森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

その答は風の中

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🐱10月24日(月)の朝刊の文芸欄の〈季節のエッセー〉の担当は詩人の最果タヒ。タイトルは「コートと川」。外出していても「心がインドア」な最果さんは、コートにこだわりがあるようだ。「人口密度に疲れる」最果さんにとって衣類をたくさん着込む秋冬は、他人との間に「静かな川が流れているような」距離ができて過ごしやすいという。相変わらず心の壁の分厚い人だなあ。でも、その気持ち、少し分かるような気がする。

 

🐱そういえば最近、たひーんのブログをチェックしていないなと思い出し、さっそくアクセス。ん? 未読は一本だけか。

 

🔘最果タヒ.blog

10-06言葉は悪人になったほうが書きやすい

🐱最果さんは自分が善人ではない自覚があるので善人になることに苦痛を覚えるようだ。善悪正邪は相対的なものだし、個人の中には善もあれば悪もあるし、正しい時もあれば間違ってる時もあるのだけれど、どうやら正論を吐くことに抵抗を覚えるということみたいだ。確かに、正論を振りかざす奴ってなんか胡散臭いところはある。正論ばかりを吐く人間はあまり信用しないことにしている。時には、自分が正論を吐かなければならない状況に追い込まれることもあるな。その時は、覚悟を決めるしかないな。背中がこそばゆいけれども。

「私は善人になることで、私そのものを殺してしまっている」 

 いや、そこまで思い詰めなくても……。

 

 

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※読書録:『聖なる怠け者の冒険』森見登美彦

 

 

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🐱少し古くなるが、10月21日 (金)の朝刊の文化面は、ノーベル文学賞に関する話題で、いろんな人がいろんな意見を言っている。まとめると、村上春樹は、エンターテインメント性が高過ぎる(やや軽い)ことと、売れ過ぎることが受賞の障壁になっているということのようだ。

😾吾輩は、重い文学の方が優れているとは思わない。売れる売れないは文学の本質とは何の関係もない。実にくだらん話だ。要するに選考委員の連中がエエカッコしたいだけやないかい。アホ臭さ。

🐱そもそも、ノーベル文学賞を受賞するほどの文学者は受賞するしないなどということで何かが変わるようなレベルではないだろうと思う。村上春樹にしても、ノーベル文学賞を受賞しようがしまいが何も変わりはしないだろう。川端康成の時代とは違うのだ。マスメディアがはしゃぎたいだけではないか。

🐱ところで、村上春樹の作品はホントに「やや軽い」だろうか。確かに、軽い面はあるけれども、単なる軽さとも思わないのだが。吾輩は、ハルキストではないし、作品をすべて読んだわけでもないが、軽さの中に深いものがあるように思うのだが。

🙀よく考えたら、吾輩は昔から、ノーベル賞自体にそれ程興味がないのであった。特に、文学賞とか経済学賞とか平和賞などはどうでもよいのだ。憲法9条が平和賞を受賞したところで何が変わるというのだ?

 

 


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Bob Dylan and Joan Baez(WikiImages cc0)

 

🐱10月24日(月)の朝刊に戻って文化面では、映画監督の森達也氏がボブ・ディランノーベル文学賞受賞について感想を寄せている。

少なくとも信念と意志の人ではない。だから迷う。思想に硬直しない。聖人でもない。ドラッグにおぼれた時期も、引きこもっていた時期もある。君子でもない。だから感応する。時代の熱に。社会の矛盾に。弱い人の声に。その帰結として、反体制で偏屈で自由なディランが造形された。

🐱あなたは音楽家なのか詩人なのかと質問されて、「芸人さ」と答えるディランが好きである。

🐱森達也監督は、受賞式でトロフィーをもらう姿は想像できないそうだ。全く、同感である。果たして、ディランは、どうするつもりなのだろうか?🐥