森の踏切番日記

人生LARKしたい

愚陀仏は主人の名なり冬籠 漱石

11月の読書録08ーーーーーーー

 俳人漱石

 坪内稔典

 岩波新書(2003/05/20)

 1611-08★★★☆

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夏目漱石は作家になる前は俳人だった。特に英語の教師として赴任した松山時代から熊本時代にかけて、友人・正岡子規の影響もあって、句作に熱中し、新進の俳人として時めいていた。二千五百をこえる漱石の俳句から百句を選び、滑稽、ユーモア、ことばあそびにあふれる漱石俳句の世界を、漱石・子規と対話しながら紹介する。

 

🐱本書は、坪内稔典先生が「漱石の俳句を鑑賞しながら〈俳人漱石〉の意義をさまざまな角度から」考察したもので、「漱石や子規を長く読んできた」著者が、著者・漱石・子規の一人三役をこなし鼎談するという型破りな形式で書かれている楽しい俳句の本である。

🐱著者によると漱石は、小説家になる前は、子規を中心とする新派俳句の代表的俳人の一人だったそうだ。それが、小説家としてあまりにも有名になってしまって、俳人漱石が忘れられているという。そこで、俳人漱石を再評価しようというのが本書の趣旨であるようだ。

 

 

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明治29年3月松山中学校卒業記念写真

 

 

Ⅰ:俳人になるまで

◾明治22年(1889)から27年(1894)まで

※第一高等中学校在学中(22歳)、正岡子規との交友が始まってから、帝国大学大学院時代(27歳)までにあたる。作句数52句。そのうち鑑賞句は12句挙げられている。

 

🐱漱石は子規宛の手紙に俳句を書いては添削して貰っていたのだが、この時期の漱石の俳句は正直下手くそで、月並俳句が多いようである。著者の解説によると、「切れや季語の意識が希薄」であり、「まだ俳句の骨法が分かっていない」ということだそうだ。

🐱この中で有名な句は、25歳で他界した兄嫁登世の死を悼む俳句13句だろう。本書では、その中から、

 朝貌(顔)や咲た許りの命哉

が、鑑賞句として挙げられている。この句は、「朝顔と咲いたばかりの命の取り合わせは陳腐」との評価である。他の句も、「単純に下手」、「紋切り型」、「月並みの見本」と散々である。

🐱漱石は、子規に「添削しろ。そして、時々はほめろ」などと要求しているそうで、例えば、

 峰の雲落ちて声あり筧水

という漱石の句を子規は、

 峰の雲落ちて筧に水の音

と、添削している。

「声」というやや抽象的なものを「水の音」という具体的なものとして表現する、これが俳句の骨法なんだ

ということだそうだ。ためになるなあ。

🐱ところが、この頃の子規の句も、それ程上手いとは云えない。なんとなく安心する。

🐱著者は、俳句を添削するという行為はコラボ(共同制作)だと云う。

先達や仲間などの力によって、個人が他者に開かれてゆく。そのような表現が詩歌なのかもしれない。

作者という個人よりも、作品そのものが主役なんだよ。もちろん、作者の感情や感動が作句の出発点だけどね。

🐱他に印象に残った箇所を引用すると、

子規さんも漱石さんも言葉に敏感でした。困難に直面したときでも言葉で遊び、遊ぶことで困難を乗り越えている、と見えます。

 


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松山中学校時代の夏目金之助先生

 

 

Ⅱ:俳人・愚陀仏

◾明治28年(1895)、4月から10月まで

漱石28歳。4月に松山に赴任。5月26日の子規あての手紙に「俳門に入らんと存候」と書き、指導を求めている。8月27日、子規が漱石の下宿「愚陀仏庵」に同居。10月19日、子規が松山を発って東京に向かう。明治28年の作句数は464句。本章の鑑賞句は11句挙げられている。

 

🐱この章でまず紹介される鑑賞句は、

 鐘つけば銀杏ちるなり建長寺

だが、この句から想起されるのは、子規のあの有名な句、

 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

である。漱石の句の方が先にできている。この二句の類似は有名で、よく取り沙汰されるが、著者による漱石の方の句の評は、

寺の風景として平凡です。はっとするものがありません。

それに対して、子規の句は、「意表を突く」表現だということで、両者の違いは歴然としているとのことだ。

🐱子規は、漱石の下宿「愚陀仏庵」に落ち着くと、早速柳原極堂ら松風会のメンバーを集めて句会を連日催している。漱石も「うるさくて勉強が出来ん」とか言いながら、結構楽しげに句会に参加していたようだ。句会で揉まれた成果があったのか、この時期、漱石の俳句は急速に進歩したということである。

 馬に二人霧をいでたり鈴のおと

 秋の山南を向いて寺二つ

などが、鑑賞句として挙げられている。

🐱添削講座としては、

 爺と婆さびしき秋の彼岸かな

 親一人子一人盆のあはれなり

という漱石作の二句を

 爺と婆ふたりの秋の彼岸かな

 親一人子一人盆の夕べかな

と直している。

「さびしき」や「あはれ」という思いを言わない方が俳句の世界が広がるんだ。

なるほど。ためになるなあ。

 


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※復元された愚陀仏庵の室内(一階)

 

 

Ⅲ:二人句会

◾明治28年(1895)10月から29年(1896)4月まで

漱石28歳から29歳。子規上京後から、漱石が熊本に赴任するまでの期間にあたる。漱石は、12月下旬に上京、28日に中根鏡子と見合いをする。1月3日、子規庵の句会に出席している。明治29年の作句数は522句。本章の鑑賞句は25句が挙げられている。

 

🐱子規が松山を発った後、漱石は、かなりまとまった句稿を子規に送って批評を求めている。明治28年の464句は、ほとんどがこの時期のものだそうだ。(作句はしたが、句が残っていないという事情もある)

🐱子規の評価が残っている句稿もあり、「陳腐ハ免れじ」、「初心、平凡、イヤミ」、「趣向も言葉もマヅイ」、「発句にては候まじ」、「陳也、拙也」と辛辣である。そんな子規が二重丸を付けた句は、

 雲来り雲去る瀑(たき)の紅葉かな

 唐黍を干すや谷間の一軒家

🐱漱石は句稿に、

悪いのは遠慮なく評し給え。その代りいいのは少しほめ給え。

などと、書き添えている。なんか微笑ましい。

🐱漱石の句は、言い過ぎる傾向があるそうで、それがなぜ問題かというと、

作者が一人で句の意味を決めるからだ。つまり、作者が言い過ぎると、意味が限定され、多義的でなくなるんだね。

ということだそうだ。「意味が多義的」ということが俳句の特色らしい。意味をはっきり一つに限定すると川柳に近くなるという。なるほどねえ。

さらに、別の言い方をすると、読者に鑑賞の楽しみを残すことだ。

この項の鑑賞句は、

 行く年や膝と膝とをつき合わせ

「膝と膝とをつき合わせ」ているのは誰かは、読者がそれぞれ鑑賞すればよいということだ。吾輩は夫婦喧嘩を想像する。

🐱明治29年1月3日の子規庵での句会からは、

 干網に立つ陽炎の腥(なまぐさ)き

 半鐘とならんで高き冬木哉

の二句が鑑賞句に採られている。この句会には、子規、漱石、虚子、碧梧桐、可全、鳴雪、飄亭、それに、森鴎外が参加した。

🐱明治29年の句稿からは、

 断礎一片有明桜ちりかゝる

 落つるなり天に向つて揚雲雀

などが鑑賞句として挙げられている。この時期の漱石は、虚子にも句稿を送って評を求めたり、完全に俳句にはまっている感じである。

 

 

🐱他にも、漱石

 思ふ事只一筋に乙鳥(つばめ)かな

という句を、

 思ふ事只一筋や乙鳥(つばくらめ)

とすると、前者は、「思ふ事只一筋に」はツバメの飛び方の譬えであるのに対して、後者は、「思ふ事只一筋」なのは人であり、その人のそばをツバメが一直線に飛んでいる、と解釈されるという解説など、俳句初心者にはためになる内容となっている。

 

 


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※10月末の句稿

中程の二重丸が「思ふこと只一筋に乙鳥かな」の句

 


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※上の句稿の続き

左から三句目、「さみしいな妻ありてこそ冬籠」

 


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※11月3日の句稿の冒頭部分と思われる

 


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※子規選句、自筆の「承露盤」(明治28年)

二句目が、漱石の「愚陀仏は主人の名なり冬籠」

 

 

 

 

 

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