森の踏切番日記

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織田有楽斎という人生

11月の読書録02ーーーーーーー

 大坂の陣 名将列伝

 永岡慶之助

 学陽書房人物文庫(2014/03/17:2000)

 1611-02★★★

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🐱この本は、ブックオフ・オンラインでたまたま見つけた。108円だったので、ついでに買って読んでみた。だいたいは知っている内容だったが、なかなか楽しく読めた。おそらく歴史好きの著者が楽しんで書いているからだろう。昭和的な語り口で昔ながらの歴史読本という雰囲気である。

🐱本書は、西軍武将・東軍武将それぞれ八人を取り上げ、その略歴と大坂の陣での活躍、暗躍、迷走ぶりを紹介している。必ずしも史実に忠実というわけではなく俗説も交えている。著者自身お気に入りの物語があるのであろう。

🐱西軍武将は、真田幸村、塙団右衛門、後藤又兵衛木村重成明石全登長宗我部盛親大野治長・治房兄弟、片桐且元の八名で、何故か毛利勝永が抜けている。著者の好みであろうか。

🐱東軍武将は、松平忠輝、大久保彦左衛門、伊達政宗福島正則本多正純織田有楽斎松平忠直徳川秀忠の八名である。東軍に有楽斎が入っているところがミソである。分量としては東軍は西軍の半分程度である。

🐱ここでは、大河ドラマ真田丸大坂の陣編で最も気になる胡散臭い爺さん織田有楽斎を取り上げようと思う。

 

 

 

🔘織田有楽斎

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従四位下・侍従)

 

 

◾天文16年(1547)、織田信秀の十一男として生まれる。

※信長の13歳年下になる。本名は長益。通称を源五、または源五郎と称する。

 

天正10年(1582・36歳)、本能寺の変

※信長存命中は信長の嫡男信忠に属し、本能寺の変の際も長益は信忠に従って二条御所に籠もっていた。

※甥の信忠が自決したと聞いた長益は、「わしも自害する」と言って、二条御所に火をつけるために、柴を準備せよと命じる。そして、その間に、こそっと抜け出して安土へ落ちのびている。当時の京童は、

織田の源五は人ではないよ

お腹召せ召せ召させておいて

われは安土へ逃げるは源五

むつき二日に大水出て

織田の原なる名を流す

と囃したという。

(長益が信忠に自決をすすめたという風説がある)

本能寺の変後、甥の信雄の旗下にはいる。

🐱本当に自害するつもりだったのだが、直前になって急に死にたくなくなったというスジもあるかもな。

 

天正12年(1584・38歳)、小牧・長久手の戦い

※家康方と秀吉方の折衝役を務める。

 

天正18年(1590・44歳)、信雄、改易される。

※長益は秀吉の御伽衆となり、摂津国島下郡味舌(ました)で二千石の知行を得る。このとき、剃髪入道して「有楽斎」と号する。

※最初は「無楽」と号したが、秀吉から「有楽」と改名せよと言われたという話もある。

※有楽は武将としてよりは茶人として有名で利休七哲の一人に数えられるほどである。秀吉のもとでたびたび茶会を開いている。

🐱「無楽」というのは、この世にもう楽しみは無いということらしい。ペシミストだったのか、単なるカッコつけか。「有楽」というのは秀吉らしいネーミングだな。

 

◾慶長5年(1600・54歳)、関ヶ原の戦い

※有楽は、息子の長孝とともに徳川方に参戦し、石田三成の将横山喜内を討ち取る戦功を立てる。実は、家老が助勢してくれたため辛うじて首を搔くことが出来たという説もあるらしい。この功績をもって、大和国内に三万石を加増されている。

🐱大名になりたいという野心が、まだ残っていたとみえる。

 

※有楽は大坂天満屋敷に移り住み、茶会を催していて(茶道有楽流を創始している)、『有楽亭茶湯日記』という茶会日記を残している。それによると、茶会の出席者には、家康に近い茶人や商人、大野治長木村重成片桐且元といった淀殿側近、さらに豊臣秀頼までがいたという。

 

◾慶長16年(1611・65歳)、家康、二条城にて秀頼と会見。

※有楽は、大坂城から二条城まで秀頼に付き従っている。

 

◾慶長19年(1614・68歳)、大坂冬の陣

片桐且元が、家康の内通者と疑われて大坂城を退去すると、入れ替わるようにして有楽が大坂城入りしている。

(これより前に大坂方は、織田信雄を総大将として招聘したが逃げられている)

※信長の弟であり、淀殿の叔父にあたる有楽は、最高幹部として迎えられたという。淀殿は、

「叔父上が参られた」

と、頬を綻ばせたという。

🐱司馬の『城塞』でも淀殿は「織田家」の血筋を心の拠り所としている。秀吉に対しても織田家の家臣という意識が強かったように描かれている。

🐱有楽の嫡男頼長も大坂城入りしている。強硬派であったというが、冬の陣では病と称し戦に加わっていない。夏の陣では何故か総大将に立候補し、拒否されて退城している。訳分からん。

 

徳川幕府編纂『寛政重修諸家譜』には、有楽は、家康の内意をうけて大坂城に籠城、つねに密事を関東に注進したと記してあるそうだ。

🐱事実として家康に内通していたかどうかは分からないが、家康にも淀殿にも、どちらにも良い顔をしたかったのかもしれない。淀殿・秀頼母子に対してどの程度の思い入れがあったかは分からないが有楽の立場としては最善の行動だったのではないかと思う。

 

※冬の陣が始まると、家康の意を受けて講和締結に向けて奔走する。和議が成立すると、有楽は自分の子を人質として江戸へ送っている。

🐱有楽としては和睦を進めて、さっさと逃げ出したかっただけかも知れない。『城塞』では、淀殿以外誰からも信用されなくなっている。

 

◾元和元年(1615・69歳)、大坂夏の陣

大坂城内で再び決戦の気運が高まると、有楽は家康への恭順を主張したが、もはや誰も有楽の意見を聞き入れない状況となり、大坂城を退去する。夏の陣開戦直前の4月13日には、家康のもとを訪れている。

🐱有楽は自分が生き残ることを最優先に生きていただけかも知れない。淀殿・秀頼と運命を共にする義理はないものなあ。単に親戚というだけだし。

 

大坂夏の陣後、有楽は四男長政、五男尚長にそれぞれ一万石を分割して与え、自身は一万石を隠居料として京都東山に移り住んで茶事三昧の余生を過ごす。

 

◾元和7年(1621)京都で死去 。享年75

🐱本能寺の変での行動が評価を決定づけたと云えるだろうが、死んだらそれまでだもんな。

 

 


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😽大河ドラマ真田丸』では、どのような織田有楽斎が見られるのか、大坂城を退去する時、「お世話になりました🎵」と言うかどうか、今後の展開が楽しみである。

 

 

 

😺もう一つ、面白い話が載っていたので紹介します。

 

🔘東軍参戦将兵余滴・猛者たち

※加賀の前田利常の家臣で、大坂の陣に参戦した小田切所右衛門の武勇伝。

真田丸を攻めた際、あまりにも接近して銃弾に当たった。ところが彼は、銃弾を抜き取って傍らの平野野次右衛門に見せ、笑いながら会話しているさまが、まるで平生のようであり、そうしている中にも、またまた額に命中した。

「やはり、兜というものは、大事なものですなあ。この兜は、信玄公より拝領したもので御座るよ」

などといいながら、銃弾を抜き取ると、額から血が流れ出たが、少しもひるんだ様子をしなかったので、その武者ぶりを敵味方が賞賛したものであった。

※その平野野次右衛門の従者五右衛門の武勇伝。

主人の盾になって、銃弾十八発まで身に受け、

「かすり傷でござるわ」

と笑い捨てた。それでその剛気を称賛した真田丸から、高々と、

「名を聞かせて候え」

と声がかかった。ここで従者五右衛門がハタと困ったのは、名乗るべき姓を有さぬことであった。と見てとった平野野次右衛門が、傍から「わが姓をつかわす」というと、ぱっと顔を輝かせた五右衛門が、胸を張り、声音朗々と、

「われは平野野次右衛門が下人、五右衛門という者であるが、これまで御供したる褒美として、たった今、氏を賜って平野五右衛門となり申した」

と答えた。

すると真田丸上から、祝福の拍手が湧きあがった。

🐱大坂の陣が、戦国時代の終わりを告げる戦であったことを思い起こさせる逸話だと思う。

 

 

🐱他にも、関ヶ原の合戦で敗れた宇喜多秀家が死罪を免れたのは、天下の名物と称される「初花」の茶入を家康に献上したからだという逸話が紹介されていて、何かで読んだことがあったなあと思い出した。🐥

 

 

 

大坂の陣 名将列伝 (人物文庫)

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