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森の踏切番日記

人生LARKしたい

『文庫版 書楼弔堂 破暁』の感想~虚実の淡いに浮かび上がる物語

5月の読書録02ーーーーーーー

 文庫版 書楼弔堂 破暁

 京極夏彦

 集英社文庫(2016/12/25:2013)

 1705-02★★★★

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文庫版 書楼弔堂 破暁 (集英社文庫)

 

明治25年(1892)5月23日、東京の外れで日々無為に過ごしていた高遠彬は、奇妙な書舗と巡り合う。店の名は書楼弔堂。奥行きのある店内の左右の壁面は三階まで全て書架で、古今東西書物で埋められている。平台にも夥しい数の本が積まれている。店の主人は元僧侶で、明治維新廃仏毀釈の煽りを受けて還俗し、本屋を始めたらしい。本書の終わりの方で明らかになるが、主人の名は龍典という。

本の中身を売っているのではなく、本を売っております

この主は「本は墓のようなもの」だと言い、「移ろい行く過去を封じ込めた呪物」だとも言う。書名は戒名のようなものなのだそうだ。

 

本を読むという行為と本を所有する行為との違い。ただ情報を得るだけなら本を所有する必要は無いし、本である必要すらない。だが、好きな本は手放せない。もう読み直さないかもしれないが、手元に置いておきたい。私は、子供の頃から本棚の本の背表紙を眺めるのが好きだった。

 

主はまた、「ただ一冊、大切な大切な本を見付けられれば」仕合わせだと言う。

本当に大切な本は、現世の一生を生きるのと同じ程の別の生を与えてくれるのでございますよ。ですから、その大切な本に巡り合うまで、人は探し続けるのです

とはいうものの、「その一冊」にはなかなか巡り合うことが出来ないから、本は「集めるものではなく集まってしもうもの」なのだそうだ。

 

私は、未だ「その一冊」には巡り合っていないので、この感覚はよく分からない。色々な本から色々な影響を受けているけれども、これこそが人生の道標となるべき本であると確信した本は無い。引き算していって最後に残る本はあるが、それが「その一冊」であるという確信がない。読まないでも手元にあると安心できるお守りみたいな本は何冊かある。若いうちに「その一冊」に巡り合える人は、確かに仕合わせだと思う。

 

この店の主人もまた、「その一冊」に巡り合えないまま本が集まってしまい、そうやって集まった本を供養するために、本を売る商売を始めたのだという。

売るのが供養でございます

だから、弔(とむらい)堂なのだ。読まれぬ本は只の紙屑、それでは本は成仏できないということらしい。

本書は、この風変わりな店に己のための一冊を求め訪れた人生に迷える人々と主人との対話を高遠彬が見聞する物語である。

 

 

「探書壱 臨終」で訪れた客は、臨終のその前に読む本を売ってくれという。この客は衰え弱っていて死期が近づいているようである。ここでは、浮世絵について語られる。明治時代の半ばにあっては滅びゆく江戸文化である。客は幽霊を見てしまったことがあり、それが原因で神経を病んでしまったことがある。主人はこの客にある書物を売る。その書物が何であるかと客の眼の状態を知った高遠は驚く。この最後の浮世絵師と呼ばれる客は、17日後の6月9日に臨終を迎える。享年53歳。

本書の時代設定を明治25年においたのは、著者がこの客を描きたかったこともあったに違いない。まことに京極夏彦らしい人選である。著者のこの客に対する解釈が興味深い。明治時代は、日本が近代化する過程で色々なものを捨てた時代だが、ここでは捨てられた側が描かれている。

 

「探書弐 発心」では、高遠が丸善でたまたま知り合った神経質そうな書生に書楼弔堂を紹介する。彼は尾崎紅葉の弟子だという。彼はお化けが好きなようだ。怪を好むという。弔堂の主人は、この書生との対話から彼の真実を照らし出すのだが、どこまでが事実に即しているのかよく分からない。

この書生は、巡り合うべき「この一冊」にすでに巡り合っている。彼が求めた本は意外なものであり、求めに応じた主人が売った書物がこの書生の作品の題材となる。もちろん、これは虚構である。

本書には、この世は虚実が半々だと書かれている。物語は、事実を記述するものではなく真実を照らし出すものであろう。また、たとえ事実を書き留めたとしても、それは最早物語に過ぎないというのが京極夏彦の立場である。これは物語であり、どこまでが事実かということは重要ではないだろう。著者が考えるところの真実が照らし出されればそれで良いのである。

この書生も京極夏彦らしい人選であり、時代設定を明治25年におけば、当然取り上げるべき人物である。彼は明治6年11月4日生まれなので、この時は18歳ということになる。

日本の近代文学が確立する過程において、まず新しい文体を作り出すことから始めなければならなかったのだが、その辺りの日本の文学事情が詳しく描かれていて興味深かった。

 

「探書参 方便」では、哲学館の設立者が客として訪れる。この年この客は34歳である。著者が最も取り上げたかったのはこの客ではないだろうか。彼に弔堂を紹介したのが勝安芳というのも面白い。この年勝安芳は69歳である。弔堂の主人は勝と知り合いらしい。

客は、日本の近代化のために大衆を啓蒙したいという大志を抱いているが、お金がなくて困っているという。そこで主人は、客に大衆に向けて本を出版し講演会を開けと助言する。本書では明治時代の出版業界について詳しく書かれているが、明治時代は本が商品となった時代でもある。

そして、この客に売った書物鳥山石燕の『畫圖百鬼夜行』である。ここで主人が述べる妖怪・化け物考は、京極夏彦ファンにはお馴染みの論考であり、特に『妖怪の檻  妖怪の理』に詳しいが、それをこの客に語るというのが面白い。これがきっかけで、客は後に「妖怪学」を広く世に問い、「妖怪博士」と渾名されることになるという。勿論、フィクションであるが、著者のこの客に対する理解が分かって興味深い。

勝海舟のべらんめえ口調は懐かしい感じがする。小学生時代に『べらんめえ大将』という勝海舟の伝記を読んだことを思い出した。

また、この話の冒頭に不思議巡査の異名を持つ矢作剣之進が登場する。

 

世に無駄な本などございませんよ

本を無駄にする者がいるだけです

 

「探書肆 贖罪」では、高遠が鰻屋で中濱萬次郎と出会う。中濱萬次郎は鰻の蒲焼きが好物だったという逸話があることを踏まえた導入である。彼は土佐弁の男を連れていた。

「死人でございますき」

何故だかぞっとした。

死人と云うなら、この男は幽霊と云うことになるだろう。

探書壱の客が幻視し、探書弐の客が憧憬を抱き、探書参の客が否定した「幽霊」が探書肆で登場するという趣向である。

中濱は、勝安芳の紹介でその男を書楼弔堂へ連れて行く途中なのだが所在が分からないということなので高遠が案内する。勝海舟ジョン万次郎といえば咸臨丸仲間である。この年中濱萬次郎は65歳。土佐弁の「幽霊」は、確かに勝海舟ともジョン万次郎とも縁のある人物である。この年54歳であるはずだが、この男は慶応元年に死んだはずである。ところが、この「幽霊」が中濱を刺客から守ったという話は慶応4年のことなのである。著者はそこからヒントを得てこの物語を創作したものと思われる。

中濱萬次郎の人物造形は、如何にもと思わせるものがあり好感が持てた。また、主人と中濱が語る勝海舟の評価が興味深い。幕臣でありながら新政府にも重用された勝海舟は、何かと毀誉褒貶が激しいのだが、著者の勝海舟に対する見解は、私もそれに近い考えを持っているので共感する。

土佐弁の「幽霊」は、司馬遼太郎がその作品で色を付けた影響が大きいのだが、京極夏彦は、新たな解釈を見せてこの「幽霊」の人物像を浮かび上がらせることに成功していると思う。

本書の中では、意外な人選ということもあり最も印象に残る物語だった。特に、著者の幕末観が分かって興味深かった。

 

人に人は救えない、だが本は人を救うこともある

 

「探書伍 闕如」の客は、探書弐の客の紹介である。この年22歳。この客については詳しいことを知らなかったのだが、誰もが幼少期に親しんだおとぎ話を再生させた人物である。本書のここまでの流れから見れば意外な人選だが、確かにもっと知られてもよい人物であり興味深く読んだ。彼もまた、近代日本文化の一側面を作り上げた人物と云ってよいだろう。

人生において逃げると云うことは決して卑怯な行為ではない、後ろ向きの人生に欠如を感じる必要はないという人生観には共感する。大勢と同じ向きを向く必要などない。前向きに進もうが後ろ向きに進もうがたどり着く先は同じだと思う。もっとも、人生の場合は立ち竦んだままでも時間が勝手に押し流してくれるけれども。

探書弐の客も探書参の客も探書伍の客も歴史の主流に名を残した人物ではないが、それぞれ独自の世界を築き上げ歴史に名を留めたという点では共通していると云える。

この話の冒頭の高遠と丸善の店員の会話は、人間関係が錯綜して話せば話すほどこんがらがっていって、まるで落語のような感じがして面白かった。文体も本書の全体を通して明治を意識した文体になっていて効果的である。

 

逃避というのは、生き延びるためにする行為なのでございます。

努力すれば成る等と云うのは愚か者の戯言。為てみるまでは判らない等と云うのは痴れ者の譫言にございます。

人は在るだけで満ち足りておりましょう。

 

「探書陸 未完」では、弔堂の主人が書物の買い付けのため珍しく外出する。高遠も手伝いにかり出されるのだが、向かう先は中野の寺の間の坂道を上ったところにあるあの神社である。書物の売り主は中禅寺輔。京極堂の祖父のようだ。しかも、彼が売りたいという書物の殆どは菅丘李山の蔵書である。輔の父親と李山が懇意にしていたそうだ。こうなると小夜がどうなったのかも気になる。小夜はこの年37歳前後のはずである。

中禅寺家は市井の陰陽師であり明治時代には滅びゆくもののひとつである。ここでは、時代の変化に応じて宗教の役割も変化していくべきである事が語られる。これは、探書参で語られた明治の仏教界の現状とも関連している。ここで語られる主張は京極ファンには馴染みのものであるが、明治時代の文明開化の文脈の中で語り直されている。

弔堂の主張と京極堂の主張は当然のことではあるが似通っている。京極堂が龍典に影響を受けたという物語を想像したくなるし、京極堂の蔵書は弔堂の蔵書を引き継いだのではという想像をしたくなる。

 

ないものをあるとしなければ、私共は立ち行きません。

伝統と云うのは、守るものではなく続けることです。続けるためには変えなければならないのです。

 

本書の語り手である高遠彬は、35~36歳。旗本の家に生まれたが元服前に瓦解を経験し武家という意識がない。かといって、急激に変わりゆく明治という時代にも馴染めない狭間の世代の人間である。彼は何処へも向かえず立ち竦んでいる人であるように思われる。そのような彼に弔堂は英国の有名な未完の小説を薦める。

 

決められないのなら、決めなければいいのですよ

 

この未完の小説は弔堂の主人の知り合いである夏目金之助に進呈するつもりのものだったという。本書で夏目金之助が客として現れることはなかったが、本書の後半には夏目漱石の影が感じられるような箇所がある。例えば、探書陸の蒸気鉄道に関する言及は、明らかに漱石を意識していると思われる。探書伍の落語的な会話も漱石を意識した感じがする。それが印象に残った。

 

本書の全体を通して、明治時代半ばの過渡期にある近代国家としては未完成の日本の一側面が浮かび上がってくる。これは虚実半々の物語ではあるが一面の真実が語られているように思われた。本書の語り手である高遠彬は、虚実の淡いに浮かび上がった幽霊のような存在であり、本書の物語が語り終えられると消えてゆくのは当然のことであろう。

 

 

 

文庫版 書楼弔堂 破曉 (集英社文庫)