『ブラタモリ』#69京都・清水寺(1)
~人はなぜ清水を目指す?
タモリ「清水の舞台から飛び降りる気持ちで」
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🌸いつの間にか、近所の桜が満開になっていました。今年は一気に咲いたようです。
🌸清水さんの桜もすっかり満開です。
🌸今日(4月9日)は 日曜日だし、人出が多いだろうなあ。
『清水寺縁起』によると、宝亀9年(778)4月、報恩の弟子延鎮が山城国東山の山麓に来たところ、
渓流の所に草庵があり、白衣の老人がいた。名を行叡といい、大悲観音を念じ、千手真言を誦してこの地に居り二百歳になる、と言って消え失せた。
そこでここが霊勝の地であると知り、草庵に止まり滝で練行していたところ、遊猟の途中の坂上田村麻呂に会い、帰依を受け、
延暦17年(798)、両者が力を合わせて金色の十一面四十手観音像を造り、仮殿を建てて清水寺または北観音寺と号した、という。
『清水寺建立記』によると、坂上田村麻呂が産女のために鹿を求め屠ったところ、流れを得て、その源を尋ねて一沙門に会った。
そのことを妻高子に語ったところ、高子が無量の罪を懺悔するため、その家を壊して仏殿を建て、観音菩薩を安置させた。
田村麻呂が東国遠征に際して延鎮に国家平定を祈るように依頼し、平定成るとこれを仏徳によるものとし、延鎮を内供奉十禅師に推し、寺地を施入したという。
一説には創建を宝亀11年(780)とする。
延暦23年(804)年、桓武天皇の御願寺となり、堂塔を起こし、紫宸殿を賜って本堂とし、内陣の石畳の上に本尊として十一面観世音菩薩を安置した。
『枕草子』の「さわがしきもの」
『今昔物語集』にも清水の観音の霊験譚が収録されている。
冬の清水寺
春の清水寺
夏の清水寺
秋の清水寺
清水さんのライトアップ。たしか今日(4月9日)が最終日。
現在の堂塔は、寛永10年(1633)徳川家光によって再建、完成したもの。
書かれていない。
「蹴聖」と呼ばれていたそうな。
😽坂井はん、ドヤ顔。
😽蹴鞠小僧の尾上松也にも挑戦して欲しいな。
釘は1本も使うてまへん。
本尊は木造十一面千手観音立像。
正しくは、千手千眼観音なのだそうな。
それぞれの手に一眼を備えておられるのだそうな。
観音は、観世音の略です。
「観ることに自在な者」という意味だそうな。
千手観音の千手千眼は、
慈悲のはたらきが無限であることを表しているのだそうな。
それを具象化したわけですね。
草彅「しかし、江戸時代になると」
いたんだよね。
1990年代に床下から偶然に発見された『清水寺成就院日記』に記録が残されていました。
1694年から1864年のうち、欠落部を除く148年分で、237件。一人で2回飛び降りた人もいたそうな。
下は12歳から上は80歳代まで。若い人が多かったそうな。
男女比では、男7割、女3割だったそうな。
タモリ「もっと? 5割いくんですか?」
死亡者は34人だったそうな。ただし、60歳以上は全滅。10~20歳代は9割が生還したそうな。
舞台下は木々が茂っていたし、地面も現代と違って軟らかい土だったからね。
明治5年(1872)に明治政府によって禁止令が出されてからは飛び降りる人もいなくなったそうな。
この話は、発表された当時話題になったのでよく覚えていました。
『清玄桜姫』という17世紀からある演目だそうな。
こちらが桜姫です。
清玄は清水寺の僧です。悲恋物のようです。
恋愛沙汰の願いの場合は、傘を持って飛び降りて無事生還できれば、恋愛が成就すると言われていたそうな。
だから、傘を持っている訳です。
月岡芳年『新形三十六怪撰』より「清玄の霊桜姫を慕ふの図」(明治時代)
鈴木春信「清水の舞台より飛ぶ女」明和2年(1765)
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🌸京都・清水寺でブラタモリ(2) ~音羽の瀧の? - 森の踏切番日記
🌸京都・清水寺でブラタモリ(3) ~八坂の塔まで? - 森の踏切番日記
🌸京都・清水寺でブラタモリ(4) ~地獄を? - 森の踏切番日記
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