森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

鎌田浩毅先生の『地学ノススメ』は現代日本人の必修科目(1)地質時代区分/プレートテクトニクス

11月の読書録07ーーーーーーー

 地学ノススメ

 鎌田浩毅

 講談社ブルーバックス(2017/02/20)

 ★★★★

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地学ノススメ 「日本列島のいま」を知るために (ブルーバックス)

 

 

私は、宇宙科学には昔から興味があって一般向けの解説書をよく読むのだが、地球科学の方はこれまであまり興味がなかった。『ブラタモリ』を視聴していても地質の話をそれほど熱心に聞いていたわけでも無かった。それが何故か、最近になって急に興味が湧いてきて、とりあえず講談社ブルーバックスの『日本列島100万年史』(山崎晴雄・久保純子著) と『人類と気候の10万年史』(中川毅著) を読んでみた。どちらもなかなか興味深い内容で、これまであやふやだった地球科学に関する知識が少しはっきりしてきたように思う。この辺で、基本的なことをちゃんと把握できているか一度確認しておいた方が良いだろうと考えて、次に本書を読んでみた。

 

著者は、京大で20年にわたって地学を教えておられる地球科学者である。特に1・2回生向けの「地球科学入門」の講義は、立ち見が出るほど学生に人気で、教養科目1位の評価を得ているという。科学啓発にも熱心な先生で、一般向け解説書も数多く出版されている。「出前授業(アウトリーチ)」をされたり、テレビやラジオにもよく出演されているのでご存じの方も多いと思う。独特のファッションセンスをお持ちのオシャレな先生である。

 

これはよく聞くことだが、2011年の東日本大震災以降、日本列島の地盤は不安定になっているという。近年頻発する地震や火山の噴火は、この地盤に加えられた歪みを解消しようとして発生しているという。著者によると、千年ぶりの「大地変動の時代」が始まってしまったのだそうだ。今後、数十年という期間にわたって、地震と噴火は止むことはないだろうと著者は予想している。また、南海トラフ地震などの激甚災害は、いつ起きても不思議ではない時代に入っているということもよく聞く話である。それにもかかわらず、日本の学校教育における地学は他の理科の科目に比べて軽視されていることが、著者にとって危惧するところであるらしい。

 

そうした現状があり、本書のサブタイトルは『「日本列島のいま」を知るために』となっている。

地学の知識は、単に好奇心を満たすだけではなく、災害から自分の身を守る際にもたいへん役立つものです。その意味からも、私は一人でも多くの日本人に、地学に関心を持っていただくことを願っています。そのために日本列島で始まった種々の地殻変動がいかなるメカニズムで起きているかを理解し、効果的な対処をしていただきたいのです。

大学の講義でも「おもしろくてタメになる」をモットーに掲げている著者が、「地学の中でもわれわれに身近なテーマに絞り、ポイントをわかりやすく解説」した本書は現代日本人の必修科目といっても過言ではないだろう。以下、本書を読んで印象に残ったことや地学の基本用語などを抜き出してメモしておこうと思う。

 

 


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第1章🌏地球は丸かった

※この章は「つかみ」の章で、人類の地球の形に関する認識の変遷が簡潔に説明されている。現在認識されている地球の形は、洋梨の形というよりもジャガイモのように不規則な凸凹がある非常に丸い形ということになるとか。

 

 

第2章🌏地球の歴史を編む

※この章では、岩石や地層から「時代の情報」と「環境の情報」を読み解き地球の歴史を編み上げる地質学の基本中の基本が紹介されている。

◾地層累重の法則/露頭(岩石や地層が地表に露出しているところ)/褶曲/鍵層/地層の対比

◾化石(過去の生物の遺骸や生きていた痕跡が残されたもの)/生痕化石/印象化石

示準化石(地層の年代を示す化石)~古生代では三葉虫や筆石やフリズナ中生代ではアンモナイトや恐竜、新生代では貨幣石や哺乳類など/微化石~放散虫や有孔虫や珪藻など/微化石年代

◾示相化石(過去の環境を表す化石)~サンゴやシジミやメタセコイアなど

◾ウィリアム・スミス(1769-1839 英)~地質学の父/地質図/地質学は「露頭観察に始まり、露頭観察に終わる」

 

 

第3章🌏過去は未来を語るか

※この章では、「生命と地球の共進化」(生命と地球は同時進行で変化してきたこと)という認識にたどりつくまでの論争の歴史が紹介されている。

◾生物の種としての生存期間は30万~40万年ほど。属としての生存期間は100万~300万年ほど。

◾ニコラウス・ステノ(1638-1686 デンマーク)/地球の年齢をめぐる科学と神学の対立

アブラハム・ヴェルナー(1750-1817 独)の水成説(岩石は水中での堆積作用によってできた)/ジェームス・ハットン(1726-1797 英)の火成説(岩石は地球内部の熱の作用でつくられる)/火成説が主流になる

◾ハットンの斉一説(地球の歴史では斉しく一様な現象が発生してきたと捉え、過去に起きた地質現象は現在進行中の現象と同じ自然法則のもとで形成されたとする)→「現在は過去を解く鍵」→「過去は未来を解く鍵」/ハットン~近代地質学の父/チャールズ・ライエル(1797-1875 英)~斉一説を広める

◾ジョルジュ・キュビエ(1769-1832 仏)の激変説(天変地異のあとに新しい生物が発生した)~ヨーロッパの思想界が支持(反復創造説)

チャールズ・ダーウィン(1809-1882 英)/『種の起源』(1859) /自然淘汰/漸進的進化観/斉一説と激変説の激しい論争→最大の争点は地球の年齢

◾放射年代測定法→地球の年齢は約46億年/古生代の開始は5億4000万年前/中生代の開始は2億5000万年前/新生代の開始は6500万年前

◾巨大隕石の衝突による恐竜絶滅という激変説がほとんど間違いないことが証明される/地球史上大量絶滅事件は5回起きている/生物進化に関しては現在でも斉一説もしくは中間的な漸進説が主流

 

 

🌏地質時代区分

※カッコ内は開始年代(年前)

顕生代 ーーーーーーーーーーーー

 新生代 第四紀  完新世(1.17万年)
          更新世(258.8万年)
     新第三紀 鮮新世(553.3万年)
          中新世(2303万年)
     古第三紀 漸新世(3390万年)
          始新世(5600万年)
          暁新世(6500万年)
 中生代 白亜紀 (1.45億年)
     ジュラ紀(2.01億年)
     三畳紀 (2.52億年)
 古生代 ペルム紀(2.99億年)
     石炭紀 (3.59億年)
     デボン紀(4.19億年)
     シルル紀(4.43億年)
     オルドビス紀(4.85億年)
     カンブリア紀(5.41億年)

原生代 ーーーーーーーーーーーー

 新原生代(10億年)
 中原生代(16億年)
 古原生代(25億年)

太古代 ーーーーーーーーーーーー

 新太古代(28億年)
 中太古代(32億年)
 古太古代(36億年)
 原太古代(40億年)

冥王代 ーーーーーーーーーーーー

 地球誕生(46億年)

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更新世はさらに

  後期(12.6万年)

  中期(78.1万年)

  カラブリア(180.6万年)

  ジェラシアン(258.8万年)

と、区分される。このうち中期が「チバニアン」と命名されることが確実になったという報道が11月にあった。

 


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※顕生代は「生物が顕著に見られる時代」という意味/古生代が無脊椎動物・昆虫・魚類・両生類の時代/中生代が爬虫類の時代/新生代が哺乳類の時代

 

 

第4章🌏そして革命は起こった

◾アルフレート・ウェゲナー(1880-1930 独)/大陸移動説/『大陸と海洋の起源』(1915) /当時は大陸移動の原因を説明できなかったので受け入れられなかった/グリーンランド探検に出向いたまま行方不明になる

大西洋中央海嶺の発見(第二次世界大戦中)/大陸移動説の復活/ハリー・ヘス(1906-1969 米)の海洋底拡大説

プレート・テクトニクス (Plate Tectonics) の完成(1968)/地球科学の革命

◽地球の表面はプレートという巨大な岩盤で構成され、その厚さは平均して100kmある。このプレートは大西洋中央海嶺から生み出され、海溝に沈み込む。

◽「プレートが誕生する場所」は深海底にある /アイスランドでは唯一陸上で見られる

◽「プレートが消滅する場所」は海溝にある(沈み込み帯)/日本列島がその典型

◽「プレートがすれ違う場所」ではプレートどうしが横ずれし誕生も消滅もしない/サンアンドレアス断層(米国加州)が有名

※1970年代以降、プレートテクトニクスは地学の基本的な考え方となる。

ヒマラヤ山脈の誕生/超大陸パンゲア/大陸衝突/造山運動/アルプス山脈の形成/褶曲山脈

◽かつて南極大陸とくっついていたインド大陸が分裂、移動し、ユーラシア大陸と衝突した結果、ユーラシアプレートの下にインドプレートが潜り込むことによって、ヒマラヤ山脈が隆起した。

◽インドプレートは現在でも1年に5cmの速さで北上しているため、ヒマラヤ山脈は毎年約5mmずつ高くなっている。この力が中国内陸部でしばしば起きる地震の原因になっている。

◽ヨーロッパのアルプス山脈も、北上するアフリカ大陸が、ヨーロッパ大陸にゆっくりと衝突することによって、巨大な隆起地形がつくられたことによる。アルプス山脈も毎年約1mmほど隆起している。

 

 


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グトルフォス Gullfoss(アイスランド

アイスランド語で「黄金の(gull)滝(foss)」

 


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ラーカギーガル Lakagigar(アイスランド

※英語では「ラキ (Laki)」1783年に大噴火した火山

 


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アイスランド

※2つの黒丸のうち左下が首都レイキャビク Reykjavík。その下を大西洋中央海嶺 Mid-Atlantic Ridge が通っている。グトルフォスはレイキャビクから右上(北東)方向の中央の火山の下(南)辺り。ラーカギーガルは、大西洋中央海嶺が交差しているところにある二つの火山の左の方。

※右上の黒丸はシンクヴェトリル地溝。次の記事で紹介します。

 

 


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プレート

 


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左から、プレートが誕生する場所、プレートが消滅する場所、プレートがすれ違う場所。

 

 
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大陸の推移

上左がペルム紀末(2億5000万年前)超大陸パンゲア/上右が三畳紀末(2億年前)ローラシア大陸ゴンドワナ大陸・テチス海/中左がジュラ紀末(1億4500万年前)/中右が白亜紀末(6500万年前)/下が現代(図中の年代は多少異なります)

 


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インド大陸の移動

 

 


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🐱次の記事へと続きます

鎌田浩毅先生の『地学ノススメ』は現代日本人の必修科目(2) - 森の踏切番日記

第5章🌏マグマのサイエンス(火山)

第6章🌏もうひとつの革命(プルームテクトニクス

鎌田浩毅先生の『地学ノススメ』は現代日本人の必修科目(3)大量絶滅/巨大地震/熊本地震/破局噴火 - 森の踏切番日記

第7章🌏大量絶滅のメカニズム

第8章🌏日本列島の地学(地震

第9章🌋巨大噴火のリスク

 

 

 

 

『人類と気候の10万年史』を読む ~奇跡の湖・水月湖の話

11月の読書録06ーーーーーーー

 人類と気候の10万年史

 中川毅

 講談社ブルーバックス(2017/02/20)

 ★★★★

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福井県三方五湖

🔍レインボーライン山頂公園Google マップ

 

 

三方五湖の思い出

福井県若狭地方にある三方五湖は、三方湖(みかたこ)、水月湖(すいげつこ)、菅湖(すがこ)、久々子湖(くぐしこ)、日向湖(ひるがこ)の五つの湖の総称でラムサール条約指定湿地にも登録されています。

上の写真はその中の最大の湖である水月湖(の一部)です。水月湖とつながって奥の小さい湖が菅湖、左側の湖が日向湖でその奥が久々子湖になります。三方湖は写真には写っていませんが水月湖の右側にあります。写真の左側が若狭湾になります。

五つの湖のうち、日向湖は海水、三方湖は淡水、残りの三つの湖は汽水ですが、それぞれ海水と淡水の比率が異なります。そのため五つの湖の色はそれぞれ異なります。Googleマップの航空写真で見ると色の違いがよく分かります(水月湖菅湖は微妙)。

三方五湖には小学生の頃に一度遊びに行ったことがあります。レインボーラインをドライブしたと思うのですが、山頂公園のことをかすかに思い出す程度で、あまりよく覚えていません。三方五湖と聞いて思い出すのは、むしろ縄文人のことです。

何故かというと、三方五湖の湖畔には縄文時代貝塚などの遺跡があるのですが、三方五湖周辺に住んでいた縄文人は湖をトイレにしていたという話を小学生か中学生の頃に読むか聞くかしたことがあるからです。

彼らは湖のほとりに杭を打ち込んで、その杭につかまってお尻を湖に突き出して用を足していたそうなのです。そうすると便を餌にする魚が寄ってきます。それを捕まえて食べていたというのです。食べれば消化されてまた用を足すというサイクルが成り立つわけです。この話が強く印象に残っていて今でも覚えているわけです。

以前、「松方弘樹世界を釣る」みたいな感じのタイトルのテレビ番組で、梅宮辰夫さんが船上で用を足したくなって、船尾につかまってお尻を海に突き出して用を足していた場面を見たことがあるのですが、縄文人の事を思い出して笑ってしまいました。

 

 

奇跡の湖・水月湖

それはさておき、この三方五湖のうち水月湖年縞(ねんこう)と呼ばれる堆積物が地質年代決定の世界標準に認定されていて、地質学の分野では世界的に有名なのだということを本書を読んで初めて知りました。このことは、今では中学校の教科書にも載っているということですから、現代人の基礎知識なのかも知れません。

「年縞」とは、1年ごとにできる縞のようになった堆積物のことです。日本のように四季が明瞭な地域では湖の底に季節によって違うものがたまるのだそうです。水月湖では大きな傾向として、春から夏にかけては黒っぽい層が、秋から冬にかけては白っぽい層ができるとのことです。そして、長い年月をかけて明暗の規則正しい繰り返しの模様ができるのだそうです。

このようにきれいな年縞は、どんな湖にもできるわけではありません。まず、水月湖には直接流れ込む川がありません。そのため洪水などで土砂が大量に流れ込むことがなく、細かい粘土が薄く堆積します。また、湖底に酸素がないため生物が住めず地層をかき乱されることもありません。

さらに、湖は土砂が堆積していくと通常はだんだん浅くなるものですが、水月湖は浅くならないのです。太平洋プレートがユーラシアプレートに沈み込もうとする力で、福井県南部地方には三方断層と呼ばれる活断層があります。三方五湖のある三方断層西部はこの力によって、年平均およそ1㎜の速さで沈降を続けているということです。それに対して、水月湖に1年でたまる地層の厚さは平均するとおよそ0.7mmなのだそうです。ですから水月湖はいつまで経っても浅くならないのです。ここにもプレートの力が関わってくるとは驚きです。

こうした条件に恵まれた水月湖には、厚さにして45m、時間にして7万年分もの年縞が、乱されることなく静かにたまっているのだそうです。年縞のない時代も含めれば、15万年もの長い歴史が水月湖の土に記録されているといいます。水月湖は、まさに奇跡の湖なのです。

本書の著者ら研究者グループは2006年の掘削で「完全連続」な年縞堆積物試料を回収することに成功し、詳細な分析を行いました。地質年代の「ものさし」となるためには「完全連続」でなければ意味がありません。そして、2012年に水月湖の年縞は「世界一正確な年代が分かる堆積物」として認められたということです。

この年縞堆積物を分析して何が分かるかというと、過去の気候変動です。年縞の中にはいろいろな化石や鉱物が含まれていて、過去に起きた気候変動について知るための有力な手がかりになるということです。特に重要な手がかりとなるのは花粉です。年縞に含まれる花粉を分析することによって、当時の水月湖周辺の植生を再現することができます。この植生の変遷を追うことによって、過去の気候変動を知ることができるのだそうです。

 

 

ミランコビッチ理論とは

地球の気候変動のメカニズムについて、まず驚かされるのが、地球の大きな気候変動に地球の公転軌道の形の変化や地軸の歳差運動などが関係しているというスケールの大きさです。地球と太陽の位置関係はたえず変化していて、地球の受け取る太陽エネルギーの量や分布が周期的に変化し、これが結果として気候の周期的な変動に関係しているというのです。これをミランコビッチ理論というそうです。

地球の公転軌道は、10万年の周期で真円に近づいたり楕円になったりします。公転軌道が楕円になると地球は温暖になり、真円に近づくと氷期になるのだとのことです。また、地軸の歳差運動というのは、地球の自転軸が、倒れかけたコマのように、円錐を描いて運動することですが、これは2万3000年かけて1周するのだそうです。これは夏と冬のコントラストの強さに影響するのだということです。こうした周期をミランコビッチ・サイクルといいます。ミランコビッチ・サイクルには、他に地軸の傾きが発生する4万1000年の周期があります。

とはいうものの、地球の気候変動のメカニズムはそれほど単純ではありません。他にも様々な要因がからんできます。たとえば、最近の300万年は大きく見ると寒冷化が進行していて、しかも寒暖の振幅が増大する傾向があるのだそうです。これは、ヒマラヤ山脈の隆起や地球と太陽の位置関係の変化が関係するという考え方が有力なのだといいます。

グリーンランドの厚い氷床を分析すると過去6万年の気候変動の様子が分かります。それによると、最近の1万1600年ほどは、基本的には安定して温暖な状態を保っていますが、それ以前の氷期は、基本的には寒冷でありながら、急速に温暖化する時代を何度も含んでいる不安定な時代だということが分かったのだそうです。この原因は分かっていませんし、温暖化に周期性が見つかりません。これがカオスなのかも断言できないということです。

ミランコビッチ理論自体も、数百万年前までは通用しますが、それ以上さかのぼると様々な要因が複雑にからみあって作用するために誤差が発散してしまうのだそうです。

また、南極の氷床で復元された気温の変動と地球の公転軌道の周期を比較すると、前者は後者の周期によく一致していることが分かりますが、公転軌道がなめらかできれいな波形なのに対して、気候変動の方はノコギリの歯のような複雑な不定形になり、両者の関係は単純ではないということです。著者は、気候変動が非線形的で「カオス的遍歴」と呼ばれる現象に似ていることを示唆しています。

※「カオス的遍歴」については、次の記事を参照して下さい。

 

 

水月湖が語る15万年の気候変動

本書には著者たち研究グループが分析した結果から復元された水月湖の過去15万年の植生の変遷と、そこから導かれた気候変動が紹介されていますが、興味深いものがあります。まず、水月湖周辺の植生が周期的に大きく変化していることに驚かされます。そして、その周期が地球全体を支配する大きなリズムと対応していることにも驚かされます。

水月湖15万年の気候変動を再現すると、最近の1万年および12万~13万年前あたりに温暖のピークがあります。反対に、およそ2万年前が氷期の最寒冷期にあたります。この時期は今よりも10℃ほど寒かったそうです。20世紀の100年間の北半球の気温の上昇がおよそ1℃です。年平均気温の10℃の違いは鹿児島と札幌くらい違うそうです。温暖期と温暖期の間隔がおよそ10万年であることは、地球の公転軌道のミランコビッチ・サイクルと一致します。

また、氷期に向けて寒冷化が徐々に進行していく過程で、平均気温が2万3000年の周期で振動している様子が見てとれます。これは、地軸の歳差運動のミランコビッチ・サイクルと一致します。この振幅は徐々に小さくなっています。これは、地球の公転軌道が楕円から円に近づいているからだということです。つまり、現代は氷期に近づいていることになるはずです。

ところが、最後の氷期はおよそ1万1600年に終わり、現代まで温暖な気候が続いています。これ自体は自然に起こったものですが、現在の温暖期は例外的に長く続いていることが、多くの研究者から指摘されています。特に最近の8000年は異常なのだそうです。(ただし、過去にも例外的に温暖期が長く続いたことがあるそうです)

この原因についてある研究者が、アジアにおける水田農耕の普及とヨーロッパ人による大規模な森林破壊にあると主張して学界に衝撃を与えたということです。人間のこれらの活動が大気中の温室効果ガス(メタン及び二酸化炭素)を増加させたというのです。もしこれらの人間活動がなければ、地球は次の氷期に突入していたはずだいうことになります。

もし、これが事実だとすれば地球温暖化の問題は8000年前から始まっていたことになります。氷期が来なくてよかったということにもなりますが、これに産業革命以降の化石燃料の大量使用による地球温暖化の原因が加わり、将来において地球にどのような影響を及ぼすのかを考えると楽観はできないでしょう。

ここで興味深いのは、氷期の最末期には、単に気温が低いだけでなく気温の変動が大きく不安定だった気候が、あるときを境に突然終わって、安定した温暖な気候に変わったということです。水月湖の年縞も氷期と温暖期では堆積物の色と厚みが明瞭に変化しているということです。氷期の終わりは本当に急激な変化だったようです。著者はこのような変化を「複雑系相転移を想起させる」と表現しています。

水月湖の年縞堆積物から気候変動を読み解くプロジェクトは現在も進行中で、水月湖周辺で起こった気候変動の歴史を解明することを目指して研究が続けられているとのことです。今後も新たな知見が続々と得られることが期待されます。

 

 

これから何が起こるのか?

本書のサブタイトルは「過去に何が起きたのか、これから何が起こるのか」となっています。著者によると、現代の古気候学は未来の気候変動を視野に入れることを強く求められているとのことです。大きなサイクルで見れば、この先も過去の気候変動と同様のサイクルで変動していくものと思われます。しかしながら、近未来を考えるとき、現代の温暖な気候が終わるのか、それとも人類の活動による地球温暖化が進むのか、よく分からないという印象です。結局のところ、未来は常に想定外なのだなという感想を持ちました。そうであるならば、人類に最も必要とされるものは、不測の事態に臨機応変に対応できる柔軟性だということになります。

地球の活動は人間の想像力を越えたスケールなので、急激で大規模な変動が起きた場合には、どちらにしても対応できないでしょう。そうなれば、なるようにしかなりません。人類の叡智よりもしぶとさに期待したいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三島由紀夫の『文章読本』を読んだ

11月の読書録05ーーーーーーー

 文章読本

 三島由紀夫

 中公文庫(1973/08/10:1959)

 ★★★★

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文章読本 (中公文庫 A 12)

 

美は珍奇からはじまって滑稽で終わる

 

 

 

私は、子供の頃から作文とか読書感想文とかが嫌いで、本を読むのは好きだが文章を書くのは苦手である。だからといって、今までに文章読本のような本を読もうと思ったことはないし、読んだこともない。従って、文章読本と題される本を読むのは今回が初めてである。なぜ今更このような本を読む気になったかというと、作家やブロガーを目指そうという気はサラサラなくて、三島由紀夫に今更ながら興味を持ったからに他ならない。

 

実際に読み始めてみると、本書は当時よくあったような「だれでも書ける文章読本」というようなものではなくて、「読む側からの『文章読本』という点だけに限定した」内容であると、第一章の「この文章読本の目的」に書かれてあって安心した。つまり、安易なハウツーものを読んだところで、いい文章が書けるはずがないということだろう。

 

三島によると、チボーテという人が小説の読者を二種類に分類していて、一つはレクトゥール(普通読者)であり、今一つはリズール(精読者)であるという。前者は「小説といえばなんでも手当たり次第に読み、『趣味』という言葉のなかに包含される内的、外的のいかなる要素によっても導かれていない人」と定義され、後者は「その人のために小説世界が実在するその人」であり、「文学というものが仮の娯楽としてでなく本質的な目的として実在する世界の住人」であるという。

 

つまり、リズールとは「ほんとうに小説の世界を実在するものとして生きていくほど、小説を深く味わう読者」のことであり、「いわば小説の生活者」と言われるべき人なのだそうだ。そして本書は、リズールの達人とも言うべき三島由紀夫が、レクトゥールで満足している読者をリズールに導かんと意図して書かれたものなのである。作家になるための最低条件はリズールであることであり、リズールであっても才能がなければ作家にはなれないのだそうだ。

 

私は凡庸なレクトゥールに過ぎず、とうていリズールにはなれそうもないのだが、リズールの達人である三島由紀夫のご高説を承るに吝かでないので本書をありがたく拝読した。

 

第二章は「文章のさまざま」と題され、日本文学の歴史的経緯とその特質について述べられている。日本文学は日本語で書かれているのだから、まず日本語の成り立ちについて考えなければならない。また、現在が過去の延長線上にある限り、継承するにしても破壊するにしても、現代文学は古典文学を無視しては成立し得ない、ということだろう。

 

ここで著者は読者に「文学作品のなかをゆっくり歩いて」風景を楽しむことをすすめている。つまり、文章を味わえということである。早飯の大食いで十分に味が分かるものか、ということだろう。また、「文章の味には、味わってわかりやすい味」もあれば、「十分に舌の訓練がないことには味わうことができない味」もあるという。ジャンクフードやファーストフードばかり食べていて本物の味が分かるものか、ということだろう。要するに、美味しくてしかも栄養があるような文章が「いちばんいい文章」なのである。

 

まったく仰るとおりなのだが、私としてはそこそこ美味しいものがいただければそれで満足である。そこまで食通になりたいわけではない。日本料理の微妙な味わいやフランス料理のソースの複雑な味わいなどは余程舌を訓練しなければ分かるものではない。ただ、「ゆっくり歩いて風景を楽しめ」ということは、せっかちな性格でゴールに辿り着くことだけを目的にしてしまいがちになる私には肝に銘じておくべきことであろう。

 

結局、文章を味わうということは、長い言葉の伝統を味わうということになるのであります。そうして文章のあらゆる現代的な未来的な相貌のなかにも、言葉の深い由緒を探すことになるのであります。それによって文章を味わうことは、われわれの歴史を認識することになるのであります。

 

第三章からは、短編小説の文章と長編小説の文章との違い、小説中の会話の文章と戯曲の文章との違い、評論の文章や翻訳の文章、更に、様々な文章上の技巧について、リズールの達人である三島由紀夫が厳選した古今東西の名作から極上の文章がアラカルトで次々と供される。読者は出された皿を一口ずつ試食していくという趣向である。これはよく言われることだが、「料理の味を知るには、よい料理をたくさん食べることが、まず必要である」というわけである。何事もよい経験を積むことが肝要なのだ。従って、一皿ずつ翫味していかなければならない。本書こそ、時間をかけて読むべき本なのである。

 

こうして紹介される各文章について、三島はどこがどのように美味しいのかその味わい方を懇切丁寧に解説してくれているわけだが、その博識の深さと感性の鋭さ、及び、その美意識の高さに圧倒される。これだけ深く読み込むことが出来れば、本を読むのが楽しくて仕方ないだろうと思う反面、これだけ感覚が鋭いと、かえって苦痛も大きいのではないかとも思われる。

 

まったく、こんなブログに薄っぺらい感想をダラダラと書き連ねるのが恥ずかしくなるというものである。などということはこれっぽっちも思わない。そもそも格が違いすぎる。比較するのはおこがましいというものである。私は傲慢な人間ではあるがそこまで身の程知らずではない。凡庸な人間は凡庸な人間なりに胸を張って文章を書けばよいのである。

 

それはともかく、私は谷崎潤一郎の文章が好きであると再認識した。梶井基次郎の短編集を久し振りに読みたくなった。フランス文学写実主義は相変わらず面倒臭そうだ。プルーストの『失われた時を求めて』などは昔から興味があるが、読み通す自信がないので未だ読んでいないし、将来においても読むことは恐らくないであろう。

 

9月に読んだ『小説読本』は、三島由紀夫の作家としての小説観や創作に対する姿勢について書かれた文章が多く収録されていたが、本書の方は、読書家としての三島の小説観や美意識に基づいて書かれていて、それが小説家としての三島の根底をなしているという印象を受けた。最終章の第八章は「文章の実際──結語」と題されていて、小説家としての三島由紀夫が顔を出す。最後の文章がまさに三島由紀夫である。

 

文章の格調と気品とは、あくまで古典的教養から生まれるものであります。そうして古典時代の美の単純と簡素は、いつの時代にも心をうつもので、現代の複雑さを表現した複雑無類の文章ですら、粗雑な現代現象に曲げられていないかぎり、どこかでこの古典的特質によって現代の現象を克服しているのであります。文体による現象の克服ということが文章の最後の理想であるかぎり、気品と格調はやはり文章の最後の理想となるでありましょう。

 

 

 

 

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)

 

 

 

 

 

 

 

『羊をめぐる冒険』を久し振りに読んでみた

11月の読書録04ーーーーーーー

 羊をめぐる冒険

 村上春樹

 講談社文庫(1985:1982)

 ★★★★☆

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「変な言い方かもしれないけれど、今が今だとはどうしても思えないんだ。僕が僕だというのも、どうもしっくり来ない。それから、ここがここだというのもさ。いつもそうなんだ。ずっとあとになって、やっとそれが結びつくんだ。この十年間、ずっとそうだった」

 

 

 

10月に三島由紀夫の『夏子の冒険』を角川文庫で読んだのだが、巻末の千野帽子の解説に「村上春樹の『羊をめぐる冒険』が本書のパロディあるいは書き換えであるという仮説も近年、よく目にします」とあるのを読んで、本当だろうかと思い、久し振りに『羊をめぐる冒険』を読み返してみることにした。

 

この小説の第一章には「1970/11/25」という題がついていて、これは三島由紀夫が自決した日にあたる。本文中にも「あの奇妙な午後を、僕は今でもはっきりと覚えている」とあり、大学のラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が繰り返し映し出されていたが、「我々にとってはどうでもいいことだった」と書かれている。何か意味があるようにも思われるし、単に時代を象徴しているだけのようにも思われる。これが何かを暗示しているのではないかと考える人もいるのだろう。

 

確かに『羊をめぐる冒険』には『夏子の冒険』と表層的な部分で類似点が幾つかあることを指摘できると思うが、その程度ではパロディとはいわないように思う。また、『夏子の冒険』を男の側(井田毅)の立場で考えると、夢やロマンの世界から現実の世界へと戻る物語であると読み解くことも出来るので、『羊をめぐる冒険』は『夏子の冒険』を男の側の視点で書き換えたものであると読み解くことも出来ないこともないが、類似点よりも相違点の方が大きく思われて、少し無理があるような気がする。まあ、この程度の論考ではないのだろうとは思うが、正直言って私にはよくわからない。

 

三島由紀夫の熱心な読者でも村上春樹の熱心な読者でもない私には、『夏子の冒険』を読んで羊男の気配を感じることはなかったし、『羊をめぐる冒険』を読んで人喰い熊の匂いがしてくることもなかった。ということで、この件については忘れることにした。

 

 

 

「世界は凡庸だ。これは間違いない。それでは世界は原初から凡庸であったのか? 違う。世界の原初は混沌であって、混沌は凡庸ではない。凡庸化が始まったのは人類が生活と生産手段を分化させてからだ。そしてカール・マルクスプロレタリアートを設定することによってその凡庸さを固定させた。だからこそスターリニズムはマルクシズムに直結するんだ。私はマルクスを肯定するよ。彼は原初の混沌を記憶している数少ない天才の一人だからね。私は同じ意味でドストエフスキーも肯定している。しかし私はマルクシズムを認めない。あれはあまりにも凡庸だ」

 

 

 

村上春樹の熱心な読者ではない私は『ねじまき鳥クロニクル』あたりで村上春樹を卒業している。今世紀に入ってからの作品でまともに読んだのは『海辺のカフカ』くらいなものである。『騎士団長殺し』はちょっと興味があって、書店に寄るたびに任意の個所を開いて何頁か立ち読みしてみるのだが、買って読もうという気にまではならない。

 

今回、久し振りに『羊をめぐる冒険』を読み返してみたが、文章が若々しいなと思った。主人公の何者でもないところとか、力を持つ者に対する反発心とか、喪失感とか、疎外感とか、昔この小説を読んだときの感情が思い出されて懐かしく感じた。それと同時に、過去の遺跡を訪れたようなもの哀しい感じもした。昔の「いるかホテル」が出てくると不思議な感じがするのだ。私のイメージの中では、古い「いるかホテル」はもうなくなってしまっているからだ。

 

私は、1960年代というとロックでサイケでフリーなイメージがあり、1970年代というと気だるく空虚でパンクなイメージがある。この小説は第一章で1969年と1970年で空気がガラリと変わったことを説明している。村上春樹の小説は1970年から始まることが重要なのだと思う。主人公は六十年代の雰囲気を引きずりながら七十年代の気だるい空気の中で途方に暮れている。この空気感が好きだったし、今読んでもしっくりとなじんでくる。

 

これが『ダンス・ダンス・ダンス』になると、八十年代的な浮ついた空気に主人公がとまどっている感じがするところが面白いと思う。私にとって、1980年代は浮ついたイメージしかなくて、1990年代はカオスなイメージである。私の中では1999年に地球は滅んでいる。今の地球はすでに死んでいることに気づいていない亡霊のようなものだ。だから、今の私は村上春樹の小説を必要としなくなったのだろう。それでも、この『羊をめぐる冒険』は、今でも何か特別な感じがする小説なのである。

 

 

 

「一般論は止そう。さっきも言ったようにさ。もちろん人間はみんな弱さを持っている。しかし本当の弱さというものは本当の強さと同じくらい稀なものなんだ。たえまなく暗闇にひきずりこまれていく弱さというものを君は知らないんだ。そしてそういうものが実際に世の中に存在するのさ。何もかもを一般論でかたづけることはできない」

 

 

 

 

 

『オリエント急行の殺人』を久し振りに読んでみた

11月の読書録03ーーーーーーー

 オリエント急行の殺人

 アガサ・クリスティー

 山本やよい

 ハヤカワ文庫(2011/04/25:1934)

 ★★★★

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「〈前略〉友よ。あらゆる階級、あらゆる国籍、あらゆる年齢の人が集まっている。これから三日間、この人々が、知らない者どうしが、一緒に過ごすことになる。ひとつ屋根の下で眠り、食事をする。離れて過ごすことはできない。その三日間が終わると、別れていく。それぞれの目的地へ向かい、おそらく、二度と会うことはない」

 

 

十代の頃に読んだ本をもう一度読み直してみようということで、ここ数年はコナン・ドイル江戸川乱歩横溝正史などの推理小説を読み返すということをしていました。ホームズものは昔読んだのが阿部知二訳だったので、『シャーロック・ホームズの事件簿』以外の全作品は阿部知二訳で読み返しました。『シャーロック・ホームズの事件簿』は深町眞理子訳で読みました。ついでに、ジューン・トムソンのホームズ・パスティーシュものも新たに読んでみたのですが完成度が高くて驚きです。

 

去年ガラケースマホに変えて、このブログを始めてからは、読書時間が減ってしまって、なかなかそこまで読書の幅を広げられないのが残念です。ブログを書くのに時間を取られるというのもありますが、やっぱりスマホは読書の敵です。

 

私は推理小説マニアではないので、海外の推理小説に関してはクリスティーやクイーンなどの有名な作品を読んだ程度です。エルキュール・ポワロ(ハヤカワ文庫では「ポアロ」)ものについては代表作はだいたい読んでいるはずですが、全作品は読んでいません。

 

ブログを始める前には『そして誰もいなくなった』と『ABC殺人事件』を新訳で読み返しました。そして、今回は『オリエント急行の殺人』です。この小説は、小学六年か中学一年の頃に読んだきりなので大人になってから読むのは初めてということになります。『アクロイド殺し』や『スタイルズ荘の怪事件』、『ナイルに死す』なんかも読み返したいと思うのですが、いつになることやら。

 

ポワロものについては、やはり英国のテレビドラマ『名探偵ポワロ』の印象が強いです。エルキュール・ポワロはデヴィッド・スーシェで声は熊倉一雄じゃないとしっくりこない感じがします。原作を読んでいても、頭の中ではスーシェのポワロと熊倉さんの声がイメージされます。

 


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デヴィッド・スーシェ

David Suchet as Hercule Poirot | HATENA | Pinterest

 

 

こちらはテレビドラマ『名探偵ポワロ』の “Murder on the Orient Express” の予告編でしょうか、2分ほどのダイジェストです。

🔘Poirot : Murder on the Orient Express ( David Suchet, Eileen Atkins, Brian J. Smith) - YouTube

 

 

 

この『オリエント急行の殺人』については、1974年の映画『オリエント急行殺人事件』の印象も強いです。テレビの洋画劇場か何かで見たのが最初だったでしょうか。監督はシドニー・ルメット、ポワロ役はアルバート・フィニーです。私は映画オタクでもないので詳しいことは分かりませんが、アンソニー・パーキンス(ヘクター・マックィーン役)、ショーン・コネリーアーバスノット大佐役)、ローレン・バコール(ハバート夫人役)、イングリッド・バーグマン(グレタ・オールソン役)は、さすがに分かります。

 

アンソニー・パーキンスアンソニー・ホプキンスが、たまにゴッチャになってしまいます。パーキンスはレクター博士じゃない方ね。サイコな人ね。『日の名残り』はホプキンスの方ね。ややこしい。

 

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映画『オリエント急行殺人事件』(1974)

Murder on the Orient Express (1974) - Anthony Perkins and Albert Finney | HATENA | Pinterest | Jacqueline bisset, Ingrid bergman and Orient express

 


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アルバート・フィニー

Albert Finney as Poirot in MURDER ON THE ORIENT EXPRESS. | HATENA | Pinterest | Orient express, Search and Agatha christie

 


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撮影で使われた蒸気機関車

 

 

こちらが1974年の映画『オリエント急行殺人事件』(Murder on the Orient Express) の予告編です。

🔘Murder on the Orient Express (1974) Trailer - YouTube 

 

 

 

今年リメイクされた映画『オリエント急行殺人事件』ではシェイクスピア俳優のケネス・ブラナーが監督とポワロ役だということですが、これまでのポワロと比べて体格が立派な感じがします。見所は矢張り口髭でしょうか。明らかに異様な感じがします。「口髭を濡らさないようにしてスープを飲む仕事」が大変そうです。アルバート・フィニーデヴィッド・スーシェの口髭と比較すると面白いです。

 

ラチェット役のジョニー・デップの悪人面もいい味を出しています。ペネロペ・クルスも気になります。海賊つながりでしょうか。ペネロペ・クルスが演じる宣教師は、原作ではグレタ・オールソンという名前でしたが、今回はピラール・エストラバドスと名前が変わっているようです。原作ではスウェーデン人ですが、ペネロペ・クルスはどう見てもラテン系だからでしょう。1974年の映画ではイングリッド・バーグマンが好演した役なので比較されたりするのでしょう。

 

他にもアーバスノット大佐がアーバスノット医師に、私立探偵のハードマンが教授に、セールスマンのフォスカレッリの名前がマルケスになっている点が原作と異なります。展開に大きく影響することはないのでしょうが、原作のコンスタンティン医師が省略されて、ドクター・アーバスノットに併合されたことになるので、この役どころは気になります。

 


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映画『オリエント急行殺人事件』(2017)

Murder on the Orient Express 2017 | HATENA | Pinterest | Orient express, Movies online and Movies

 

 

比較のためこちらの予告編も貼っておきます

🔘映画『オリエント急行殺人事件』予告B - YouTube

 

 

 

人間社会は全ての悪を裁くことはできない。どんな法律も万能ではない。法律の網をうまくくぐり抜けて素知らぬ顔で生きている悪人を許すことができるのか。殺されても当然だと誰も同情しないような悪人を正義の名のもとに殺すことは許容されるのか。私刑や仇討ちを許容してしまっては法秩序が破綻してしまうのではないか。

 

このジレンマから様々なフィクションが生み出されるわけですが、アガサ・クリスティーにしてみれば、フィクションなのだからこんな結末でもいいんじゃない、ということでしょうか。シャーロック・ホームズ金田一耕助ならどうしただろうかなどと考えてみると面白いです。ホームズも金田一耕助も似たようなことをしそうです。

 

 

 

オリエント急行の殺人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

オリエント急行の殺人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 

 

 

 

 

 

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んでみたのだが…

11月の読書録02ーーーーーーー

 わたしを離さないで

 カズオ・イシグロ

 土屋政雄

 ハヤカワ文庫(2008/08/25:2005)

 ★★★★

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カズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞しなければ、この小説を読むことはなかったと思います。実をいうと、私向きの小説とは思わなくて、この作品に関してはあまり興味がなかったのです。実際に読んでみて、これは簡単な小説ではないなと思いました。分かりやすい内容であるにもかかわらず、よくわからない部分もあるという不思議な小説だと感じました。

 

この小説は、「臓器提供のためだけに造られたクローン人間がいる世界を考えてみよう」という一種の思考実験です。そういう価値観を持ったパラレルワールドだと考えることもできますし、現実的に臓器売買の問題を暗示していると考えることもできます。何らかのメタファーであると考えてもよいのですが、作者が敢えて設定したこの世界に意味があるような気もします。

 

この小説は、語り手のキャシーとルースとトミーの複雑な三角関係を中心に展開されますが、読み進めていくうちに、細部の一つ一つに何か象徴的な意味があるように思われてきて考えさせられる、読者に過度の想像力を要求する小説だと感じました。そこを丹念に読みこんでいくと時間がかかりますし頭が疲れますので、今回はあまり深く読むことができなかったように思います。

 

作者は、「臓器提供のためだけに造られたクローン人間がいるパラレルワールドが存在するとしよう。あなたはその世界ではクローン人間として生まれたと考えてみよう」ということを読者に要求しているように思われるのです。そういう風にして、この作品世界に没入しないとこの作品は分からないように感じました。

 

特に印象に残ったのは、湿地で座礁した漁船の場面です。あのうち捨てられた漁船の意味するものが何なのか、よくわからかったからです。トミーが描く機械的な架空動物も興味をひきました。

 

「本当の愛」というのも考えさせられます。「本当の愛」とは何なのでしょうか? 「本当の愛」は存在するのでしょうか? 私には分かりません。クローン人間に魂(心)があるのかという問いかけも考えさせられます。クローン人間にも魂があるのだということを自明としない社会というものに対して戦慄させられるからです。このクローン人間に当てはまるメタファーが色々思い浮かんできます。

 

あまり感情を表に出さない語り手の控え目な語り口も、作者が作者なだけに注意深く読む必要があるのではないかと神経を使わされますが、ラストシーンはさすがにじんわりときました。

 

久し振りに厄介な小説を読んでしまったなというのが正直な感想です。しばらく寝かせておいて読み返してみたいと思います。

 

 

 

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

 

 

 

 

カズオ・イシグロの『日の名残り』を読んでみた

11月の読書録01ーーーーーーー

 日の名残り

 カズオ・イシグロ

 土屋政雄

 ハヤカワ文庫(2001/05/31:1989)

 ★★★★

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ずっと気になってはいるのだけれども、なかなかきっかけがなくて読まずにいる作家が何人もいて、その中の一人がカズオ・イシグロでした。

カズオ・イシグロは世界的に評価の高い作家ですし、映画化やドラマ化の度に話題になりましたし、これまでに読む機会は何度かあったわけですが、何か自分の中でもう一押しが足りなくて読んでみようという所までにはいたらなかったのです。

それが、今回のノーベル文学賞受賞の発表を受けて、これで読まなければたぶんもう読むことはないだろうと思って、ようやく読んでみようという気になりました。それで、まず、映画化もされて内容もだいたい分かっている『日の名残り』から読むことにしました。

今は『わたしを離さないで』を読み終えて、『わたしたちが孤児だったころ』を読み始めたところですが、一番興味があるのは『充たされざる者』です。ただ、これは長い小説なのでゆっくりと読むつもりです。

カズオ・イシグロノーベル文学賞受賞理由は「感情に強く訴える小説を通して世界と結びついているという我々の幻想の下に隠された闇を明るみに出した」ということですが、その辺りも心に留めて読んでいます。

この小説については〈The Remains of the Day - Wikipedia〉にていねいな解説があります。以下、そこで取り上げられているテーマに沿って、感想をダラダラと書き留めておこうと思います。

 

 

 

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

Dignity

英国人が最も大切にしている言葉の一つが “dignity” であると、何で読んだのかは忘れてしまいましたが、以前何かで読んだことがあります。この小説を読み始めてすぐに思い出したのがその事でした。この小説のキーワードの一つが “dignity” です。本書では「品格」と訳されています。

主人公=語り手である執事(butler)のスティーブンスが「偉大な執事」(a great butler)の条件として最重要視しているのがこの “dignity” です。彼の語る執事の実態や理想の執事についての言及を読んでいると、それは最早執事だけについて語っているようには思われず、英国人としての “dignity” を語っているように思われてなりませんでした。そして、現代の英国人とって “dignity” は既に過去のものになったのではないかという指摘にも感じられました。

スティーブンスは旅の途中で、執事の「品格」について語り、自分は「偉大な執事」になり得たか自問し、自分に言い聞かせるように肯定的に自答します。こういうときの人間は、だいたいにおいて自信を失っている場合が多いように見受けられます。

日本人の場合は、あるとすれば「品格」というよりは「職分」でしょうか。日本人は「職分を全うする」ことを理想とするところがあるように思います。“dignity” と「職分」とは少し違うように思います。

 

Banter

“banter” には「(悪意のない)冗談、冷やかし、からかい」という意味があります。本書ではおもに「冗談」と訳されています。英国では普通に使われているようです。

主人公は新しい主人である米国人のファラディ氏のために「冗談」を言う練習をするのですが、練習をするという時点で、その冗談は面白くなさそうです。「品格」をアイデンティティとしてきた主人公の生真面目な性格とは真逆な感じがします。

主人公は、最後に「冗談」は「人間の暖かさの鍵」(the key to human warmth)なのだということに思い至ります。それは、気のきいた冗談を言えない自分自身に人間としての暖かみが欠けていたことを認めることでもあります。

この小説は「超イギリス小説」なのだそうですが、敢えて日本的に考えると、経営不振に陥った日本企業が外資系企業に買収されて、米国から社長を迎えたのだけれど、生え抜きの専務は生真面目な仕事人間でジョークが分からないみたいなシチュエーションを想像して喜劇的な感じがします。

 

Social constraints

当時の英国社会のルールでは、この小説のエピソードにあるように、召使いが結婚して子供を望むならば、職を辞さなければならなかったようです。それが、ここでいう「社会的制約」(social constraints)のようです。

結婚は、スティーブンスが理想とする「偉大な執事」とは両立しません。それが、スティーブンスの頭の中から結婚という選択肢を追い出す結果になってしまいました。

これも日本的に考えると、仕事をとるか家庭をとるかみたいなことを連想してしまいます。日本人から見ると、スティーブンスは昭和的な仕事人間とどうしても重なってしまいます。

 

Loyalty and politics

これについては、「六日目──夜」のウェイマスで出会った元執事の老人にスティーブンスが語る言葉に集約されています。

「〈前略〉私は選ばずに、信じたのです。私は卿の賢明な判断を信じました。卿にお仕えした何十年という間、私は自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか?」

 スティーブンスが仕えたダーリントン卿は、第二次世界大戦前に英国紳士の立場から対独逸宥和政策のために尽力し、ナチス政権に利用されたあげく、戦後は名誉が回復されることなく失意のうちに自殺してしまいます。ダーリントン卿は紳士としての徳は高かったのですが、時代の変化を読みとる能力がありませんでした。

スティーブンスの考える執事の品格とは、崇敬するに足る立派な主人を選んでその主人に忠義(loyalty)を尽くすことでした。執事が主人の政策(politics)の是非を考えるという発想がありませんでした。結局、スティーブンスはダーリントン卿の品格に心酔し信じたところで思考停止してしまったのです。ダーリントン卿がイギリス社会から否定されたことは、スティーブンスにとっては自分自身の執事のキャリアを否定されたことに他なりません。

しかし、これは仕方の無いことだと思います。誰もが正確に時代の変化を読み取れるわけではないですし、ダーリントン卿は間違えたけれども愚かだったとは思いません。大きな時代の流れの中では、どんな人でも翻弄されてしまうものだと思います。我知らず間違った方向に流されてしまうこともあると思います。

そうした中では、たとえ有能であろうと一介の執事では、いずれにしてもどうしようもないことだったと思います。スティーブンスは自分が選ばなかったことを恥じていますが、彼が主人の考えに反対して説得できるとは思えませんし、彼の性格ではドライに主人を見捨てることも出来ないでしょう。それが彼の執事としての限界でしょう。信じるということは、判断を放棄することに他なりません。

これも日本的に考えると、会社に忠義を尽くす昭和的な仕事人間を連想させます。こちらは会社のためなら法を犯すことも厭わない感じがします。判断停止や思考停止は感覚を麻痺させます。

 

Love and relationship

この小説で主人公が語るおもな人物は、現在の主人であるファラディ氏、元主人であるダーリントン卿、父親のスティーブンス・シニア、元ハウスキーパーのミス・ケントン(現ミセス・ベン)の四人です。

このうち、ファラディ氏は「冗談」に関する悩みとして、ダーリントン卿は「忠義」の末の執事人生の否定として、父親は「品格」の体現者として語られています。

ミス・ケントンについては、現在のダーリントン・ホールの人手不足を解消する最適な人材として語られます。そして、過去の回想の中では「優秀なプロとしての関係」(excellent professional relationship)が強調されています。バトラーは男性使用人を、ハウスキーパーは女性使用人を、それぞれ統括する立場にあるので両者の良好な協力関係は舘の運営を円滑に進めるためにも欠かせません。

スティーブンスの回想を読んでいると、最初は二人が対立しているかのような印象を持ちますが、次第にミス・ケントンはスティーブンスを慕っていることが感じられてきます。しかし、スティーブンスはそれを拒絶しているかのようです。

スティーブンスは、執事の「品格」を追求するあまり、私生活が全く無くなってしまっています。彼は四六時中全的に執事であり続けようとしています。彼は自分の感情が個人的なことで揺さぶられることを恐れているかのような印象を受けます。そうした生活が彼の心を摩耗させたのは無理もないことだと思います。

スティーブンスは、ミセス・ベンとなったミス・ケントンからの手紙から彼女の結婚生活が上手くいっていないこととダーリントン・ホールに戻りたがっていることを読み取ります。そこで、ミス・ケントンに直接会ってそれを確かめるために旅に出るわけですが、途中でそれは単なる希望的観測に過ぎないのでは無いかと気がつきます。現在のスティーブンスは長年の執事人生で、かなり心が弱っているという印象を受けます。心が弱ると希望的観測で物事を考えがちになるものです。

思えば、スティーブンスは孤独な人です。父親の死については語られましたが、家庭的な言及はありません。執事仲間との交際も語られましたが、親友がいるようには思われません。そして、恋愛についても、間違いなく彼もまたミス・ケントンに特別な想いを寄せていたにもかかわらず、自らそれを封印してしまいました。彼から執事をとったら何も残らないようです。

これも日本的に考えると、仕事をとったら何も残らない定年間近の会社人間を連想させます。

 

Memory and perspective

イシグロ作品について語られるとき「信頼できない語り手」(unreliable narrator)という言葉がよく使われるようです。そして、この小説はその代表的な作品とみなされているようです。ノーベル文学賞の受賞理由もこの辺りのことを指しているのでしょう。

人間の記憶は常に正確であるとは限りませんし、時間が経つと曖昧になり変質していくものです。また、自らの過去を他者に語るとき、都合の悪いことを誤魔化したり、思い出を美化したりしてしまいがちです。

人が脳によって認識する世界は人によってそれぞれ異なります。人はそれぞれ脳の中にある異なる世界観の中に住んでいるといってよいでしょう。近い世界観の人もいれば遠くかけ離れた世界観の人もいます。同じ世界に生きているというのは幻想に過ぎません。

スティーブンスは過去を回想しますが、それはスティーブンスの記憶を彼の主観で語ったものであって、正確なものでも客観的なものでもありません。読者は、最初のうちは彼のキャラクターが分かりませんから、彼の言葉を信用するしかないのですが、彼のキャラクターが分かってくるにつれて、その言葉を真に受けてはならないことに気づかされます。そして、彼が誤魔化そうとしたことこそがこの小説のテーマだということが分かってきます。

この小説の場合は、スティーブンスの執事としての「品格」が、彼に本音を語ることをためらわせているのだと理解することができます。ダーリントン卿に関する言及もそうですし、ミス・ケントンに対する想いもそうです。それに、彼自身の「老いによる衰え」があります。

父親に関する回想は「品格」の体現者として尊敬すべき父親像とともに、晩年に衰えて満足のいくサービスができなくなり、最期は仕事中に倒れて亡くなってしまうエピソードが語られます。そこに自身の老いによる衰えが重ね合わされていることは明らかなのですが、彼はそれを認めようとはしません。

彼の潜在意識は、これらのことを既に認めてしまっているのですが、彼の自意識が抵抗しているように見受けられます。彼は過去に逃げ込みたがっています。彼の心はもう疲れ切ってしまっているからです。彼のミス・ケントンに会うための旅は最後の抵抗だったのでしょうか。潜在意識では答は分かっていたのではないでしょうか。

ミス・ケントンに会ってからウェイマスでの語りまでに丸二日間の空白があります。彼のショックの大きさがうかがわれます。ぼう然として何も考えられなかったことを表しているのかも知れません。全ては遅すぎたのです。最初から分かっていたことです。

  

 


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The Remains of the Day (First edition)

 

 

 

Perhaps, then, there is something to his advice that I should cease looking back so much, that I should adopt a more positive outlook and try to make the best of what remains of my day

 

ウェイマスの桟橋で出会った元執事の老人から「夕方が一番いい時間なんだ」(The evening's the best part of the day)とアドバイスされたスティーブンスは、老人と別れた後、桟橋のあかりが点灯するのを待ちながら彼のアドバイスについて検討します。

老人のアドバイスは、後ろばかり向いていないで前を向いて残された時間を最大限楽しめというものです。多くのことや大切なことを無駄にしてしまう人生もあるでしょうが、どんな人生でも自分で否定してしまってはそこまでです。少なくとも彼は彼の人生を彼なりに全力を尽くしてきました。それは恥ずべきことではありません。彼はそのことを確認します。

そして、残された時間を最大限楽しむことに関しては、新しい執事の任務としてジョークの練習に取り組むことに決意を新たにします。執事を取れば何も残らない彼に引退の選択肢はありません。彼もまた彼の父親と同様に死ぬまで執事であり続けるのでしょう。彼にとって今回の旅は現実を受け入れて前に進むために必要なものだったようです。最後まで、より良い執事であることを目指そうとするスティーブンスには “dignity” があるように感じられました。

 

 

この小説を読んで、大きな感動を呼ぶという感じではなかったのですが、じんわりとした共感を覚えました。正統派の小説らしい小説を読んだという印象ですが、今の私にとって必要な小説という感じではありませんでした。つまり、読んで良かったとは思いましたが、今まで読まなかったことを後悔するほどではなかったということです。一度読んだだけでは、読み間違いや読み落としがありそうな構成なので、何年か経ったらもう一度読んでみようかと思いました。

 

 

 

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)