙人になりきることで日頃の世間に対する鬱憤を晴らしているのだ。彼らの言動には大笑いである。ミシマ文学って、こんなに笑えたっけ?

 

暁子が金沢で竹宮に会ってから三ヶ月後、暁子の妊娠が発覚するが、暁子は処女懐胎だと言い張る。本人に処女喪失の記憶がないのである。あるのは円盤を目撃した時の恍惚の記憶だけである。薬でも嗅がされたか。それにしても、身体の変化くらい気がつきそうなものである。世の中には、物事を自分にとって都合のいいように解釈したり、都合の悪いことはさっぱり忘れてしまうことができるという特技を持つ人もいるものである。彼女もそういうタイプの人間か。あるいは、竹宮は本当に金星人だったのかも知れない。金星人の性交が地球人と同じ方法であるとは限らない。なにしろ金星人は美的な種族なのだから。

 

火星人にとって、美とは世界を虚妄にする存在であるらしい。父親は、金沢へ向かい竹宮を捜すが竹宮はすでに何処へか消えてしまっていた。竹宮という名前は実は偽名で、暁子に話した素性もすべて嘘で、女の出入りの激しい男だったことが発覚する。父親は、金星人の娘が地球人にだまされたと判断する。しかしながら、竹宮が金星人ではないという証拠はどこにもないのである。女好きの金星人だったかも知れないし、地球の女を調査していたのかも知れないし、地球に舞い降りた金星人の女を捜していたのかも知れない。目的が達せられたので金星の流儀で消えたのかも知れない。竹宮に会えなかった父親には判断のしようが無いはずであり、父親の判断はまことに人間的な判断であると云えよう。

 

この小説の最大の読みどころは、やはり後半の人類滅亡の危機を救おうとする主人公の火星人と人類滅亡を熱望する仙台の自称白鳥座六十一番星あたりの未知の惑星から来た宇宙人との論戦であろう。この小説が発表された昭和37年は、人類が核戦争の危機に最も近づいた年であると云われている。この小説が刊行された昭和37年10月は、キューバ危機の真っ只中だったのである。この小説が発表されると大きな反響があったという。評価をめぐって論争が巻き起こったともいう。この小説については多くの論評があるし研究もされているが、小難しいことは私の手に余るのでここでは触れない。

 

人類滅亡といった大きなテーマは元来SFが得意とするところである。人間の目線の高さでこういった大きなテーマを描くのは無理があるので、人類を見下ろす上からの目線で人類を客体化して描く必要がある。上からの目線といっても神の目線で描くと宗教的になってしまうので、SF的目線が必要になってくるのである。三島由紀夫はSFに理解があったので、この小説に宇宙人の目線を採用するという発想ができたのだろう。それによって人類滅亡といった大きなテーマを扱うことを可能にしたのである。この小説から宇宙人や空飛ぶ円盤という設定を除くと、かえってイタい小説になってしまうであろう。

 

しかしながら、ここまで登場人物の俗物性を散々見てきているし、宇宙人の目線といっても、ただの人間が宇宙人になりきっているだけなので滑稽さが伴う。人類の滅亡を待望する羽黒は、理論的に理性の面から人類が滅亡するのは必然であると主張する。一方、主人公の大杉は、感性の面から詩的に人類は救われるべきであると主張する。この論争は三島由紀夫自身が考え抜いた自問自答なのだろう。三島由紀夫の右脳と左脳が論争しているかのようである。宇宙人が人類を滅亡させるのではなくて、人類の自滅を待っているだけというのはSF的には、宇宙カジノで人類滅亡の時期を賭けている宇宙人たちを想像できて、ちょっと笑える。宇宙人にとって、人類滅亡はありふれたエンタテインメントに過ぎないのかも知れない。

 

羽黒たち三人組は、次第に言葉遣いが乱暴になり、俗物性を丸出しにして、主人公を口汚く罵倒し退場する。彼らは主人公をやり込めたつもりになって、いい気になっているのだ。論争の高尚さとのギャップに笑わせられる。人類滅亡派の優勢勝ちという感じである。平和への希望というのは個々の内にあるうちは弱いものである。滅びの美学というのがあるが、三島由紀夫の最期を思うと、最終的には三島は滅びの美学にとらわれたのだろうか。

 

「美しい」という概念は主観的なものだから、人によって感じ方は異なるものである。地球を美しいと感じるのは、我々が地球に生まれ育まれたからに過ぎない。宇宙人から見た地球が美しいとは限らない。人類などというものは、団子のカビのようなものに過ぎないというショートショートを昔読んだ記憶がある。私は、放射能が垂れ流されているこの星がもはや美しいとは思わない。玉に少しでもキズがついたら価値がなくなってしまう。私は、あの日以来、この星に関して投げやりである。

 


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昭和44年(1969)、筒井康隆が『霊長類南へ』を発表する。某国の核ミサイル発射場の兵士達が、つまらないことで喧嘩を始めて、うっかり核ミサイル発射ボタンを押してしまったあるね。その結果、世界全面核戦争が始まって人類が滅亡するというSFである。生き残った最後の人間が死ぬ間際に発した最期の言葉は「ナンセンス」であった。筒井康隆は、東西冷戦下における大量核兵器の存在と人類滅亡をドタバタにして笑い飛ばしてしまったのである。私は、高校一年の時にこの小説を読んで感銘を受けたものである。人類滅亡という最大の悲劇は裏を返せば喜劇に過ぎないということをこの時知った。人類の置かれている状況はまさに「ナンセンス」なのである。三島由紀夫の『美しい星』も人類滅亡という深刻な悲劇を扱いながらも登場人物の俗物性は喜劇的ですらある点において共通するものがあると(強引に)考える。

 

1990年代に東西冷戦構造が終結し、全面核戦争による人類滅亡の危機は去ったかのように思われるが、世界情勢はかえって分かりにくくなった。テロリズムは厄介な問題だが、今のところ人類滅亡にすぐに直結することはない。どこかの貧乏国が見栄をはって高価な花火を打ち上げた程度では大した問題にならない。騒いでいるのは阿呆な国だけである。しかしながら、いまだに人類が滅亡しても余りあるほどの核兵器が地上には存在していることには変わりないのである。単に我々が麻痺してしまっているだけなのである。誰かがうっかりボタンを押してしまう可能性はゼロではない。従って、この小説は今でもリアリティを持ち続けているのである。そのことを忘れてはならない。

 

例えば、この小説の設定を現代的に地球温暖化に置き換えたら台無しになってしまうと考える。核兵器はボタンを押したら即バッドエンドである。地球温暖化では弱いのである。核戦争ほどのインパクトはない。この小説のテーマは核戦争による人類滅亡でなければならないのだ。また、この小説の喜劇性は深刻な悲劇の裏返しとしてあるのである。決して、変なポーズで笑いをとるような中途半端なことをしてはならない。

 

大杉重一郎は、仙台の三人組との対決の後、入院する。本人には伏せられたが、末期の胃がんだった。重一郎は暁子に迫られて、竹宮は地球人の女たらしに過ぎなかったことを明かす。暁子は、少し揺らぐが妄想力で乗り越える。暁子の妄想力は揺るぎがない。妄想力の勝利と云えよう。暁子にとって金星人というのはアイデンティティの一部になってしまっているのだ。ここまでくれば、暁子はもう金星人でいいのでないかとすら思われてくるから不思議だ。暁子は、重一郎が末期がんで手の施しようがないことを本人に明かす。恐ろしい子である。重一郎は絶望に打ちひしがれる。重一郎の設定による宇宙人は、地球人の肉体に宇宙人の精神が宿るというものだったのだが、肉体が死ぬと精神もまた死んでしまう設定なのだろうか。精神だけ火星に帰るという発想は無かったのだろうか。彼は己の死に意味を見出すために宇宙の最高意志との交信を試みるが、なかなか上手くいかない。それでも待ち続けると、夜明け前に啓示が訪れる。

 

大杉一家は、宇宙の最高意志からの啓示に従って、指定された場所へ向かう。気持ちがバラバラになっていた家族は最後に再び宇宙的連帯を取り戻す。家族そろって空飛ぶ円盤に迎えられるのである。

「何とかやっていくさ、人間は」

投げた。それが結論かい。実際、何とかやっていくのだよな、人間は。人類はずっと綱渡りをしてきたのだと思うよ。そして、これからも綱渡りを続けて行くのだと思うよ。結局のところ、なるようにしかならないのだと思うよ。

 

この小説を家族小説として読むと、東西冷戦下の核戦争による人類滅亡の危機に敏感に反応した父親に引きずられた家族が、世間から孤立し、家族の気持ちもバラバラになるが、娘の不祥事や息子の挫折や父親の末期がんを乗り越え、再び家族の団結を取り戻す話ということになろうか。そこには、人類滅亡という一家族には手に負えない深刻な悲劇に戦きながらも、寄り添いあいながら平和を希求する平凡な家族の姿が映し出される。

 

向かう先はどうやら明治大学生田キャンパスあたりらしい。戦時中は陸軍登戸研究所があった場所である。この小説は、ここまではまったくSFではない。登場するのは宇宙人を自称しているが、ただの人間である。空飛ぶ円盤の目撃も宇宙意志との交信も自己申告に過ぎない。ところが、最後の場面で超現実的な光景が現出する。

「来ているわ! お父様、来ているわ!」

 と暁子が突然叫んだ。

 円丘の叢林に身を隠し、やや斜めに着陸している銀灰色の円盤が、息づくように、緑いろに、又あざやかな橙いろに、かわるがわるその下辺の光りの色を変えているのが眺められた。

三島由紀夫は、どうしても空飛ぶ円盤に遭遇したかったに違いない。自分の小説で実現させてしまった。この小説は、この場面の解釈次第でSFとして読むこともできる。そういう仕掛けになっているのだ。この円盤が象徴するものが「恩寵」なのか「幻滅」なのかは、読者の判断に委ねられている。この小説が純文学なのかSFなのかは重要ではない。この小説は、紛れもなくミシマ文学なのだから。

 

 

 

 

美しい星 (新潮文庫)

美しい星 (新潮文庫)

 

 

 

📄関連図書

霊長類 南へ (角川文庫)

霊長類 南へ (角川文庫)

 

😺★★★★☆

🐱三島由紀夫の『美しい星』とは対極にある小説だが、テーマは共通している。バカバカしさの極地。霊長類必読の書である。

 

 

 

 

 

📄伝言板

高校一年の時の国語の先生に連絡です。長らく提出を怠っておりました夏休みの宿題の読書感想文ですが、これをもって提出したことにさせていただきます。よろしくお願いしま~す☺

 

 

 

 

 

 

 

はてなブログ一年目の反省会


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子供の頃、夏休みの宿題でいちばん嫌だったのは、読書感想文だった。本を読むこと自体は好きだったけれども、私にとって読書は暇つぶしであり、現実逃避の手段に過ぎなかった。楽しい時間が過ごせられればそれで満足だったのである。本を読むという行為は個人的なものだと思っていたし、どうして本を読んで感じたことをわざわざ言語化して他者に伝えなければならないのか納得できなかったものだった。

 

高校一年の夏休みの宿題の読書感想文は、結局提出しなかった。提出しなくても二学期の成績が一段階下がるだけである。国語の成績が一段階下がる程度ですむならば、面倒くさい読書感想文なんか書かなくてもいいのではないかと判断したのだった。もし、高校一年の夏休みに戻れたならば、三島由紀夫の『金閣寺』の感想文を書いてもよいかなと思う。

 

高校二年からは理系クラスだったので、読書感想文の宿題自体無かったと記憶している。あまりにも提出率が悪くて、国語の先生があきらめただけだったかも知れない。ともかく、私は義務教育が終わってからは読書感想文というものを書いていない。そんな私がブログで読んだ本の感想を書こうというのは無謀な試みだったかも知れない。

 


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昨日、はてなブログからメールが届いて、ブログを開設してから一年経ったことに気がついた。ケータイをようやくスマホに変えたときに、うっかり〈はてなブログ〉のアプリをダウンロードしてしまったのだった。数年前から人生何度目かの読書ブームが続いており、読書録をつけることにしたブログだったのだが、ブログを始めてから読書量が減少してしまった。

 

理由としては、まず、感想を書くことに時間をとられるようになったことが挙げられる。今まで漫然と本を読んでいたに過ぎないことを思い知らされた。私は、自分が読書家だと思っていたが、それは勘違いであった。単にお金のかからない暇つぶしだから本を読んでいただけだったようだ。子供の頃から全然進歩していない。

 

次に、テレビ番組の感想を書き始めたことが挙げられる。せっかくブログを始めたので、いろいろ試してみようという気になったのだが、特に発信すべき情報は持たないので安易にテレビ番組の感想に手を出してしまった。

 

もともと私は、テレビ番組のあまりのつまらなさに、数年前からほとんどテレビを見なくなっていたのだった(『ブラタモリ』は例外)。それで自分の中に読書ブームが始まったのだった。そんな私がテレビドラマの感想をブログにつけるというのは、やはり無謀な試みだったかも知れない。

 

そんなこんなで迷走を続けているうちに私の読書は質も量もすっかり低下してしまい、ブログの方もグダグダになってしまった。やり始めると凝り始めてしまい、凝り始めるとやり過ぎてしまい、やり過ぎると、ハッと気がついて飽きてしまう。まあ、私の人生ではよくあることなので、あまり気にしてはいないが。

 

大河ドラマ『おんな城主直虎』については、感想は休止したが、視聴は続けている。小野政次の最期も見届けたし、もうよいかなという気分である。小野政次の最期については、やり過ぎではないかと思った。阿部サダヲ徳川家康はどうしても受け入れがたい。

 


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先月から読書録中心のブログに戻したのだが、一度ペースが乱れるとなかなか元には戻らないものである。ブログに対する熱意も冷めてきているのか、あまり気が乗らない。どうしたものか。『ブラタモリ』の感想は再開しようかなという気もあるのだが、どうしたものか。とりあえず、マイペースで、無理をせずにしばらくやっていくことにしよう。

 

 

 

 

 

 


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Pinterest

 

 

 

 

 

作者にまったく共感できない小説の感想は書けないものだ

8月の読書録04ーーーーーーー

 若冲

 澤田瞳子

 文春文庫(2017/04/10:2015)

 ★★☆

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伊藤若冲『仙人掌群鶏図』西福寺

 

 

私が初めて若冲の作品を知ったのは、小学生の時だった。切手の鶏の絵を見て、むっちゃカッコええなあと思い、強く印象に残ったのであった。その後、世間で伊藤若冲ブームが起こり、あの時の鶏は若冲だったのかと思い出した。

 

昨年は、伊藤若冲生誕三百年ということで、若冲関連の催しでいろいろ盛り上がったが、私もピンタレストPinterest)で若冲の作品の画像を集め、この一年で数百点の作品の画像を保存した。有名な作品は、ほとんど全て網羅できたと思う。また、若冲に関して色々調べたり、若冲関連の書籍を読んだりもした。従って、ある程度の知識と、自分なりに作り上げた若冲像があって、本書を読むことができた。

 

伊藤若冲が妻帯者だったという記録は残されていない。生涯独身を通したものと思われている。しかしながら、父親の死によって23歳の若さで四代桝屋源左衛門を継いだ若冲に縁談話が何度もあったであろうことは想像に難くない。先代の未亡人である若冲の母親は、さぞかし気を揉んだことであろう。それでも妻帯しなかったということは、早くから弟に家督を譲り隠居しようと決めていたのだろうと考えることも出来る。当時、40歳での隠居は、異例に早いということはないという。若冲は出家を希望していたのではないかと思わせる形跡もある。

 

しかし、実は結婚の経験があったのではないか、記録に残せない事情でもあったのではないかと、想像をたくましくすることはできる。本書の作者もその様なことを考えたのだろうか、本書では若冲に妻がいたという設定になっている。そして、その妻は姑によるいびりと絵を描いてばかりの夫の無関心とから自殺をしたということになっている。さらに、若冲が妻を見殺しにしたと思い込んでいる義弟との確執により対立の構造を作り出している。この義弟は若冲の贋作を描く絵師になるのだが、読み進めていくと、若冲の鏡像的な分身であることが分かる。

 

本書を楽しめるかどうかは、この設定に乗れるか否かにかかっていると思うが、私は乗れなかった。こういった構造に面白さを感じないし、若冲の真実なり、若冲の作品の真実なりが描き出されているとは思われず、作者にまったく共感できなかった。本書は、作者が若冲の作品から着想を得て、歴史上の若冲とは似て非なる虚構の絵師の物語を書いたものに過ぎず、歴史上の若冲を描き出したものではないと解している。それで面白い話になったかというと、そうは思われず、私にはつまらない小説だった。

 

 


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小学生のとき、カッコええなあと思った鶏はこれだった。西福寺の仙人掌群鶏図の鶏だった。

引用元:Red Junglefowl stamps - mainly images - gallery format

 

 

 

以下、具体的に感想を書こうと思ったのだが、気が乗らないまま一週間過ぎてしまった。読んでつまらなかった本の感想に時間をかけるくらいなら、別の本を読んだ方が有意義かとも思われる。世間の評価はどうだか知らないが、私には縁のない小説だったということで、ここで打ち切ることにする。

 

伊藤若冲については、禅宗との関係が重要だと思う。本書では、その部分についてほとんど触れられていないのが最大の不満。