森の踏切番日記

人生LARKしたい

「過去という不思議なもの」

夏目漱石の妻」関連図書ーーー

 硝子戸の中

 夏目漱石新潮文庫

 ★★★★★

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?本書は大正4年(1915)1月13日より2月23日に朝日新聞に連載された随筆集である。連載中に漱石は48歳になっている。死の前年に書かれたもので、かなり死の影が濃い内容になっている。また、自身の幼少期について語っていることも特徴である。ここでは、本書から漱石が自身の幼少期について語っている部分を紹介しながら漱石の幼少期から青年期を振り返ってみようと思う。

?この時期の出来事が土曜ドラマ夏目漱石の妻」第3回で登場する塩原昌之助(竹中直人)のエピソードの伏線になっている。

 

 

◾慶応3年(1867)2月9日(旧暦1月5日)金之助出生。父直克50歳、母千枝42歳の末子で、金之助の出生は喜ばれず、里子として出され、やがて戻される。

私はその道具屋の我楽多と一所に、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されていたのである。

それを姉の房(ふさ)が見つけて連れて帰り父親から叱られている。(八百屋という説もある)

 

明治元年(1868)11月、塩原昌之助(30歳)の養子となり、塩原家に住む。

※塩原昌之助は夏目直克の配下で、養母やす(30歳)は夏目家に奉公し、二人の結婚を直克が仲介した。直克は町方名主で明治になっても、しばらくは裕福で勢力があった。

漱石は自分は町人の子であるという自覚があった。

 

◾明治7年(1874)昌之助が未亡人日根野かつ(推定28歳)と通じ、養父母が不和になる。

金之助(7歳)は、昌之助、かつ、かつの連れ子れんと住むことになる。

 

◾明治8年(1875)4月、養父母離婚成立。

 

◾明治9年(1876)5月、金之助(9歳)、塩原家に在籍のまま夏目家に戻る。

漱石は実の両親を祖父母だとずっと思い込んでいた。

浅草から牛込へ遷された私は、生まれた家へ帰ったとは気が付かずに、自分の両親をもとの通り祖父母とのみ思っていた。

私は普通の末ッ子のように決して両親から可愛がられなかった。

とくに父からは寧ろ過酷に取り扱われたという記憶がまだ私の頭に残っている。それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、何故か非常に嬉しかった。

漱石漱石が祖父母だと思っている二人は実の両親だと教えたのは下女だった。深夜にこっそり幼い漱石の枕元にやって来て耳打ちしたのだった。

心の中では大変嬉しかった。そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。不思議にも私はそれ程嬉しく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。覚えているのはただその人の親切だけである。

 

◾明治14年(1881)1月21日、母千枝没(享年56歳)

私は母の記念の為にここに何か書いて置きたいと思うが、生憎私の知っている母は、私の頭に大した材料を遺して行ってくれなかった。

私の母は千枝といった。私は今でもこの千枝という言葉を懐かしいものの一つに数えている。

私の今遠くから呼び起す彼女の幻像は、記憶の糸をいくら辿って行っても、お婆さんに見える。

 

悪戯で強情な私は、決して世間の末ッ子のように母から甘く取り扱われなかった。それでも宅中で一番私を可愛がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中には、何時でも籠もっている。

 

◾明治20年(1887)9月、第一高等中学校予科一級に進学。(20歳)

※この年、長兄大助没(享年32歳)、次兄直則没(享年30歳)。大助は優秀な人物だったようだが、次兄は道楽者だった。二人とも肺結核だった。兄姉の思い出も本書に書かれている。姉は佐和と房の二人で直克の先妻の子。

 

◾明治21年(1888)1月、夏目家に復籍。養家(塩原)にあてて

「互に不実不人情に相成らざる様致度存候也」

の一礼を取り交わした。これが「夏目漱石の妻」第3回の伏線となっている。

 


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※新潮日本文学アルバム『夏目漱石』より

 

 

◾同年9月、第一高等中学校本科一部(文科)に進学。(21歳)

 

◾明治22年1月、同窓の正岡子規を知り、交友関係をもった。

伊集院静の『ノボさん』には二人が寄席好きで意気投合した様子が描かれている。

 

◾明治23年9月、東京帝国大学文科大学英文科に入学。(23歳)

 

◾明治24年7月、通院する井上眼科で、「銀杏返しにたけながをかけた」女性に会う。初恋の人と云われている。

※この年、三兄直矩の後妻登世没(享年25歳)。漱石は兄嫁登世を敬愛していたとされる。

 君逝きて浮世に花はなかりけり

 何事ぞ手向けし花に狂う蝶

などの追悼句を詠んでいる。

直矩は遊び人で漱石はあまり好いていない。漱石と鏡子の離婚騒動の時には仲裁に入っている。直矩も漱石にお金をせびった一人なのだがドラマではどうだろうか。 

 

◾明治25年4月、分家届を出し、北海道平民となる。

※当時、北海道・沖縄平民は徴兵を免除されていたので、多くの人が徴兵逃れの為、北海道・沖縄平民となった。これは、漱石自身の意思ではなく、このことを気に病んで戦争が始まると精神が不安定になったという説もある。

 

◾同年夏、松山に帰省した正岡子規を訪ねて滞在、高浜虚子に会う。

 

◾明治26年(1893)7月、帝国大学卒業、同大学院入学。(26歳)

 

◾明治27年(1894)秋、神経衰弱に陥り、翌年初夏まで続く。(日清戦争中)

※この時も、誰かに見張られているという妄想に苦しめられている。

 

◾明治28年(1895)4月、松山中学の嘱託職員となる。

※理由は失恋説とか色々取り沙汰されているが、主に金銭面からではないかと思われる。

※ここからドラマ第1回が始まる。

 

 

「死は生よりも尊とい」

硝子戸の中』は死の影が色濃く映し出されているが、その部分から一部引用する。

不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつつある私は、自分の何時か一度到着しなければならない死という境地に就いて常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。

「死は生よりも尊とい」

こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来するようになった。

※当時、漱石48歳。死の前年に書かれている。この後、漱石は『道草』を執筆する。この作品はドラマ第2回、第3回の頃の漱石と鏡子を基に描かれているのだが、長くなるので、今日はここまでにしよう。

 

 


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大正3年12月漱石47歳

硝子戸の中』執筆の少し前

 

 


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明治25年5月(帝国大学文科大学時代)

※右は、米山保三郎

 

 

 

 

硝子戸の中 (新潮文庫)

硝子戸の中 (新潮文庫)

 

 

 

 

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