森の踏切番日記

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『城塞』中巻再読・城の中の人たち

『城塞』再読(6)

🐱司馬遼太郎『城塞』中巻を再読しております。今回は、淀殿・秀頼に仕える主な家臣たちについて、簡単に振り返っておこうと思います。

 
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片桐且元(市正)

※弘治2年(1556)生まれ 。片桐家は元々は浅井家に仕えていたようだ。16歳で、秀吉の直参となり、「助作」と呼ばれて成人し、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられるが、一番地味で目立たない存在である。小牧・長久手の陣から九州および小田原征伐、朝鮮の役にも従軍している。従五位下東市正に任ぜられ摂津茨木一万二千石の城主となり、幼い秀頼の傅役を仰せつかる。 「虎」こと清正や「市」こと正則などと比べると、あまり出世していない。この人は作事奉行や検地奉行などを務めたりしていて、どちらかといえば文治派である。関ヶ原の戦いでは西軍についたが、家康に接近して戦後加増されている。利用価値ありと見なされたのだろう。家康の後ろ盾で豊臣家の家老職となるが、淀殿近辺からは警戒され、家康の悪謀に翻弄されてしまう。大坂夏の陣直後、 元和元年(1615)5月28 日没。肺病を患っていたと云われるが心身ともに疲れ果てたのだろう。

🐱家康が、この事務能力は高いが地味で平凡なおっさんに目を付けたところが凄いな。

 桐一葉おちて天下の秋を知る

 
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片桐且元

 

 

大野治長従四位下修理大夫

大野治長は永禄12年(1569)生まれ。大野三兄弟の母大蔵卿局は、茶々が北近江の小谷城にあった当時からの乳母であったので、茶々と治長は乳兄弟の関係にある(茶々の生年は、はっきりしないが同い年か茶々がちょっと年上)。天正元年(1573)8月、小谷城が落城。お市の方柴田勝家と再婚し、越前北ノ庄城に移り住んだ際も従っている。茶々と運命を共にしてきたと云っても過言ではないだろう。

※そんなこんなで、「あの二人、実はできてんじゃね?」と、疑惑を持たれて「秀頼の父親実は治長説」がある。隔世遺伝で秀頼は浅井長政似という意見もある。

※『城塞』では、実戦経験に乏しく器量が小さく、母親の縁故で出世したと周囲から思われていて人望がないように描かれている。

修理は秀吉の当時、三千石の旗本にすぎなかった。しかしいまでは淀殿の乳母の子であるというだけの理由で、淀殿はこの城内のどの男よりも修理を信頼している。

(修理)「私の主人は御母君と秀頼さまだ。主人のお気の休まるようにここは致さねばならぬ」

修理は、淀殿を言いくるめてしまって大戦略をたてるような男ではなく、淀殿の気持を安らがせるということを思考の重要な因子にしつつ、事を処理していく男らしい。その処理の仕方については、かれはなかなか有能であった。

淀殿にとって修理はあくまでも乳母の子で、それだけのことであった。まさか淀殿は、この修理が、大坂勢をひきいて家康と雌雄を決すべき戦いをしようとは、どうにもおもえない。

大野修理は東西の手切れ前後までは、なかなか頑張っていて、諸国に書状を出したり牢人や兵糧を集めたりしていて、幸村も、大野修理のいかにも襟度のひろそうな感じに安堵しているのだが、城内の開戦準備が進むとともに余裕がなくなってしまう。

修理はそういう軍事的緊張の重さに脆い神経をもっているのか、人変わりしたような印象をひとびとにあたえはじめた。 表情がつねに暗く、瞳に落ちつきをうしない、  貌(かお)がひとまわり小さくなり、毎日喋っている言葉の大半は、物事を創りあげるための言葉でなく、愚痴であった。

でもって、母親のそばにいると安心するのか、淀殿の御殿に入り浸りになる。淀殿淀殿で気休めのため修理を夜中でも呼んで質問するので、「あの二人、怪しくね?」と噂が立つようになる。

😽司馬は、石田三成のことを「癇の高い小型犬のような男」と評しているが、それならば大野治長は、困り顔の座敷犬であるな。

😽大河ドラマ真田丸』では、茶々は「幸村以外の牢人は信用出来ない」と言っていたが、『城塞』の淀殿は、身内以外は誰も信用していない。『真田丸』の茶々も、実は身内以外は誰も信用していないのではないかと思った。

 

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 😽大野治長

 

 

◾大野治房(主馬)  

※治長の弟。主戦派で兄と対立する。

😽『真田丸』では、キックボクサーにしか見えないな。まだ、一言もセリフ無いよな。

 
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😽主馬と又兵衛のタイマンとか見てみたい。

 

 

◾大野治胤(道犬斎)

※ 治長・治房の弟。『城塞』では、実は年下の叔父としている。関ヶ原の敗戦の後、淀殿に取り入り、「あの二人、できてんじゃね?」という噂が立ち(大野修理説もある)、大蔵卿局が追い出したのだが、東西手切れの後大坂城に戻ってきている。犬好き故に「道犬斎」と名乗ると云う。

🐱「橙武者」といえば薄田兼相のことだが、この人も「橙武者」と呼ばれたらしい。

🐱さらに下の弟に治純がいるが、徳川家に人質に出され、そのまま徳川家に仕えている。

 

 

木村重成正四位上長門守)

※いろいろ説があるようだが、ここでは文禄2年(1593)生まれとしておく。かつて六角氏に仕えた佐々木三郎左衛門の子で、一族の木村重茲の養子になる。重成の母・ 宮内卿局は、同年に生まれた秀頼の乳母として大坂城に出仕するが、二年後、関白豊臣秀次事件に連座して重茲が自害したため、母子ともに大坂城を出て、六角義康を頼る。秀吉の死後、 淀殿に召されて大坂城に戻り、重成は秀頼の小姓として近侍する。秀頼の幼少時からの遊び相手であり、乳兄弟の関係であった。

※『城塞』では、

この青年の風変わりなところは、当世具足と呼ばれる新奇で個性的な甲冑を喜ばないことであった。彼の兜は、まるで平家の公達のように古風で、銀の星を打った鉢金に黄金の鍬形の前立ち、鎧は緋縅の大鎧であった。

と描写している。又兵衛は「すがすがしい心意気をもった」重成を好もしく思っている。重成は、日頃は物腰穏やかで慎み深く、軟弱者と陰口をたたかれることもあったが、大坂の陣では武名を上げる。


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木村重成
 

 

◾渡辺内蔵助糺

※槍術の達人。母親はやはり淀殿の女官。

 

◾七手組

※秀吉の親衛隊だったが秀頼の代にはすでに弱体化している。親衛隊長は、

 速水甲斐守守久

 青木民部少輔一重

 真野豊後守頼包

 伊東丹後守長次

 堀田図書頭正高

 中島式部少輔氏種

 野々村伊予守吉安

で、みな官位(従五位下)をもち、それぞれ一万石余りを知行している。『城塞』では、青木はもともと家康の家臣で冬の陣が終わるや、早くも徳川家の家臣に復帰している。伊東も関ヶ原の頃から徳川方と通じていて、大坂の陣幕臣になっている。真野は、藤堂高虎と通じていて、大坂の陣後藤堂家の家来になっている。堀田は既に老齢で、秀頼のために懸命なのは、速水守久ぐらいのものだったとしている。

 

🐱城内には他にも、織田有楽斎、小幡勘兵衛、千姫付きの家来など、徳川方の間諜が沢山入り込んでいて、情報は筒抜けである。 家康は別に、片桐且元に内情を尋ねる必要は無かったのである。あれは、一種の儀式であったと云える。従って、兵糧を尋ねるよりも淀殿・秀頼の居所を尋ねる方が家康の残酷さを強調しているように思われる。🐥

 

 

 

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