森の踏切番日記

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「お父様、死なないで」~漱石晩年

漱石鏡子夫妻まとめ(9)

🐱土曜ドラマ夏目漱石の妻]に合わせて漱石鏡子夫妻についてまとめております。ドラマの方は前回から独自の展開を見せていて、時系列が事実とは少し異なってきております。最終回もドラマ独自の展開が見られそうですが、ここでは明治43年修善寺大患以降、漱石晩年についてまとめたいと思います。

 

 

荒井伴男について補足

🐱鏡子夫人によると、夏目家を何度か訪れた荒井伴男に、漱石はその都度3円程の金を与えている。どこまでお人好しなのだ漱石は。荒井はそんな漱石の厚意を踏みにじるような行為におよんだそうだ。ドラマではどのように描くのか分からないが、ジコチューでアマアマのヘタレだったようだ。(荒井が筆子の勉強を見てあげたのは事実)

 

 

大塚楠緒子について補足

🐱大塚楠緒子(壇蜜)についても、既に触れているが補足すると、『硝子戸の中』に楠緒子の思い出を語っている個所がある。それは、千駄木時代のある雨の日に散歩していた漱石が俥(人力車)に乗った女性を見て、美しくて芸者みたいだなあと見惚れていると、すれ違う時に会釈をされて楠緒子だと始めて気が付いたという話と、早稲田南時代に夫婦喧嘩の最中に楠緒子が訪ねて来て、苦々しい顔のまま会うのも失礼だと思って顔を見せずに帰ってもらったという話である。この時は楠緒子は鏡子夫人と十分ばかり話をして帰っている。漱石は後日、西片町の大塚家にあやまりに出掛けている。

🐱楠緒子は漱石に依頼されて朝日新聞に小説を発表している。親しくはあったが、それ以上の付き合いは無かったと思う。

 

 

 

 

明治43年修善寺大患以降の漱石

🐱明治43年修善寺大患までの年表は

此の下に稲妻起る宵あらん - 森の踏切番日記

を御覧下さい。

 

◾明治43年(1910・43歳)8月6日、修善寺温泉に転地療養に赴くが、病状悪化、24日、吐血して三十分間人事不省に陥り、危篤状態になる。

※詳しくは修善寺大患日記 - 森の踏切番日記を御覧下さい。

 

◾10月11日、帰京、直ちに長与胃腸病院に入院。翌年2月26日まで病院生活を送る。

 

◾10月29日より翌年2月20日まで「思い出す事など」を「朝日新聞」に連載。(最後の一章は4月13日)

 

◾11月9日、大塚楠緒子没。(享年36歳)

 ある程の菊投げ入れよ棺の中

 

 

◾明治44年(1911・44歳)2月20日、文部省より文学博士授与の通知を受けて辞退したが受諾されず、結局物別れとなる。

 

◾6月17日から21日まで、長野県に講演旅行。

 

◾8月、講演会のため、明石・和歌山・堺・大阪を歴訪。

 

◾8月19日、講演先の大阪で胃潰瘍が再発して入院、9月14日帰京。

翌日、痔の手術、翌年春まで通院。

 

◾11月29日、五女ひな子急死。(1歳8ヶ月)

 

 

◾明治45年(1912・45歳)1月1日から4月29日まで、「彼岸過迄」を「朝日新聞」に連載。

※この作品は、五女ひな子の供養のために書かれた。

 

◾2月28日、池辺三山没。

 

◾春頃、胃の具合が悪く神経が不安定になる。

 

◾7月30日、明治天皇崩御

「明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年となす」(改元詔書より)

漱石は、日記に書きとめている。

 

◾9月末、痔の再手術のため入院。

 

◾11月頃から、孤独感が強まった。

 

◾12月6日から「行人」を「朝日新聞」に連載。

 

 

◾大正2年(1913・46歳)1月頃から強度の神経衰弱が再発、6月まで続く。3月末、胃潰瘍が再発、5月中旬まで、自宅で病臥し、「行人」は中絶。

 

◾9月16日から11月15日まで「行人」を連載。完結後、南画風の水彩画に熱中。

 

 

◾大正3年(1914・47歳)4月20日から8月11日まで、「心」を「朝日新聞」に連載。

 

◾9月中旬、四度目の胃潰瘍で一ヶ月病臥。

 

 

◾大正4年(1915・48歳)1月13日より2月23日まで、「硝子戸の中」を「朝日新聞」に連載。

 

◾3月19日、京都に旅行、磯田多佳、津田青楓等に迎えられたが、五度目の胃潰瘍で倒れる。4月19日、西下した鏡子と帰京。

※「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに」という前書きのついた句が、

 春の川を隔てゝ男女かな

 

◾6月3日より9月14日まで、「道草」を「朝日新聞」に連載。

 

◾12月、芥川龍之介久米正雄らが門下生となる。

 

◾大正5年(1916・49歳)1月18日から2月16日まで、リューマチ療養のため湯河原天野屋の中村是公のもとに転地。

 

◾4月から7月中旬まで、糖尿病の治療。

 

◾5月中旬、胃の具合が悪く病臥する。

 

◾5月26日より12月14日まで、「明暗」を「朝日新聞」に連載。かたわら、書画をかき、漢詩を作った。

※晩年の漱石は身も心もズタボロという感じだが、最後には「則天去私」の境地に達して心穏やかに過ごせたのだろうか。

 

◾11月16日、最後の木曜会では「則天去私」がふたたび語られたと伝えられる。

 

◾11月22日、胃潰瘍悪化。28日、大内出血。12月2日、再度の大内出血で絶対安静。8日、絶望状態。

◾12月9日、危篤。午後6時45分永眠。

◾12月12日、青山斎場で葬儀。戒名・文献院古道漱石居士。

◾12月14日、「明暗」は未完のまま絶筆。

◾12月28日、雑司ヶ谷墓地に埋葬される。

 

 

※長女・筆子の手記によると、当時女学校五年(17歳)だった筆子は、危篤の知らせを受けて学校を早退して、迎えの人力車に乗って家路を急いだのだが、途中で車が横転し、そこからは走って帰宅したそうだ。ようやく家にたどり着いた時には、親類関係者門下生は既に勢揃いしていたそうだ。

慌てて父の寝ている側へ参りましたが、もう、父は、昏睡状態に陥ってしまった後で、「お父様」と声をかけても意識が戻ることはありませんでした。

私が帰り着く前に、妹の愛子が泣きながら、「お父様、死なないで」と申しますと、「ああ、よしよし、心配しないでいいよ」と答えたというのですが……。

 

 

 稲妻の宵々毎や薄き粥

 

 

 

📄関連日記

  

 


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大正元年(1912)9月、明治天皇大喪の礼の日

 


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大正四年、左より長男純一(8)四女愛子(10)長女筆子(16)次女恒子(14)三女栄子(12)次男伸六(7)円内五女ひな子(明治44年没)

 

 

 

🐱スキヤキ事件とか、お風呂事件とか、電話事件とか夏目家面白エピソードもあったのだが長くなるので今日はここまでにしよう。🐥