『正岡子規 言葉と生きる』
坪内稔典著(岩波新書)
を読む・その5
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明治33年12月24日
第五章:仰臥時代
◾明治34年(1901)1月、「墨汁一滴」を『日本』に連載開始。
◽6月、病室の前に糸瓜棚が作られる。
◽9月2日、「仰臥漫録」の執筆を始める。
◽10月、苦痛のあまり自殺を考える。
◽11月6日、ロンドンの漱石に宛てた最後の手紙を書く。
「僕ハモーダメ二ナツテシマツタ」
◾明治35年(1902)1月、病状悪化。痛みをやわらげるために連日麻痺剤を用いるようになる。虚子・左千夫・碧梧桐等が看護に詰める。
◽3月10日、中断していた「仰臥漫録」を再びつけ始める。
◽5月、「病牀六尺」を『日本』に連載開始。(9月17日まで続けられる)
◽6月、「果物帖」を描き始める。
◽8月、「草花帖」を描き始める。
◽9月、「玩具帖」を描き始める。
◽9月14日、「9月14日の朝」を虚子が口述筆記。
◽9月18日、「絶筆三句」
◽9月19日午前1時頃、永眠。享年34歳。
◽9月21日、葬儀。田端の大龍寺に埋葬される。会葬者百五十余名。戒名・子規居士。
「仰臥漫録」(左)朝顔(右)糸瓜棚
🐱ここからの子規は、激痛との戦いであり、死神との戦いである。それでも子規は書くことをやめない。
ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛をこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや。
(「墨汁一滴」明治34年4月15日)
をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。併し痛の烈しい時には仕様がないから、うめくか、叫ぶか、又は黙ってこらへて居るかする。其中で黙つてこらへて居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる。
(「墨汁一滴」明治34年4月19日)
🐱著者によると、子規は、「視線や行動を転換する」ことで痛みをやわらげようとしているという。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければ
たゝみの上にとゞかざりけり
気晴らしの為に無聊を消すために、唯だ黙って寝て居るよりも何か書いて居る方が余程愉快なのである。
(「命のあまり」明治34年11月)
🐱「仰臥漫録」は公表を意図したものでは無かったそうで、「それは書くことによる気晴らしになっていた」という。子規は毎日の食べ物を記録しているが、食べ過ぎである。「便通山ノ如シ」である。妹・律に対する不満も書かれているが、律も毎日看病して悪口を書かれたのではかわいそうである。仲間に対する批判も厳しい。それらは、すべて「鬱さ晴らし」なのだ。著者はそれを「自分を対象化」する、自己を開く行為だとしている。
🐱それでも、苦痛のあまり精神が混乱し、自殺の誘惑に駆られたこともあったようだ。明治34年11月6日付の漱石宛書簡は、あまりに痛々しい。
僕ハモーダメ二ナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、
僕ハ迚モ君二再会スルコトハ出来ヌト思フ。万一出来タトシテモ其時ハ話モ出来ナクナツテルデアロー。実ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。
🐱ロンドンで神経衰弱になっていた漱石はどういう気持ちでこの手紙を読んだのだろうか。
漱石宛書簡(明治34年11月6日付)
「墨汁一滴」や「病牀六尺」の頃は、すでに自分で筆が持てないことが多く、口述筆記が子規晩年の執筆スタイルになっていたという。著者によるとそれが「子規の文章を平易にも明快にもしたのではないだろうか」ということだ。
病床六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へ迄足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。
(「病牀六尺」明治35年5月3日)
※高浜虚子が口述筆記した。
🐱子規は、明治33年、当時熊本にいた漱石に東菊を描いた絵に
あづま菊いけて置きけり火の国に
住みける君の帰りくるかね
という一首を添えて送っている。
子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試がない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえ持たなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊の中に、確にこの一拙字を認める事のできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしめるとに論なく、余にとって多大の興味がある。ただ絵がいかにも淋しい。でき得るならば、子規のこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。(夏目漱石「子規の画」明治44年)
🐱子規の絵は、草花がぽつんと描かれていることが多いこともあって、淋しい感じがする。
草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分つて来るやうな気がする。
(「病牀六尺」明治35年8月5日)
草花を画く日課や秋に入る
首あげて折々見るや庭の萩
(左)「仰臥漫録」病床所見
(右)「玩具帖」紙人形
🐱高浜虚子が口述筆記した「九月十四日の朝」は静かな文章である。
虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたのかと思ふやうに、糸瓜の葉が一枚二枚だけひらひらと動く。其度に秋の涼しさは膚に浸み込む様に思ふて何ともいへぬよい心持であつた。何だか苦痛極つて暫く病気を感じ無いやうなのも不思議に思はれたので、文章に書いて見度くなつて余は口で綴る、虚子に頼んで其を記してもらうた。筆記し了へた処へ母が来て、ソップ(スープ)は来て居るのぞなといふた。
🐱虚子の「子規居士と余」には、病床の子規の様子が詳しく書かれているが、少しでも動けば激痛が全身を走るという状態であったらしい。「九月十四日の朝」の頃には言葉も不明瞭になっていたという。
🐱9月18日の「絶筆三句」の揮毫には河東碧梧桐が立ち会っている。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水も取らざりき
子規は最後の最後まで言葉と生きた。絶筆三句はそのような子規を実感させる。
明治三十五年九月十九日午前一時ごろ、子規はひっそりと息をひきとった。
🐱虚子はその日、看病のため子規宅に泊まり込んでいた。
「升は清さんが一番好きであった。清さんには一方ならんお世話になった」と母堂は言われた。
(高浜虚子「子規居士と余」)
🐱河東碧梧桐は、子規の母八重が子規に語りかけるのを聞いたという。
「サア、も一遍痛いというてお見」
子規肖像画 浅井忠筆
🐱大江健三郎は「日本語全体に関わる革新者」として子規を評価した。
🐱司馬遼太郎は、文章日本語を作ろうとした子規の仕事にとりわけ共感を示したという。
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😺★★★★
😺漱石も晩年は書画をたしなみ、漢詩を創って日々を過ごした。漱石の「わが墓図」や「達磨図」も淋しい感じがする。
「わが墓図」明治36、37年頃