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森の踏切番日記

人生LARKしたい

虚子と子規・漱石

八月の読書録01ーーーーーーー

 回想 子規・漱石

 高浜虚子岩波文庫

 1608-01★★★★

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🐱 高浜虚子は明治7年(1874年)2月生まれで、慶応3年(1867年)生まれの子規、漱石の七歳年下になる。虚子が最も影響を受けたのが子規であり、次いで尊敬すべき先輩が漱石であったようである。

 

◇子規居士と余

※虚子は、明治24年5月、同学年の河東碧梧桐を通じ子規と文通を始めるが、それより少し前に、虚子等が野球をしているところに加わった帰省中の書生等の中に子規がいたことをまず回想している。その時は子規とは面識がなかったらしい。

※明治25年、帰省中の子規を漱石が訪ねる。この時、虚子は漱石と初めて対面している。

※明治28年、子規は喀血し一時は重体に陥り神戸の病院に入院するが、京都にいた虚子は陸羯南に依頼され神戸に赴き献身的に子規を看病している。

※この年の12月、回復し帰京した子規は虚子を誘って道灌山へ行き自らの文学上の後継者になることを依頼するが、虚子はこれを断っている。

升さんの好意に背くのは忍びん事であるけれども、自分の性向を曲げることは私には出来ない。つまり升さんの忠告を容れてこれを実行する勇気は私にはないのである。

 世の中はどうすることも出来ぬことが沢山ある。余は満腹の敬意を以て居士に接しながらも、またこの際に在って自分自身をどうすることも出来なかったのである。

※明治31年、虚子は前年に柳原極堂が松山で創刊した『ホトトギス』を引き継いで東京で発行し始める。

ホトトギス』が余の手に渡ってから居士と余との関係は非常に密接になった。

※明治35年(1902年)3月末より、病状の悪化した子規を、高浜虚子河東碧梧桐、伊藤左千夫らが、交替で看病に当たる。

※同年9月14日、虚子、子規の「九月十四日の朝」を口述筆記する。

※同年9月19日午前1時ごろ、虚子、子規の死を確認する。

 

🐱高浜虚子は自然体というか人間関係にどこか淡白な面があったように思う。それで誤解されるというか人間関係でぎくしゃくすることもあったようである。冷淡だった訳ではないことは子規を献身的に看病していたことからも分かる。自分に向いていないことは断固としてやらない頑固な一面もあったようである。「道灌山の破裂」の後も子規は虚子を見限ることは無かったし虚子も子規から離れることは無かったのだが、虚子は次のように記述している。

人の師となり親分となる上に是非欠くことの出来ぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着である。

為すある師匠、為すある親分はその点に於いて執着ー愛ーを持っておる。たとい弟子や子分の方から逃れようとしても容易にそれを逃しはしない。

そういう点に於て子規居士は十二分の執着ー愛ーを持っていた。

 

漱石氏と私

🐱ここでは、やはり漱石の書簡が圧巻である。いろいろ興味深いが長くなるので省略する。

🐱「京都で会った漱石氏」では、突然出現したブラック漱石に戸惑う虚子が面白い。何かのきっかけで突然スイッチが入った漱石はブラック漱石に変身してしまうのであった。そして、また何かのきっかけで元の漱石に戻るのであった。二人が祇園のお茶屋で遊ぶ場面も想像すると何か面白い。🐥

 

子規逝くや十七日の月明に 虚子

 

 

 

回想 子規・漱石 (岩波文庫)

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📄関連図書

正岡子規 言葉と生きる (岩波新書)

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🐱1606-08★★★☆