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森の踏切番日記

人生LARKしたい

『城塞』上巻関連年表

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『城塞』再読(2)

🐱司馬遼太郎『城塞』上巻に関連する出来事を時系列に沿ってまとめておこうと思う。NHK大河ドラマ真田丸』を視聴するにあたって復習のため真田家の動向も加えておこうと思う。

(引用はすべて『城塞』より)

 


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◾慶長5年(1600)9月3~8日、第二次上田合戦。

(◽真田昌幸徳川秀忠の足止めに成功)

◾9月15日、関ヶ原の戦いで西軍が敗れる。

(◽真田信繁の岳父大谷吉継討死)

◾9月27日、徳川家康大坂城入城。

◾10月15日、家康、関ヶ原の合戦における諸将の論功行賞を告げる。

豊臣秀頼は約200万石の所領を摂津・和泉・河内の65万石に減封される。

◽12月13日、昌幸・信繁親子、上田城を徳川方に引き渡し、高野山に配流となる。その後、山麓の九度山に移る。上田領は真田信幸に与えられる。

 

◾慶長6年(1601)8月、家康、板倉勝重京都所司代に任命する。

◽※この年、真田信幸が信之に改名している。

 

◾慶長7年(1602)4月、家康、豊臣家家老片桐且元を通じて秀頼母子に方広寺大仏殿の再建をすすめる。

◾5月、家康、二条城を築く。

◽※信繁嫡男大助出生。(異説あり)

◽※真田信尹が徳川家に帰参。

 

◾慶長8年(1603)2月12日、家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く。

◽3月、信之、上田領の復興に着手。

(第二次上田合戦後、上田城は徹底的に破壊され、農民の逃散も相次いでいた)

◾7月28日、秀忠の娘千姫、秀頼に嫁す。

ともあれ、わずか六歳のむすめと十歳の少年をむすびつけるこの婚礼ほどおおじかけなものはむかしもいまも、あったためしはない。

 

◾慶長9年(1604)8月、京都豊国社の臨時祭(太閤七回忌)が催され、たいへんなにぎわいとなる。

家康は、不安になった。

「上方者は、思いちがいをしている」

その思いちがいを、いまのうちに訂(ただ)す手をうっておかねば、わざわいを今後にのこすかもしれない。

 

◾慶長10年(1605)4月16日、家康、将軍職を嫡子秀忠に譲る。

豊臣家に天下をゆずる意志のないことを、無言で天下に公表してしまった。

※この四日前に秀頼は内大臣から右大臣に官位が上がっている。秀忠は内大臣で格下になる。もちろん、家康の意志である。

◾5月、秀頼(というか淀殿)、家康の上洛要求を拒否する。

淀殿)「主人が家来の祝いに出かけてゆくというためしが、本朝はおろか唐天竺にもあろうか」

と叫び、

「それならば死にます。いいえこの身も死ぬ。右大臣様も死ぬ。私の膝の上にて刺し殺し、母子ともに死にます」

 

 

◾慶長12年(1607)3月、家康、駿府に退隠する。

◾4月、林羅山、幕府に出仕する。

◾12月、駿府城焼失する。(翌年再建)

 

◾慶長13年(1608)※家康、金地院崇伝を召しだす。

 

◾慶長14年(1606)6月、方広寺大仏殿の再建工事がはじめられる。(これ以前に一度着工したが火災で焼失している) 

 

◾慶長15年(1610)2月、諸大名の助役で、名古屋城を築く。

◽10月18日、信之の岳父本多忠勝没。

 

◾慶長16年(1611)3月29日、家康(70歳)、二条城で秀頼(19歳)と会見する。

淀殿は反対したが加藤清正と浅野幸長が説得し、会見にこぎつける。清正と幸長は道中の秀頼を警護し、清正は会見に臨んで万が一に備えて懐中に短刀を忍ばせ、秀頼に寄り添っていたという。

※家康は、阿呆だと噂される秀頼が、大男で、表情に威があり、挙措はゆたかであることに驚いたという。

「上野(本多正純)」

と、家康は急に威を帯びた声でいった。

「昨夜、考えてみた。よいか」

「これにて、うかがっておりまする」

「潰す」

◾4月、法令三ヶ条を示して、西国大名から誓詞をとる。浅野長政没(65)

◽6月4日、真田昌幸九度山で没する。(65)

「家康程度の者が天下をとるとは」

「わが死のあと、三年を経ずして関東大坂、合戦におよぶべし」

「このまま朽ちるほど無念なことはない」

◾6月24日、加藤清正没(50)

※二条城の会見後、伏見を離れる秀頼の船を見送った清正は「これで太閤殿下の御恩に報いることができた」と涙を流したという。

 

◾慶長17年(1612)1月、家康、法令三ヶ条を示して、東国大名から誓詞をとる。

◾3月、キリスト教禁圧が始まる。

 

◽慶長18年(1613)6月3日、昌幸正室山之手殿が没する。

※この年より、諸大名の江戸参勤が増加。

 

◾慶長19年(1614)4月、方広寺大仏殿が竣工する。

◾7月23日、幕府、方広寺大仏殿上棟供養の延期を命じる。

方広寺の鐘銘「国家安康 君臣豊楽」の文字に難癖をつける。(方広寺鐘銘事件)

※8月3日に大仏の開眼供養および堂供養が行われる予定であった。

◾8月13日、片桐且元駿府へ弁明にくだる。17日、駿府に入る。

家康、面会を拒否し、本多正純らに難詰させる。(大坂城は牢人を集めて戦の準備をしているのではないかと詰問)

◾8月29日、家康、進展しない交渉に苛立った淀殿が派遣した大蔵卿局大野治長の母)とにこやかに面会。鐘銘のことは不問に付すから安心するように伝える。

※一方、片桐且元は、本多正純から、

「よろしゅうござるな? まず第一は大坂城を明けること、第二は秀頼さまを江戸へおうつしするということ、第三はいそぎお袋さま(淀殿)を江戸詰めにするということ」

との最後通告を受ける。

※すべては片桐且元を孤立させて、開戦の口実を得るための作戦であった。

◾9月7日、幕府、江戸在府中の西国大名に対し、三ヶ条の誓書を差し出させる。

◾9月12日、且元、駿府を発つ。18日、大坂に戻る。20日、状況を報告する。

※豊臣家では、大蔵卿局の報告と食い違う屈辱的な要求に且元の裏切りを疑い、城内の強硬派(大野治長ら)は且元の誅殺を計画。

◾10月1日、且元、身の危険を察し、弟の主膳とともに武装した三、四千の家臣を従えて大坂城を退去、居城の茨木城に戻る。

※且元の失脚は、上方と関東との事実上の断交を意味している。

※崇伝は且元の退去を聞いて日記に、「大坂自滅之躰と相聞え候」と記している。

 


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Wikipedia  より)


 

 

◽10月初旬、九度山の信繁のもとに、大坂からの密使が訪れる。

◽10月9日、信繁、日頃のお礼がしたいと村人たちを招き酒宴を催し、村人たちがすっかり酔いつぶれた隙に、こっそり九度山を脱出する。(『翁草』、『武功雑記』など)

◽10月13日、信繁一行、大坂城に入城する。

 

 

 

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