森の踏切番日記

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藤野可織『おはなしして子ちゃん』~キモカワイイ短編集

9月の読書録01ーーーーーーー

 おはなしして子ちゃん

 藤野可織

 講談社文庫(2017/06/15:2013)

 ★★★★

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藤野可織は、1980年京都生まれ。同志社大学大学院美学芸術学専攻博士課程前期修了。2006年「いやしい鳥」で第103回文學界新人賞を受賞、13年「爪と目」で第149回芥川賞受賞を受賞している。

芥川賞受賞前に京都新聞の文芸欄の「季節のエッセー」を担当していたので地元ではおなじみの作家である(現在は最果タヒが担当)。そんなこともあって、以前から気になっていた作家なのだが、小説を読むのは今回が初めてである。正直言って、もっと早く読めばよかったと後悔するくらい私の好みのタイプの短編集だった。

本作は、2013年に刊行された単行本が文庫化されたもので、全部で十編の短編が収められている。どれも発想が自由で、語り口がうまくて、ちょっと不気味だけれど、どことなくかわいい感じもする、ユニークな作風である。

 

 

 

おはなしして子ちゃん

 

 

 

私は、小学生の頃、理科準備室が好きだった。理科クラブに所属していたが、顧問の先生が来て指導することも無かったので、理科クラブの主な活動は理科準備室で遊ぶことだった。劇薬も使い放題で、硫酸とかを使った実験を児童だけでやったりしたものだが、今から思うと、あれはかなり危険な行為だった。ハンカチにアルコールを浸して火をつけて、「聖火リレー」とか言いながら廊下を走り回ったこともあった。よく叱られなかったものである。まったくのんきな小学校であった。それ故、児童のイジメにも気がつかない鈍感な小学校でもあったが。

理科準備室の隅の方にはホルマリン漬けの標本がいくつかあったことを憶えている。何の標本だったかよく憶えてないがカエルはあったと思う。ヘビもあったかもしれない。どれも古くて、白くて、崩れかかっていて、ぶよぶよしていたと思う。気持ち悪いのでみんなあまり近づかなかったと思う。ホルマリン漬けの標本といえば、やはり、回虫の標本だろうか。小学校にはあっただろうか。記憶が混沌としていて定かでない。白くてヒョロヒョロしたのがウジャウジャしてたり、サナダムシの長いのがウネウネしてたり、ああ気持ち悪い。

 

表題作の「おはなしして子ちゃん」は、そんなあまり思い出したくない気持ち悪い記憶を刺激する。いじめっ子の女の子といじめられっ子の女の子の話だが、猿のホルマリン漬けが出てくる。想像するだに気持ち悪い。「おはなしして子ちゃん」とは、いじめられっ子の女の子がホルマリン漬けの猿につけた名前である。この猿が「おはなしして」とせがむのである。いじめられっ子の女の子からその話を聞いたいじめっ子の女の子は、放課後ひとりで理科準備室に忍び込み、いじめられっ子の女の子に閉じ込められてしまうのだが、ホルマリン漬けの猿におはなしをせがまれて、自分の知っているおはなしを次から次へと話し始める。彼女には、話したいおはなしが山のようにあるのだ。ところが、どんなに話しても「おはなしして子ちゃん」は、話をせがみ続ける。自分のことを話し始めた女の子は、うまくおはなしができなくなる。彼女の家庭環境はあまり幸せとは云えない。

この話は、はじめはうまくいきませんでした。ひとこと話すごとに、息を吸っていいのか吐いていいのかがわからなくなり、手や足首が冷たくなってじんじんとしびれました。なにもかもが遠ざかっていくようでした。子猿さえ見えなくなりました。けれど、見えなくても目の前に子猿がいて、私の話を聞いていることだけは疑いを持ちませんでした。やがて、あたたかい血が激しく体中を駆け回る感触が訪れました。私はいつからか、とてもなめらかに話していました。私は、私の話を、遠い遠い外国の森での物語を話すように見事に話していました。

女の子は、自分のことを話すうちに、自己を客体化することに成功したのだ。私は、このことに感銘を受けた。猿の方は、おはなしをしてもらうことによって元気になる。そのあと、ホラーな展開が待ち受けているのだが。「おはなし」には、語り手も聞き手も救う作用がある。彼女は、今も「おはなしして子ちゃん」を求めているのだ。

 

 

ピエタとトランジ」のトランジは、ピエタのクラスに転校してきた常識はずれの推理力を持つ女子高生。彼女の行く先々で事件が頻発し死人が続出するという名探偵の宿命というかある意味不幸を呼ぶ少女。なので、友達がいない。ところがお気楽な性格の女子高生ピエタは、そんなトランジを面白がって友達になる。ピエタの学校でもトランジが転校してきてから、事件が頻発し死人が続出するという豪快な話。これは、長編で読みたい。

 

 

アイデンティティ」の助六は、鮭と猿をつなぎ合わせて人魚を作る職人。人魚工場で作られた人魚たちは海外に輸出される。実際、江戸時代には、人魚のミイラは日本の特産品で海外に輸出されていた。お寺さんとかによくある人魚のミイラもその類である。他の職人たちが作った人魚は、出来上がると人魚の自覚に目覚めるのだが、半人前の助六が作った人魚は人魚の自覚を持てない。


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「猿です」

「鮭です」

「いいえ、人魚です」

 

アイデンティティを持てない猿でも鮭でも人魚でもない存在の苦悩が面白くも哀しい。最後に博物館に展示された「それ」が語る言葉は重い。この短編集の中では最も気に入った作品である。

 

 

「今日の心霊」の語り手である「我々」は、撮った写真が必ず心霊写真になるという驚異の異能力を持つ女性micapon17を見守る謎の組織である。なぜか心霊写真を撮った当人には心霊がまったく見えない。そんなmicapon17がブログを始めて、自分が撮った写真を載せ始めたら、大炎上。彼女の撮ったピンボケ写真は、生きている人間よりも心霊の方が鮮明に写っていたりするのだ。この生者と死者の逆転が面白い。

この短編の中でも出てくるが、ビクトリア朝時代の英国などでは、愛する家族が死ぬと埋葬前に亡きがらを撮影する死後記念写真の習慣があったようだ。私も以前、そういう写真を集めた写真集を見たことがある。特に、死んだ子供がきれいに着飾られて顔もきれいに化粧されて椅子にもたれかかっている写真は鮮明に記憶に焼き付いている。あたかも眠っているかのように見えるのだが、やはり生者の寝姿とはどこか違うのだ。目を開かせて、あたかも生きているかのように写された写真もあったが、やはりどことなく異様な感じがした。

 

 

宇宙を航行する人工知能搭載宇宙船の独白といえば、円城塔の「バナナ剥きには最適の日々」が思い出されるが、「美人は気合い」も人工知能搭載宇宙船の独白である。「わたし」は、「たぶん、きっと」壊れている。名前は「たしか」水瓶103号。水瓶座のβ星サダルスウドの方角へ向けて航行しているという。「わたし」の任務は、胚盤胞を生命体が活発活動している星に届けること。ラストの「羅列」が効果的な作品である。

一般的な「美人」の基準は、時代によっても異なるし、地域によっても異なるが、「美人」の方が、遺伝子が次の世代に残り拡散する確率は高いだろう。「わたし」がいう「美しい」とは、「他者の知覚にこころよい衝撃を与える」ということである。

生物学的には、選択権がメスの方にある種が多いようだ。「美しい」オスが勝ち残るのである。日高敏隆先生によると、クジャクの場合、広げた羽の眼のような模様の数が一番多いオスがメスに選ばれるそうだ。それが、クジャクにおける「美人」の基準なのだ。

それでは、モテナイ君はどうするかというと、ある種の魚の場合、メスの振りをしてカップルに近づき、隙を見て卵巣に精子をかけ逃げするそうだ。涙ぐましい。意外に多くのモテナイ君の遺伝子も次世代に残っていくのだそうだ。

時代によって「美人」の基準は変わるから、今「美人」じゃない遺伝子が「美人」になる日が訪れるかもしれない。だから、今「美人」じゃない遺伝子もキープする必要があるのだろう。

 

 

エイプリル・フール」は、一日に一回だけ嘘をつかないと死んでしまう少女の話。ただし、それは彼女がそう言っているだけであり、それが本当かどうかは分からない。誰かを好きになるということは、相手の虚実をまとめて好きになるということ。好きになってしまえば、年齢も性別も関係ない?

それにしても、嘘がつけないというのは、人間社会においては致命的に不便なことだ。

 

 

「逃げろ!」の語り手の「俺」は、目に見えない敵に追われて必死に逃げたあげく通り魔殺人を繰り返している男。通り魔だけでなく、みんな目に見えない何者かに追われているのだ。RCサクセションの名曲「ベィビー!逃げるんだ」を思い出す。げるんだげるんだあ~🎵

オチがうまい作品である。

 

 

「ホームパーティーはこれから」の語り手の「私」は、夫の転職のため慣れない土地に引っ越してきたばかりで、面識のない夫の仲間を招いてのホームパーティーをすることになった専業主婦。「いつも一生(※ママ)懸命で明るい」彼女の心の拠り所はSNSでつながる高校時代からの親友たちとあの頃の「あたし」。彼女は、失敗が許されないパーティーのために朝から準備に追われている。ところが、準備が終わらないのにピンポンとインターホンが鳴ってしまう。なんか主婦って大変だなあ、というシチュエーションから始まって、途中からぶっ飛んでいく。

輝いていた頃の「あたし」を忘れられずに、「◯◯さんの奥さん」という記号にされることに対して必死に抵抗しながら、「いい奥さん」と呼ばれたいがために記号の中に埋没してしまう女性を描いた一種のホラーとして読んだ。「◯◯さんの奥さん」の繰り返しが効果的である。

 

 

「ハイパーリアリズム点描画派の挑戦」の語り手の「ぼく」は、美大を出たが将来に見切りをつけ食品メーカーに就職した男性。「ハイパーリアリズム点描画」という架空の技法と展覧会における観客のバトルと「ぼく」の人生の凄まじい話である。

 

 

「ある遅読症患者の手記」は、本が無機質ではない世界の話である。この世界では、本は表紙を開くと目を覚ます。そして、束ねられたページと背の隙間から芽が出て、成長し、やがて、花を咲かせる。さて、何色の花でしょう?

ところが、この手記の筆者である「ぼく」は、本を読むのが致命的に遅い「遅読症患者」なので、読み終わる前に花が枯れて本が死んでしまうのである。死にゆく本の描写は、まさにホラーである。その恐ろしさを読者も体験することになる。

音楽では、こういう感じの終わり方をする曲を聴いたことがあるが、小説では、たぶん読んだのは初めてである。同志社大学で美学というと、あの作家を思い浮かべるが、あの人の作品でもこれは無かったのではないだろうか。

 

 

私の本棚には、未読本が何十冊かあるのだが、読まないうちに腐ってしまわないか、ちょっと心配である。早く読まねば。

 

 

 

 

おはなしして子ちゃん (講談社文庫)

おはなしして子ちゃん (講談社文庫)

 

 

 

 

 


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人魚のミイラ(西光寺学文路苅萱堂・和歌山県橋本市