森の踏切番日記

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真田幸村書状原本100年ぶりに発見される

『城塞』再読(3)

🐱今回から、司馬遼太郎『城塞』中巻に入ります。中巻は真田幸村の大坂入城から始まるので、大河ドラマ真田丸』第41回「入城」の復習を兼ねて、真田幸村九度山退去を振り返っておきます。

 


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◾慶長5年(1600)12月、真田昌幸・幸村親子、高野山に配流。その後、九度山に移る。

※主君とともに牢人した家来衆は、高梨内記、小山田治左衛門など十六名。『城塞』では山之手殿も九度山住まいとなっているが、通説では上田に残っている。側室は連れて来たとされている。

※幸村の妻室は、正室竹林院(春)、高梨内記娘(きり)、隆清院(たか)が九度山に来ていて、堀田作兵衛妹(梅)は作兵衛とともに上田に残ったとされている。幸村は、九度山で嫡男大助(慶長七年出生)をはじめ二男五女をもうけている。

九度山での生活は、扱いは悪いものではないとはいえ厳しいものであったという。国許からの支援だけでは足りず、あちこちに借金をしていたという。

※『城塞』では真田紐を作って、その販売を通して情報を収集している。

 

 

◾慶長16年(1611)6月4日、真田昌幸没(65)

※「重病を受けて、まさに死なんとす。よって嘆息し、我に一つの秘計あり、これを用いずして徒(いたずら)に死なんこと口惜し、と」(「真武内伝」、「武将感状記」)

※『城塞』では、幸村が、その秘策を授けて欲しいと頼むと、昌幸は、世間的に無名な幸村では、どんな妙案でも大坂の城衆を信用させることは出来ないから無理だと諭すが、幸村がなおもせがんだので、ついに明かしている。

「人間というのは過去から現在までの世間における履歴で事をなせるのだ」

※幸村が代筆した最晩年の書状には、

「この一両年はもう年を取りましたから気根が草臥れました」

とある。この書状の追伸に幸村は自身のことを、

「私にいたりましては、なおさら大草臥れ者になりました」

と、認めている。(丸島和洋『真田四代と信繁』)

※昌幸没後、上田に帰国する家来衆もいたようで、幸村は「ひとしおうそさぶく」と書き記している。(同上)

 
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真田昌幸

 

 

◾慶長19年(1614)10月9日、幸村一行、九度山退去。(10月7日説もある)

※『城塞』では9月25日になっている。『真田丸』でも、家康の駿府出発前に幸村は大坂城に入城しているので、前例を踏襲したようだ。火坂雅志の『真田三代』は10月9日説を採用している。

※『城塞』では、大坂城からの使者は、大野修理大夫家来米村権右衛門が、やって来ているが、『真田三代』では、明石掃部全登が使者として九度山を訪れている。

※『城塞』では、法事を理由にしているが、伝承では、日頃のお礼がしたいと、村人たちを招いて酒宴を催し、村人たちがすっかり酔いつぶれた隙に、こっそり村を抜け出したという。

※『城塞』では、農民たちが寺の周囲を取り囲んだが、真田主従の武威に恐れをなし、ただ見送るだけだったという「古老茶話」の逸話を採用している。

火坂雅志は、農民たちは、むしろ積極的に幸村に力を貸したのではないかと推測している。

※『城塞』も『真田三代』も幸村一行は五十人程だったとしている。火坂雅志は、高梨内記ら近臣、妻子に、九度山周辺の郷士が加わったとしている。(『真田三代』では、佐助や霧隠才蔵も数のうちに入る)

※脱出方法やその後の経過については、さまざまな逸話が伝えられている。九度山を脱出した幸村一行が、大坂に近づくにつれて、真田の旧臣たちが、ひとりまたひとりと加わったという伝承もある。

 

◾同年10月13日、幸村一行、大坂入城。

※『武辺咄聞書』などによると、入城に際して幸村は、頭を丸めて山伏の姿となり、伝心月叟と名乗って大野治長の屋敷を訪れたという。取次の士は山伏と聞いて軽視し、番所に留め置いたが、身につけている刀と脇差が風体と一致しない高級品であったため、治長の家臣が改めたところ、刀は正宗、脇差は貞宗の銘を持つ名刀であった(『城塞』では、貞宗・信国)。それで、これはただ者ではないとなり、治長が対面したところ、幸村と判ったとある。

※『城塞』では、この逸話を大坂に着く前に設定している。大野修理(治長)らが平野口で幸村一行を出迎え、宿に案内している。秀頼の使者として秀頼の側近速水守久が宿を訪れている。大坂城にとって「天下に喧伝すべき好材料」であるために、幸村を堂々と入城させている。

※『真田三代』では、大野道犬斎(治長の弟)が平野口まで迎えに出向き、大野邸に招き入れている。幸村は大野邸で秀頼の使者速水守久と面会している。

※『真田丸』では、幸村が老人に扮装することで、展開をスピーディーにしている。

※10月10日大坂入城説もあるようだ。

 

※『石合家記』(石合十蔵家の家譜)は、高野山からの随身十六騎、信濃からの参陣五十騎とする。この五十騎に堀田作兵衛興重も含まれる。『幸村君伝記』は、信濃から駆けつけた家臣を百八十人としている。(丸島和洋『真田四代と信繁』)

 

後藤又兵衛基次配下の長沢九郎兵衛の覚書によると、「真田左衛門佐は四十四、五にも見え申し候、額口に二、三寸の疵痕これあり、小兵なる人にて候」とある。

 

※真田家家臣河原綱徳が幕末に編纂した『真田家御事跡稿』によると、大坂の陣で討死した時、49歳であったという。それで、永禄10年(1567)生まれというのが通説になっている。ところが同書は、真田家の菩提寺長国寺の過去帳には享年46とあったとも記している。これに従うと元亀元年(1570)生まれとなる。(丸島和洋『真田四代と信繁』)

 


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真田信繁

 

 

 

😺慶長19年2月8日付とみられる幸村が姉の夫で家臣の小山田茂誠に出した書状があって、そこには、

「去年よりにわかに病者になり、歯も抜け、鬚なども黒きは少なく候」

と、わが身の衰えを嘆いている。この書状は影写本は現存するのだが、原本の所在が分からなくなっていた。それが、今回、百年ぶりに発見されたのだ。🐥

 



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京都新聞2016年10月25日朝刊

🔎真田幸村の書状、100年ぶり発見 京都で公開、幽閉や老い嘆く : 京都新聞

 

 

 

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