森の踏切番日記

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井伊直虎関連本を読む(2)

4月の読書録01ーーーーーーー

 井伊直虎 女領主・山の民・悪党

 夏目琢史

 講談社現代新書(2016/10/20)

 1704-01★★☆

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🐱本書の著者は、1985年、静岡県浜松市生まれで、近世村落史を専攻する研究者である。

🐱本書は、前半(第一章・直虎の生涯)で井伊直虎の生涯が考察され、後半(第二章・直虎の正体)で「女領主」「山の民」「悪党」という著者独自の視点から井伊直虎を歴史的に位置づける試みがなされている。

 


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🐯「第一章・直虎の生涯」については、直虎関連史料の写真と原文が載っていたのが良かった。

🐯直虎の生年は、井伊直親の生年を天文4年(1535)とし、直虎も同じ頃に生まれたのではないかと推測している。

🐯井伊家については、だいたい『井伊家伝記』の記述に頼ることになる。まず、井伊家元祖の井伊共保の出生伝承から井伊家のルーツを考察し、『井伊直平公一代記』から井伊直平の人物像を推測している。

🐯井伊直満・直義兄弟誅殺事件については、井伊家の内部対立が原因ではないかとしているところが目についた。この時代、家督相続争いはよくある事なのであり得る話である。小野氏は惣領筋(直宗─直盛)の家老であり、直満・直義を排除しようとしたという見方である。また、惣領筋が今川家追随派であるのに対し、直満・直義は反今川派という構図を描いている。それが後に、小野政次井伊直親の確執に繋がるという見方である。

🐯これについては、もう少し複雑だったのではないかと思う。惣領筋(直平─直宗─直盛)は、消極的に今川家に追随しているだけで実は独立派、直満・直義は武田寄りの独立派、小野氏は積極的今川家追随派という見方をしたい。井伊家は中世的な国人の体質を維持しようとしていたが、小野氏は時代の変化に従ったということである。守護大名から戦国大名への転換を目指す今川家が反今川派の排除と井伊家の弱体化の両方を目論んだのが直満・直義の事件だったと想像する。大河ドラマもそれに近い視点で描かれているように思われる。

🐯次郎法師の出家の理由について、いろんな説を提示しているが、どれも決め手に欠ける印象である。今川家の人質になるのを嫌ったという説が有力かもしれないと思った。

🐯今村藤七郎についての記述がある『今村家伝記』や地元に伝わるという「右近次郎」の伝承も興味を引いたが、桶狭間の戦い直後に今川氏真龍潭寺に対して下した判物があるのも興味深かった。

🐯直親誅殺事件については、直親の今川家との関係の薄さを指摘し、井伊家の跡継ぎ問題の流れの中で説明している。直親の享年は二八としている。

🐯この事件も今川家の遠州支配強化策と考えると分かりやすい。この時期の今川氏真には、井伊家に限らず遠州の国人衆に対して疑心暗鬼が生じていたと思う。ただ、井伊家の弱体化は遠州の国人衆を刺激し、かえって遠州の混乱を招いたという見方も出来るようだ。

🐯本章の最大の注目点は、永禄8年(1565)に井伊直虎南渓和尚にあてた黒印状と、永禄11年(1568)に今川氏真の命令によって徳政令の執行を最終的に承認した文書の写真と全文が掲載されていることだろう。井伊直虎の名前が直接的に確認できる同時代の古文書は、この2点に限られるのだ。

🐯大河ドラマ『おんな城主直虎』の第13回で取り上げられた「井伊谷徳政問題」だが、蜂前神社に後者の文書をはじめ数多くの記録が残されているそうである。今川氏がこの時期に徳政令を実施した理由は、「遠州忩劇」と呼ばれる混乱を解消し秩序を守ることが目的であったのだろうと、著者は推測している。これも、今川家の井伊家支配強化策の一環として考えると分かりやすいと思う。

🐯瀬戸方久ら「銭主」と呼ばれる商人たちは、寺に寄進する事があるので、寺との関わりがあるということに気づかされた。次郎法師瀬戸方久は、以前から面識があった可能性がある。徳政令は、単に実施すれば良いというものでなく、いろいろ利害を調整する必要もあったのかと想像する。

🐯直虎が今川家の徳政令の要求を2年間握り潰したのは井伊領の「領主」としての自立性を示したとするのが一般的だと思うが、著者には独自の解釈があるようである。

🐯この徳政令問題の後、小野但馬守による「井伊谷押領」となるわけだが、これについては、「自然なことであったのではないか」としている。江戸時代に小野氏が悪役に仕立てられたのは、井伊谷三人衆にも井伊氏にも都合が良かったからだとしている。これは同感である。また、著者は、

まるで、井伊直虎を守るために、小野氏が犠牲となったようにも見える。

としている。何故、直政を排除した小野但馬守が直虎を守る必要があったのかよくわからないが、大河ドラマを楽しむ上でヒントにはなるかと思う。

🐯小野氏が悪役に仕立てられた真の理由は、井伊氏家臣団のなかの競合が小野氏排斥を招いたからだという考えを提示しているが、今川家の弱体化が、そのまま今川派の小野氏の弱体化に繋がったと考えた方が分かりやすいと思う。小野氏は方向転換する機会を逸して今川家と運命を共にしただけではないかと思う。地元に残る小野但馬守が処刑された後悪霊になったという伝承は興味深い。

🐯この後の直虎の動向については、直政を家康に出仕させるだけとなるのだが、大河ドラマではどのように描いていていくつもりなのだろうか、不安が残る。

🐯井伊直虎は、天正10年(1582)8月26日に息を引き取る。彼女の享年は、いかなる史料にも残されていないという。

彼女はやがて人びとの記憶から消えていくことになる。

 


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🐯「第二章・直虎の正体」については、単なる「仮説」に過ぎず、著者自身が「おわりに」で書いているように「実証主義的ではない!」し、「史料的な根拠薄弱!」であり、論考としても弱く説得力が無い。中央では、一笑に付されるか無視されるかというレベルだと感じた。

🐯まず、「悪党」という用語は、一般的には鎌倉時代後半から南北朝時代にかけてのものだと思うのだが、それを戦国時代の井伊氏に当てはめるのは誤解を招く使い方ではないかと思うのだが、どうなのだろう。井伊氏は、中世に発展した遠州地方の有力な国人領主と考えるのが一般だと思う。

🐯また、井伊氏を「山の民」とするのも無理があると思う。「山の民」は民俗学的な意味で用いられていると思うのだが、これも井伊氏の出自に当てはめるのは誤解を招く使い方だと思う。井伊氏だけでなく、他地域の国人衆と比較検討する必要もあると思う。例えば、真田氏にしても、元々は真田郷という山間部を本拠とし、上田盆地に進出した国人であり、背後の山地を伝って上毛にも足掛かりを持っていたのである。三河松平氏の松平郷も山間部に拠点があり、平野部へ進出したのである。安芸の毛利氏の本拠地も中国山地を背にした山間の小盆地だったのだ。南北朝時代以降発展した国人領主層の多くは、防御的観点から山間部に本拠地を持っていたと考えられるのだが、どうだろうか。井伊氏の場合も元々は井伊谷から奥地にかけての山間部に本拠地を持ち、祝田や引馬など浜名湖周辺に進出した遠州地方では有力な国人領主だったと考えるのが自然だと思う。ただ、井伊氏は、南北朝時代南朝方に付き、その後は斯波氏に付いて、つまり、負ける方にばかり付いたという運の無さがあったと思う。これも全て守護大名の今川家に対抗する意図があったからではないかと想像する。

🐯三点目に、中世の井伊氏は「母性系社会」の傾向があったのではないかとして、直虎が女領主となった真相を読み解こうとしているが、これも無理がありそうだ。古代的な「母性系社会」は「山の民」から自然と出てくる結論だと思うが、武士層である中世以降の井伊氏が母性系を維持していたとは考えにくい。

🐯直虎については、邪馬台国卑弥呼と同じような事情があったのではないかと想像する。つまり、男が立ったのでは誰が立っても収まらない事情があったのだ。そこで、緊急避難的に宗教的であり女性である直虎が立ったということだろう。それでも収まりが付かない程内部対立が深刻だったので直虎体制は長続きしなかったと想像する。

 


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🐱本書を読了して、井伊氏は、思ったよりも遠州地方では有力な国人領主で、今川家も支配に手こずっていたのではないかという印象が残った。

🐱本書の内容としては、前半は大河ドラマを楽しむ上でも、かなり参考になった。後半は、見方としては面白いが、論考が甘いと思うし、同意出来ない。

🐱井伊直虎関連本としては、もう少ししっかりした内容のものを読みたいと思うのだが、あまり良い本が無さそうだ。「直虎+直政」をテーマにした本をもう1冊くらいは読んでみたいのだが。大河ドラマを自由に解釈したいので原作小説やNHK絡みの本を読むつもりは無い。🐥

 

 

 

井伊直虎 女領主・山の民・悪党 (講談社現代新書)

井伊直虎 女領主・山の民・悪党 (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

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