森の踏切番日記

人生LARKしたい

三島由紀夫のラブコメ小説を読む~『夏子の冒険』(3)

10月の読書録02ーーーーーーー

夏子の冒険 (角川文庫)

夏子の冒険 (角川文庫)

 

 


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三島由紀夫のラブコメ小説を読む~『夏子の冒険』(2) - 森の踏切番日記の続き

 

 

第二十三章~第三十章

札幌へ向かう野口君と不二子ちゃんの二人と別れた後、そのまま千歳に滞在していた井田青年と夏子さんにもコタナイ・コタンに例の熊が現れたという噂が伝わります。二人はコタナイ・コタンをめざします。

コタナイの村に着いた二人は、村長の家を訪ねますが、二人を出迎えた村長夫人の顔を見た夏子さんは顔色を変えてとびのいてしまいます。村長夫人は伝統的な口が耳まで裂けているような刺青をしていたのです。肌の色も土気色で死人のようでした。そんな姿で夕闇の濃い室内から現れたので、予備知識を持たない夏子さんが驚いたのも無理のないことだと思いますが、これがアイヌの人たちの心証を害する原因になってしまいました。 それに、あの人喰い熊を狩ろうというのに女連れで来たということも反感を買ったようです。どの家も泊めてくれそうにありません。

仕方ないので二人はランコシ・コタンへ行くことにします。夏子さんを連れてランコシ・コタンへ向かう井田青年の心中は如何に。夜道でカップルにありがちなイベントが発生したりします。夜遅くランコシ・コタンに着いた二人は、大牛田家に迎え入れられます。十蔵は井田青年をしげしげと見て目を潤ませます。夏子さんは、仏壇の秋子さんの写真がちっとも不二子ちゃんに似ていないので安心します。井田青年は秋子さんの写真を見つめながら怒りを新たにします。その夜、疲れとか苛立ちとか怒りとかで野獣化した井田青年を夏子さんがなだめたりします。

 

翌朝、十蔵がコタナイ・コタンへ説得に出かけますが、コタナイの村は無気力が支配していてうまくいきません。三日目の夜、帰りの遅い十蔵を案じていると、十蔵が黒川氏を連れて帰ってきます。黒川氏が万事話をつけてくれたのです。井田青年と夏子さんが黒川氏と十蔵とともにコタナイへ着いてみると、夏子さんは「あっ」とおどろきます。祖母、母親、伯母の三人が野口君とともにいたからです。三人は、取材のためにコタナイへ向かう野口君の車に強引に乗り込んで来たのです。

「夏子がいろいろお世話になりまして」と、母。

「はじめまして、松浦でございます。今後とも何分よろしく」と、祖母。

「まあ! 井田さんでいらっしゃいますか、お噂はかねがね」と、伯母。

三人は、井田青年が「良家の子弟」の特徴を備えていることを見て取って、安心したようです。この騒動をコタナイの村人は総出で見物していました。一行は村長の二号さんに迎えられて、四間ほどあるその別宅におちつきます。二号さんは、六十にちかい肥ったこぎれいな人で、秋田訛りの元芸妓です。その晩は何事もなく過ぎました。

 

明くる日は終日曇天でたいそう涼しい日でした。夜に入ると、一同打ち合わせ通りに配置について熊を待ちます。夏子さんは、井田青年とともに緬羊小屋の屋根に寝そべって熊を待ちます。手には村田銃を持っています。単なる気安めです。期待と不安が入り交じった夜が更けていきます。

奥様トリオの方は村長の別宅にいましたが、寝つかれずにおしゃべりをしていました。ここからは、狂言芝居のような滑稽さで笑わせられます。羊のヒィーヒィー鳴く声に気味悪がり、けたたましく犬の吠える声に取り乱し、そして、窓から大きな熊の顔がのぞいているのを目撃したとき、ついにパニックに陥ります。三人と女主人は、反対側の暗い三畳へ逃げ込みます。祖母は、片手にとろろこんぶのお椀を、片手に箸を持ったままです。

 

地鳴りのような音が起こる。家が揺れる。木の裂ける音が轟く。ついには、裏手の勝手口の引き戸が叩き割られる。硝子が床に落ちて、粉みじんに砕ける涼しい音がする。

三畳の入口の閉められた唐紙がぐらぐらと揺れはじめる。唐紙が前に倒れてくる。祖母が渾身の力をふるって、お椀ごととろろこんぶを投げつける。唐紙がとろろこんぶごと、四人の上に倒れかかってくる。生臭い猛毒のような匂いが立ちこめる。四人は意識を失ってしまった。

 

結局、熊は不味そうな四人には手をかけずに、廊下の板壁をぶち割って出ていきます。家に入る熊を見て夏子さんはパニクりますが、井田青年はそんな夏子さんの頭を思わずポカリと殴りつけます。家を出て羊を襲い始めた熊を、井田青年は見事に撃ち倒します。終わってみれば、あっけない最期です。青年が手を調べると指は四本でした。

 

奥様トリオにすっかり気に入られた井田青年は、秋子さんの墓参りをすませると、夏子さんたちとともに帰京することになります。

「東京へかえったら、いつ結婚しよう」

「そうね。いつでもいいわ」

青函連絡船の甲板で井田青年は結婚後の将来設計を目を輝かせて語ります。夏子さんは、そんな青年の目を悲しそうに見つめます。

井田青年のかたわらを離れて船室に戻った夏子さんが言い放った言葉に、祖母と母と伯母の三人は呆気にとられます。神秘的な沈黙が支配する中、物語は幕を閉じます。

 

 


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口の周りに刺青を入れているアイヌの既婚女性

 

 

 

松浦夏子の憂鬱

こうして、夏子さんの「冒険」は終わりました。コタナイのアイヌの協力を得られずに途方に暮れる辺りが、クライマックス前の試練といえますが、自力で解決したわけではないので盛り上がりに欠けます。クライマックスの四本指の熊との対決も奥様トリオのせいで喜劇的になってしまいました。井田青年は熊を一発で仕止めますが、あまりにもあっさりとした決着に本人も茫然とした感じです。夏子さんは傍観者に過ぎませんでした。

 

この小説は、

或る朝、夏子が朝食の食卓で、

「あたくし修道院へ入る」

といい出した時には一家は呆気にとられてしばらく箸を休め、味噌汁の椀から立つ湯気ばかりが静寂のなかを香煙のように歩みのぼった。

という場面から始まり、

「夏子、やっぱり修道院へ入る」

三人は呆気にとられて、匙を置いた。三つのコーヒー茶碗から立つ湯気ばかりが、この神秘的な沈黙のなかを、香煙のように歩みのぼった……。

という場面で終わります。三島由紀夫といえば、「小説は最後の一行が決まらないと書き出せない」という有名な言葉があるそうですが、この小説の場合は、明らかに冒頭部分と最後の場面が最初から決まっていたと考えられます。

一般に教養小説というのは、主人公が様々な体験を通して内面的に成長していく過程を描く小説のことをいいますが、夏子さんの場合は、このひと夏の体験を通じて内面的にあまり変化しなかったようです。結局、振り出しに戻っただけです。逆にいえば、内面を成長させるような出来事は何も起こらなかったと考えることができます。夏子さんの「冒険」はその程度のものだったのです。

 

夏子さんは、井田青年に恋をしたつもりだったのでしょうが、その恋には矛盾があります。

毅の目にはもう熊の姿しか映っていなかった。そういう毅を見ていることが、夏子にはうれしかった。そういうときだけ、彼を独占している心地がしたのである。

夏子さんは熊のことを考えているからこそ井田青年が好きなのであって、そこに夏子さんは介在しません。

二人にとってその熊は、仇敵なのか、それとも理想なのか、見分けがつかなくなっていた。

と、あるように、熊が象徴しているのは「理想」や「ロマン」といったものです。夏子さんのは、いわゆる「夢を追いかけてるあなたを見てるのが好き」というやつです。冒険物語の主人公に夢中になっているのと変わりありません。これが本当の恋ではないことは明らかなのですが、本人はその事に気がつきません。「冒険」が終わって、井田青年が平凡な将来設計を語りはじめると急速に冷めてしまうのも無理ありません。彼女は、井田青年に恋をしていたのではなくて、ロマンに恋をしていただけなのですから。彼女は、おとぎ話のお姫様のように「めでたし、めでたし」では満足できないのです。困ったお姫様です。

 

その後の夏子さんを想像してみます。このまま、すんなりと修道院へ行くとも思われません。気を取り直して井田青年と交際するのでしょうか。お嫁に行かずにずっとお嬢様のままでいそうです。彼女の内面を揺さぶるような大事件でも起こらない限り、彼女は何も変わらないような気がします。怪人二十面相みたいな人物が現れたら、喜んでついて行きそうです。そのうち、宇宙人と未来人と超能力者と異世界人以外は興味がないとか言い出しそうです。

 

この物語で、いちばん得をしたのは野口君でしょう。特ダネをものにできて、編集長から金一封を頂戴した上に、不二子ちゃんというカノジョまでゲットしたのですから。野口君は、夏子さんに失恋したり、奥様トリオに振り回されたりするうちに少しは成長したのかも知れません。思わぬ副産物です。

 

 

 

 


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三島由紀夫の祖父母、平岡定太郎となつ。

平岡なつの通称名は、夏子。気位が高く、気性が激しかったという。幼少期の三島由紀夫(本名:平岡公威)は、祖母の絶対的な影響下にあったという。