森の踏切番日記

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松岡譲『漱石の印税帖』の感想 ~漱石の娘婿の憂鬱

5月の読書録03ーーーーーーー

 漱石の印税帖

 松岡譲

 文春文庫(2017/02/10)

 1705-03★★★

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🐱著者の松岡譲は、明治24年(1891)、新潟県古志郡(現在の長岡市鷺巣町)の寺の生まれ。旧制長岡中学、一高を経て東京帝国大学文学部哲学科に入学。久米正雄菊池寛芥川龍之介らと共に第三次(1914)、第四次(1916)「新思潮」を発刊。晩年の漱石の門人となる。大学卒業の翌年、大正7年(1818)4月に漱石の長女・筆子と結婚。昭和44年(1969)7月没。主著に『法城を護る人々』『敦煌物語』など。

 

🐱本書は、昭和30年に朝日新聞社より刊行された単行本『漱石の印税帖』が文庫化されたものである。この文庫版には「娘婿がみた素顔の文豪」という副題が付いていて、全部で10編の随筆の内6編が漱石に関するものである。残り4編は「新思潮」時代の回想などであるが、こちらも興味深い内容である。

はっきりと書かれてはいないが、所々に夏目鏡子未亡人に振り回されている様子が垣間見られて苦労がしのばれる。

 

 

 

🔘「漱石の印税帖」では、夏目家に保存されていた印税覚帖から、当時のベストセラー作家だった漱石の本が実際にはどの程度売れていたのか考察している。不完全な資料なのでおおよその事しか分からないが、漱石在世中より死後に圧倒的に売れ始めた。これは、廉価版が出始めたり全集が刊行されたりしてマーケットが広がったことや、本人の声望が死後の方が上がったことや、世間の景気が影響しているのではないかと著者は推測している。著者は、漱石在世中の12年間でおよそ10万冊に対して、大正6年から12年までの7年間でおよそ70万冊売れたと分析している。この漱石死後の7年間は、著者自身が覚帖を認めたこともあって詳しいデータが残っているのだが、それによると『猫』『坊ちゃん』『草枕』が、やはりよく売れている。

 

 

🔘「漱石の万年筆」は、漱石山房にあったはずの漱石遺愛の万年筆(のペン尖)と硯が、戦後富山県の高岡から出てきたという話。盗品が巡り巡って高岡までいったようで、探偵小説風味の作品。漱石山房の様子が詳しく再現されていて興味深かった。また、義弟の純一について「相変わらずのお殿様だ」と、揶揄しているのが印象に残った。

 

 

🔘「贋漱石は、漱石の書画の鑑定の第一人者である著者が見てきた贋作にまつわる話。著者の娘である半藤末利子の『夏目家の福猫』(新潮文庫)によると、著者が大正9年から亡くなるまでの約50年間に鑑定した真漱石の数は500余に対して贋漱石は2000点近くに及んだという。ややこしいことに、漱石の俳号を使っていたのは夏目漱石だけではないということもあるのだそうだ。

 

 

🔘「漱石の顔」「宗教的問答」「『明暗』の頃」には、著者が木曜会で見聞した漱石との対話や木曜会の様子が記されていて貴重である。『明暗』には、推理小説の手法が取り入れられているという意見が印象に残った。

 

 

🔘「蘆花の演説」は、漱石とは関係なく、明治44年(1911)2月1日に催された一高の弁論部大会での徳冨蘆花の「社会主義演説」を当時一高生だった著者が見聞した思い出を昭和28年に発表したもの。これは、『謀叛論』と題されたもので当時問題となったようである。青空文庫でざっと目を通してみたが、井伊直弼吉田松陰の話からから始まって、大逆事件における政府の対応を弾劾する激烈な内容になっている。最後は、西郷隆盛と同様に幸徳秋水も逆賊ではないとし、聴衆に人格をみがくように呼びかけて締めている。一時間を超える演説であったらしいが、著者は深い感銘を受けたようである。

幸徳秋水らの死刑が執行されたのは、この演説の直前の1月24日、25日。

 

(近い未来において、この国が再び言いたいことも言えないような国に成り果ててしまわないとは限らない)

 

 

🔘「三重吉挿話」は、漱石門下の大先輩にあたる鈴木三重吉の思い出話。晩年の三重吉が、所蔵する漱石の「虞美人草」の原稿を売りに出したのだが、やっぱり手放せなくてドタキャンした話は、漱石愛の大きかった三重吉らしい挿話で印象深い。

 

 

🔘「二十代の芥川」は、芥川龍之介の思い出話。学生時代の芥川は秀才タイプの都会人で異彩を放っていたという。始めから親しく交わったということではなかったようだ。小説を書き始めた頃の芥川が「柳川隆之介」という筆名を使っていたことや犬を極端に怖がったことなど友人ならではの逸話が綴られていて興味深い。

 

🐱ここで、芥川龍之介が珍しく学生時代を振り返った「あの頃の自分の事」を再読してみた。芥川が自身のことを書くと私小説にはならなくて、随筆に近い作品である。第四次「新思潮」を創刊しようとしていた頃の話で、芥川自身は「鼻」の執筆中だった。当時の成瀬正一、久米正雄、松岡譲との交友が描かれている。芥川の方は松岡譲を浮世離れした鷹揚な人物とみていたようである。芥川が松岡譲の下宿を訪ねたとき、徹夜で戯曲を仕上げて爆睡している松岡の目から涙がこぼれているのを見て、もらい泣きしたという話が印象的である。所々に芸術論が挿まれているのが芥川らしい。

🐱佐藤春夫がこれを読んで「成程、他の連中はみんなあの頃だが、作者自身はこの頃だ」と評したと「二十代の芥川」に書いてあるのだが、確かにそんな感じのする作品である。

 

🐱芥川の「文藝的な、餘りに文藝的な」には、漱石の思い出が少しだけ書いてあるが、秀才の芥川龍之介から見て夏目漱石は天才であったようだ。漱石のことを考えると「老辣無双」の感を新たにすると書いている。

🐱松岡譲は、娘の松岡陽子マックレインによると、晩年の漱石先生は円満で澄み切った心の持ち主だったと言っていたそうだ。一方、筆子は、最後まで精神的に激しい人であったと主張して譲らなかったという。

🐱漱石は、松岡譲を「越後の哲学者」と呼んで可愛がったという。

 

 

🔘最後の「回想の久米・菊池」は、本書の中で最も長く最も印象に残る一編である。漱石が没した大正5年(1916)の翌年の春、第四次「新思潮」の「漱石先生追慕号」が完成し発送しようという日に菊池寛が見合い写真を持って著者を訪ねた所から話は始まる。

菊池寛は、「新思潮」の同人の中では異質な感じがする。本書では、菊池との友人らしい遠慮のないやり取りが書かれているのだが、菊池の愉快な人物像が印象的である。

菊池寛は、友人の成瀬正一の父親に経済的な援助を受けて京都大学を卒業している。成瀬家は、豪農出身の銀行家で大金持ちだった。当時の菊池寛は、成瀬正一が留学中で父親も多忙で不在がちな成瀬家に男手がいた方が良いとの理由で成瀬の母親に頼まれて成瀬家に下宿していた。

菊池の縁談はトントン拍子に決まり、4月の始めに故郷の高松で結婚式を挙げる。嫁が上京して所帯を持つことになったので、著者が代わりに成瀬家に下宿することになる。菊池寛の嫁が極端な恥ずかしがり屋でどうしても人前に出ようとしないエピソードが愉快である。

一方、夏目家も漱石が没して女子供だけになって心細いということで、独身の門人たちが順番に泊まることになっていた。古い門人たちは家族に対して遠慮があったようだが、著者たち若い門人は家族に対する遠慮もなく子供達にも人気だったという。

そうした中で、久米正雄漱石の長女に熱を上げ始めた。半藤末利子に云わせると、久米は才人だが軽薄で目立ちたがり屋で先輩たちからは睨まれていたという。久米は惚れっぽい性格で何度も浮き名を流していたということもあって、先輩たちは久米の恋に反対していた。松岡譲自身は、まだ喪も明けていないうちから不謹慎なという気持ちと友人の恋を応援してやりたいという気持ちの二律背反で苦しい立場だったと述懐している。

久米の方は周囲のことなどお構いなしで、いよいよ我慢できなくなって、鏡子夫人に「お嬢さんを下さい」と直訴する。鏡子夫人は満更でもなかったようで、本人さえ承知すればと、肯定的な返事をしたので久米はすっかりその気になってしまった。

ところが、ある日、成瀬家に下宿し卒論に取り組んでいて夏目家から足が遠のいていた著者が鏡子夫人から呼び出されて行ってみると、久米の情事を暴露する女文字の手紙が鏡子宛に舞い込んだという。著者は鏡子に疑われたが、身に覚えのないことで否定する。この手紙の張本人を著者と菊池が推理する。

本編では犯人の名は伏せられているが、久米の友人だった山本有三(『路傍の石』の著者)である。当時、久米には彼女がいたようで、その彼女を捨てて筆子に乗り換えたみたいなことがあったようだ。そういう久米の性格が気に入らなくて暴挙に出たようだが、やり過ぎである。著者は道義的に許されるものではないと切り捨てている。山本は、その後も何食わぬ顔で久米との親交を続けていたというから相当な人物である。

この手紙事件で、鏡子夫人の信頼を失った久米は謹慎するのだが、この恋愛事件は意外な決着をみる。実は、筆子は久米にはまったく興味がなくて、一目見たときから松岡譲が好きだったのだ。ところが、明治女性の奥床しさで言い出せなかったらしい。周囲の誰も気が付いていなかったのだが、久米だけは恋する男の敏感さで、松岡を警戒する素振りを見せていたという。松岡本人は、筆子の恋心に全く気がつかなかったと主張している。芥川の松岡に対する見方から考えると肯ける。

松岡は、筆子の想いを受け入れ筆子との結婚を決意するのだが、これは同時に友人を裏切る結果となり、相当に複雑な心境だったようだ。誰が悪い訳でもないけれども後味が悪い結末である。久米も傷ついただろうが、松岡も筆子が傷つかないように自分が傷つく決心をしたようだ。

私は山に隠れるような気持ちで創作の筆を折ろうと決心した。

翌年の大正7年(1818)4月に松岡譲と夏目筆子は日比谷大神宮で式を挙げ、築地の精養軒で披露宴を行った。その日、憂鬱な気分の著者は菊池を誘い出す。結局「新思潮」の同人で式に出席したのは菊池だけだった。

「哲学者は困る。自分で自分の掘った穴にはまってもがいている」

菊池の平凡で素朴な結婚と著者の波乱に満ちた結婚が対比して置かれている。

 

話はこれだけでは終わらない。嫉妬に狂った久米が二人を悪者に仕立てた失恋小説を次々と発表し始めたのだ。特に、大正11年(1922)に発表された『破船』は、評判となり世間の同情を集めたという。久米も嫉妬に狂う己の醜さを客体化し昇華出来れば優れた文学者に成り得たかもしれないが、感情に流されて俗に堕してしまったようだ。久米は恋愛の女神に見放されたが、芸術の女神にも見放されたと云えよう。

松岡家にとって迷惑なことに、久米の小説を事実と信じこんだ世間が松岡夫妻を悪者と誤解してしまった。松岡譲は何を言われても沈黙を守ったが、長女が、あんな悪い人の子供と遊んじゃ駄目と言われて、泣いて帰ってきた時には、流石に久米に対して腹を立てたという。家族のために弁護することに決め発表したのが小説『憂鬱な愛人』だった。

本編の終わりに、著者は若い女性の来訪を受ける。その女性は山本有三の別れた妻だった。夫に言われるがままに破廉恥な手紙を書いた事を恥じ謝罪に訪れたのだった。著者は、本当の被害者は貴方自身だとその女性を慰める。著者の倫理観では一番の悪人は山本有三のようだ。

 

🐱昭和22年(1947)、久米正雄は松岡譲に正式に(手をついて)謝罪した。本編の発表も昭和22年なので、この和解を受けて発表されたものと思われる。

🐱半藤末利子によると、筆子は自分の気持ちを周囲に知らしめるために食を絶ったという。明治の女性は恋愛の手続きが面倒くさい。松岡譲は寺の生まれで幼い頃から躾られていたので行儀の良い人であったらしい。漱石の弟子は娘から見て皆行儀の悪い人ばかりだったようで、松岡の行儀の良さに好感を持ったと筆子は娘によく語っていたという。

🐱松岡陽子マックレインによると、筆子が、好きになったのは自分の方で、むしろ迷惑をかけた結婚だったのではと話したことがあったという。松岡家は経済的にはあまり恵まれなかったが、筆子にとっては幸せな結婚生活だったのではないかと、娘たちの書いたエッセイを読んで思う。松岡譲は一度だけ陽子に、筆子との結婚は文学的には損をしたと、語ったことがあるという。男は、女から好きと言われて悪い気がしないはずはない。ましてや、尊敬する先生の娘さんである。松岡譲は男気でもって筆子を愛そうと決心したのではないだろうか。友情と文学を犠牲にして筆子を選んだのだ。本編では、その心理を踏み込んで描いてはいないが、明治の男性の意気を感じる。

 

🐱菊池寛は、かなり個性的な人だったようで興味深い。1818年当時、既に自分達で雑誌を始める構想を持っていたようで、松岡譲に主幹をやらないかと誘っている。作家としては「生活第一、芸術第二」を標榜していたそうだ。円城塔は「娯楽小説という形式自体をつくりだした一人」が菊池寛であると指摘している。

 

 


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大正5年(1916)、第四次「新思潮」創刊の頃。左から久米正雄、松岡譲、芥川龍之介、成瀬正一。

 

 
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大正8年、長崎滞在中の菊池寛(左端)。その隣は、芥川龍之介

 


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昭和9年頃(1934)の松岡家。前列左が陽子。末利子は昭和10年生まれ。

 

 

 

 

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