森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

漱石の孫娘(姉)

12月の読書録04ーーーーーーー

 漱石夫妻  愛のかたち

 松岡陽子マックレイン

 朝日新書(2007/10/30)

 1612-04★★★

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🐱著書は、1924年、東京生まれ。父は作家松岡譲、母は夏目漱石の長女筆子。津田塾専門学校(現津田塾大学)を卒業後、52年に米国オレゴン大学に留学。同大学で30年間、日本語、近代文学を教える。2011年11月2日没。本書は、夏目漱石朝日新聞社入社百年にあたる2007年に出版された。

 

🐱漱石の孫が漱石について語ったエッセイ集としては、著者の妹で1935年生まれの半藤末利子の『夏目家の福猫』(新潮文庫)、『漱石長襦袢』(文春文庫)と1950年生まれの夏目房之介の『漱石の孫』を読んだことがある。本書は未読だったのだが、ブックオフ・オンラインで見つけた。108円。状態は良好。

 

🐱松岡姉妹は、両親や祖母鏡子から同じ話を聞いて育っているので、当然のことながら重複する話題も多いのだが、11歳の年の差は大きいし、同じ話でも感じ方が全く同じとは限らないので、両者を読み比べると興味深いものがある。姉の方は、漱石が晩年過ごした早稲田南町漱石山房のあった家の記憶(ただし、改築後)があるし、祖母鏡子と同居していた時期もある。妹の方は、晩年の鏡子について詳しい。また、晩年の筆子と同居して介護をしている。

 


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1934年頃。前列左から著者、弟新児、姉明子。後列左から母筆子、父松岡譲、兄聖一。

 

 

🐱第一章は、「漱石について聞いたこと、思ったこと」と題され、著者が両親や親戚から聞いた話を中心に、漱石の作品や鏡子の『漱石の思い出』、松岡譲の著作などを引用しながら、家庭における漱石についてまとめられている。漱石は怖がりで幽霊を恐れていたそうだ。著者が野上弥生子久米正雄などの人たちと会って話をしたエピソードも興味深かった。

母はよく、「天才を父に持つものではないわ。父親は平凡な人の方がいいのよ」と言っていたが、それが母の本心だったにちがいない。

 

🐱これは有名な話だが、漱石は機嫌が悪いときには、電話がかかってきても、「電話はかけるために付けたのだ。取らなくてもよろしい」と言って、家人に受話器を取らせなかったという。「うるさい」と言って、受話器を外したままにしておいて、電話局から再三注意を受けるのだが、一向に耳を貸さなかったという。時には、自分で電話に出て、「夏目さんですか? いいえ、そうじゃありませんよ」と平気な顔をして電話を切ったという。

 

🐱第二章は、「祖母鏡子の思い出」と題され、著者が直に触れた祖母について語られている。漱石については、著者自身が直接会ったことがあるわけでは無いのでどうしても伝聞になるが、鏡子については、生々しく語られている。

 

🐱夏目鏡子は1916年に39歳で未亡人となったのだが、1918年頃から莫大な印税収入が入るようになったという。1919年から20年にかけて、早稲田南町の借家を買い取り、漱石の書斎だった漱石山房を遺して改築して家を大きくして贅沢三昧の暮らしを始めたという。本書に描かれている暮らしぶりは、少しやり過ぎではないかと思われるほどの浪費ぶりである。無計画に浪費して税金が払えなくなり、出版社から前借りしたこともあったという。漱石の死後、鏡子夫人悪妻説を漱石の弟子達が盛んに唱えるようになるのだが、この浪費ぶりが少なからず影響しているものと思われる。

 

🐱松岡家は著者が生まれた直後にこの豪邸を出て独立している。著者は、度々この豪邸に遊びに行ったと懐かしんでいる。著者の記憶では二十部屋近くあったという。著者が小学校低学年の頃というから、十年余りで、夏目家は新大久保に引っ越したようである。その後、上池上に移り住み、戦争が始まる頃まで鏡子の贅沢な暮らしは続いたという。

 

🐱当時は、版権が三十年で切れたというので、1946年、鏡子69歳の時に版権が切れたことになるが、その時にはお金は全く残っていなかったという。その後、1963年に他界するまでは、切り詰めた暮らしを余儀なくされたという。豪快と言うべきか、愚かと言うべきか、オモロイ人生と言うべきか。

 

🐱本書に描かれている鏡子は、気前が良くて、小さな事を気にせず、お金使いが非常に荒く、夜型生活で、迷信担ぎで、意地っぱりだったが、優しいところもあったということになる。また、夫に対しても自己主張できる近代性を身につけた女性であった。身内からは概ね評判の良い人であるということになる。 

祖母は三十九歳で二十年間連れ添った夫の最期を看取った後、子供六人を育て上げ、富裕な未亡人として贅沢三昧に過ごし、戦争になってからは貧乏暮らしをした。高低の激しい、一風変わった一生であったことは確かだ。問題も多い結婚だったと思うが、多かれ少なかれどの夫婦にも問題はある。夏目漱石という稀な才能をもつ相手と結婚した祖母は、他の人がしえない体験をしたのだと私は思っている。

 

🐱祖母鏡子は、孫から「お祖父ちゃま」の話をせがまれると、「お父様はね、とても親切にいろんなことを教えて下さったんだよ」とか「情け深い方だったんだよ」などと懐かしそうに語っていたという。「怖いお父様」の話は、決してしなかったという。

 

🐱第三章は「母筆子の思い出」と題され、筆子について触れられている。姉妹両方の筆子に関する文章を読んで感じることは、良妻賢母の一言に尽きる。二人とも母親を深く敬愛していることがよくわかる文章である。明治生まれの家庭婦人の一つの典型であるのかも知れない。松岡家は決して裕福では無かったが健全な家庭であったのだろう。この健全さが漱石から受け継いだ最大の遺産だったのではないかと感じた。

毎日の母の行動から自然に習ったことに、自分より他人を優先して考え行動すること、自己中心的に振る舞わないことがある。

 

🐱また、太平洋戦争前に、インテリの若者たちが左傾化することについて、筆子が、

「彼らの若い熱情からの左傾はぜんぜん心配ない。純粋な気持ちで社会が平等でないことを案じて左翼に走るだけだ。そういう若者たちは年とともにその熱情も収まり、危険なことはしない。それより極端な右翼の方がずっと怖い」

というようなことを言っていたという。さすが漱石の娘。🐥

 

 

 

 

漱石夫妻 愛のかたち (朝日新書 70)

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森成医師(修善寺の大患時の医師)帰郷記念。明治44年(1911)4月12日

後列左より松根東洋城、森成麟造医師、東新、漱石、野上豊一郎、安倍能成、前列左より恒子、鏡子、純一、愛子、筆子、栄子、小宮豊隆、坂本雪鳥、野村伝四、円内左より鈴木三重吉森田草平