読書録2018ーーーーーーーーー
角川文庫(2018/02/25:2015)
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宇宙の全ての物理現象が古典物理学(ニュートン力学)で記述可能であり、かつその全ての情報を知りうる知性が存在するならば、宇宙は決定論的であり、その知性は宇宙の全ての物理現象を予測することが可能である、というのがフランスのニュートンと呼ばれた天才科学者ピエール・シモン・ラプラスが唱えたいわゆる「ラプラスの魔」である。
ラプラスは「偶然とは無知の告白である」という言葉も残している。これは例えば、我々がサイコロの出目を予測できないのは、それが偶然の結果であるからではなく、サイコロの出目を予測するだけの情報を持たないからである、ということを言っている。
こうした世界観に立てば、宇宙はその誕生から終焉までシナリオが全て決まっているということになる。19世紀末の物理学者たちは、古典物理学によって宇宙の現象は全て解明できると信じていた。
ところが20世紀初めにアインシュタインの相対性理論が登場し、ニュートン力学だけでは宇宙の全てを記述することができないことになり、量子力学の登場により量子レベルの物理現象は不確実性を持つことが明らかにされた。
さらに、20世紀後半にカオス理論が登場し、複雑性の科学がほとんどの自然現象は非決定論的であることを明らかにしたのである。我々が気象現象を正確に予測できないのは、情報量が不足しているからではなく、気象現象は本質的に非決定論的な現象だからなのである。
従って、「ラプラスの悪魔」には全ての気象現象を正確に予測することはできないことになる。現代の技術でも短期的ならば、かなりの精度で気象現象を予測することは可能だと思うが、古典物理学が線形の科学であるのに対して、複雑性の科学は非線形の科学なので、アプローチの仕方が全く異なるのである。
で、何が言いたいかというと、この小説に登場する特殊能力者たちは、短期的未来のピンポイントの気象現象を正確に予測していることになるけれども、これは「ラプラスの魔」的な能力だけでは不可能なことのなので、このタイトルは少し違うのではないかと言いがかりをつけたかっただけです。
この小説のこうした設定は、19世紀の古典物理学者たちの夢の世界を描いたということになるでしょうか。著者は理系出身だけあって、科学的知識をうまくフィクションに活かした作品が多いですが、科学的知識はフィクションに飛躍するための単なる材料に過ぎません。なので、必ずしも科学的知識が正確に反映されているとは限らないのですが、中には真に受けちゃう人もいるんだろうなあ。
この小説で印象的なのは、やはり父と子の関係でしょう。羽原父娘と甘粕父子が対照的に描かれています。羽原全太郎は本物の天才で甘粕才生は偽物の天才という感じがします。人間は不完全な存在なので、完璧主義者はどこかで嘘をつかなくては完璧にはなり得ない。それでも自分に嘘をつかないのが真の完璧主義者だと思います。甘粕才生はニセモノに過ぎない。
小説としては不完全燃焼な感じがしましたが、羽原円華は魅力的なキャラだと思いました。シリーズ化はされないのでしょうか。ライバルにシュレーディンガーの猫娘とかマンデルブロの混沌野郎とか出てきて欲しいものです。
未来なんて、誰にもわかりっこない…