森の踏切番日記

人生LARKしたい

吉村昭の『高熱隧道』を読む(2)

10月の読書録03ーーーーーーー

高熱隧道 (新潮文庫)

高熱隧道 (新潮文庫)

 


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吉村昭の『高熱隧道』を読む(1) - 森の踏切番日記の続き

 

 

仙人谷に向かって本坑を掘削しはじめた阿曽原谷側工事班の岩盤温度は、依然130℃台を記録し、日によっては、140℃を大幅に越えることもあった。仙人谷側の岩盤温度も12月に入ると遂に100℃を突破、上昇の気配を一向に止めない。

ところが、逆に工事は快調に進んだ。ポンプで汲み上げる渓流の水温が氷点近くまで下がって冷却効果が増したのだ。また、防熱のためのエボナイト管をファイバー管に変え、複数のダイナマイトを縦に一列に並べ、それを二本の割竹ではさむことで作業を効率化させた。

この頃から、技師や人夫たちの中に招集令状をうけて下山する者が増えてきた。

12月20日、阿曽原谷側工事班と仙人谷側工事班の距離は540mにちぢまった。仙人谷側坑道の岩盤温度も130℃を突破、阿曽原谷側坑道の岩盤温度は常時140℃台を記録するようになった。熱湯の噴出による火傷事故も何度か発生し、その度に工事は中断され、工事の進度が鈍りはじめた。

この年(1938年:昭和13年)、ここまでの人命の損失は31名で、工事着工以来の死者は85名に達していた。

 

12月27日深夜、第二工区志合谷で大事故が発生する。鉄筋5階建て(実際は4階建て)の宿舎が百人近い人員とともに一瞬にして消えてしまったのだ。

正確な行方不明者の数は84名だった。坑内にいた49名は無事だった。宿舎は、専門家の意見も参考にして雪崩が発生しない絶対安全な場所に頑丈な建物を建設したはずであった。

猛吹雪の中、救出作業は難航した。年が明けて、1939年(昭和14)1月10日、ようやく雪の除去作業が終わったが、宿舎跡からは遺体は一体も発見されなかった。それどころか、建物の残骸すら発見されなかった。辺り一帯の雪の掘り出し作業が続けられたが、2月に入っても遺体も残骸も見つからない。2月下旬になって、宿舎はホウ雪崩(泡雪崩)に遭遇したことが分かった。遺体と残骸は、奥鐘山の岩棚に積み重なって発見された。

 

泡雪崩は、表層雪崩の一種で、乾いた新雪の雪粒と空気の混合体が圧縮されて塊となって落下するもので、雪煙が時速200km以上の速度で流下する(全層雪崩は時速40~80km)。それが障害物に激突すると、圧縮された空気が爆発し、その衝撃力は建造物を破壊するほどの大きさになり、爆風をともなう。本書によると、爆風は秒速1000m以上になる可能性もあるという。

この事故では、泡雪崩は宿舎から700mの距離にある峻嶮な山の傾斜で発生したと推定される。宿舎は、運悪く急斜面を流下した泡雪崩の通過線上に位置していて、泡雪崩の衝撃力によって宿舎の二階から上部が破壊され、爆風により直線的に吹き飛ばされ、前方の比高78mの山を越え、宿舎地点から580mの距離にある奥鐘山の大岸壁にたたきつけられた。その直後、宿舎裏の山の雪が雪崩れて宿舎跡を埋めたということのようだ。

3月に入り、雪融けを待って遺体の収容作業が始まった。小説では遺体は全て収容されたことになっているが、実際の記録では、宿舎利用者124名のうち無事だったのは32名、重軽傷者8名、遺体が収容されたのは37名、行方不明者47名となっている。

泡雪崩 - Wikipediaなども参考にしました)

 


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宿舎の位置を赤印辺りだとして、後方の急斜面(緑線は尾根)から泡雪崩が襲い、宿舎は対岸の比高78mの尾根を越えて、奥鐘山の岸壁にたたきつけられたということになる。想像を絶する話である。(青線は川、黒の破線は軌道トンネル、黒の実線は日電歩道)

Google Earthストリートビューが、赤印辺りにあるのだが、辺りの山は急峻な地形だった。

 


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奥鐘山(出典:奥鐘山 - Wikipedia

 


今度ばかりは、富山県庁も県警察部も工事の全面的な中止の意志が固かったが、志合谷事故の犠牲者全員に天皇から金一封が下賜されたことから風向きが変わり、3月22日、工事再開指令が通達された。
3月28日、工事再開。仙人谷・阿曽原谷間の軌道トンネル工事は残り280mになっていたが、工事の遅れを取り戻すため水路本坑工事も並行して推し進められることになった。

4月10日、工事着手以来の犠牲者に対する慰霊祭が行われる。

5月に入っても岩盤温度の上昇はやまず、仙人谷坑道でも阿曽原谷坑道と同じように岩盤温度が140℃を越え、さらに上昇の気配をみせていた。仙人谷側は坑内が奥にいくほど下がっていて、冷却のために放水した水が排水ポンプによる排水では追いつかず、45℃の湯が絶えず人夫たちの腰あたりまでひたしていた。人夫たちの顔は苦痛でゆがんでいた。

6月5日、阿曽原谷側坑道の岩盤温度が162℃を記録する。火薬係の人夫たちが再び怯えはじめたので、ダイナマイトをはさむ割竹を四本に増やし、ダイナマイトを装填する穴に、細竹を冷凍機にさし入れて作った氷の棒を事前にさし込んで温度を下げる工夫をした。

以後、岩盤温度は常時155℃前後を記録する。坑内温度も上昇し、人夫たちの熱に対する忍耐も限界に達した。6月初旬には熱中症による死者も出るようになった。

6月末日、軌道トンネル工事は、残り100mを切る。

7月5日、阿曽原谷側坑道の岩盤温度が165℃を記録、最高記録を更新する。

7月中旬、不発ダイナマイトの自然発火による事故で、2名死亡、7名重傷。県警察部からは、最早何も言ってこない。この事故の後、次第に坑道内に重苦しい緊張感がただよいはじめ、人夫たちの表情も殺気立ってくる。

8月10日、軌道トンネル工事は、残り29m になる。岩盤温度は両側とも154℃。ここから懸賞金をかけて、仙人谷工事班と阿曽原谷工事班の激しい掘進競争が始まる。こうなると、熱いとか、事故が怖いなどと言ってる場合ではない。人夫頭にとってはプライドがかかっている。人夫たちは狂ったように作業を続けた。

8月17日、両班の距離は6mを切る。坑内作業を指揮する技師たちの表情が重苦しくなる。設計図通り貫通した際に両側の中心線が正確に重なり合わなければ意味がない。中心線の完全な一致が技師たちの誇りであり喜びなのだ。

8月20日早朝、仙人谷側工事班の先着でついに貫通する。その日の午後、貫通祝いが行われた。測定の結果、坑道の食い違いは横にわずか1.7cmの誤差だった。技師たちは喜んだ。

2日間の特別休暇の後、人員は二分され、水路隧道の掘削工事と貫通した軌道トンネルの仕上げ工事に取りかかる。

この年の5月11日にノモンハン事件が勃発している。9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵入、第二次世界大戦始まる。技師・人夫の出征のため、工事現場の人員不足が深刻化する。人夫の平均年齢も上昇し、中年以上の者が圧倒的に多くなる。

 

秋になり、陸軍省から阿部信行陸軍大将が視察に訪れる。

すでに軌道トンネル工事は完了し、欅平・仙人谷間の全ルートが開通、レールの敷設も終わろうとしていた。レールの敷設が終われば、ダム構築用資材は、第三工区の竪坑のエレベーターで運び上げられ、約5738mの軌道トンネルを運搬車で一気に運ぶことができる。

水路隧道工事は、第一工区が遅れているだけで、第二、第三工区は1、2ヶ月中に貫通が予定されていた。翌年中には、全ての工事が完工することが確認された。

 

11月中旬、第三工区水路隧道工事が完工期限よりも1ヶ月早く貫通、続いて第二工区水路隧道工事も貫通された。第二工区水路隧道工事は、阿曽原谷に近づくにつれて岩盤温度が急上昇し、最高温度は148℃を記録した。第一工区と違って人夫たちは高熱に順応していなかったので、工事はしばしば中断した。熱湯噴出事故のため、5名死亡。

11月20日、黒部渓谷は一夜にして雪におおわれた。

12月に入って、第二工区の人夫たちも第一工区の工事に合流したが、第二工区で148℃を経験した人夫たち以外は、第一工区の高い坑内温度に耐えきれなかった。

前年の泡雪崩事故を受けて、宿舎は補強され周囲に石の壁も作られたが、降雪が本格的になると、人夫たちはおびえはじめた。 

 

1940年(昭和15)1月9日午後、阿曽原谷で発生した泡雪崩が、またしても宿舎を直撃した。建物は倒壊し火災が発生した。焼失したのは6階建ての阿曽原谷宿舎の4階以上の木造部分だった。泡雪崩は裏山のブナ林を通過、ブナの木はなぎ倒され、爆風によって空中に舞い上がり、一斉に宿舎に突き刺さったのだ。調査の結果、平均して直径70cm、長さ20mのブナの木が推定300本、宿舎から渓谷一帯に散乱していた。死者28名。

監督官庁からは何の指令もなく、2月初旬には工事が再開された。阿曽原谷宿舎は放棄され、坑道内の避難所を拡張して寝泊まりすることになった。坑内温度は平均32℃で雪崩の危険がないことに人夫たちは安心したが、湿度が高く虱が大発生した。

主人公の工事課長は、阿曽原谷事故以後人夫たちの間にこれまでとは異なった気配が広がってきているように思えてならなかった。

 

4月末日、水路隧道を掘進する仙人谷側・阿曽原谷側両坑道間の距離がついに100mになった。岩盤温度は上昇を続け、5月上旬には、阿曽原谷側坑道で166℃を記録、最高記録を更新した。仙人谷側坑道では湯のたまる量が多くなり人夫たちを悩ませた。

5月中旬、爆発事故が仙人谷側坑道で起こり、3名死亡、5名重傷。3日後、阿曽原谷側坑道で熱湯噴出事故が起こり、2名死亡。人夫たちは、事故が起こってもはっきりした反応を示さなくなり、その顔もほとんど無表情に近かった。主人公は、彼らの沈黙と強ばった表情におびえた。

5月末日、両班の距離が残り38mとなる。

6月4日、両班の間で激しい掘進競争が開始された。その作業には無言の殺気が感じられた。軌道トンネル掘進競争で敗れた阿曽原谷工事班の進度はすさまじかった。

6月14日早朝、ついに阿曽原谷工事班の先着で、阿曽原谷・仙人谷間約705mの水路隧道は貫通された。その日の夕方、人夫たちの不穏な空気を恐れた工事課長の主人公、上司の事務所長、日本電力工事監督主任の3人は、一目散に軌道トンネルを下った。

 

1940年(昭和15)11月21日、仙人谷ダム完成をもって、黒部第三発電所建設工事は完工。第一・第二工区の人命損失は233名、全工区の犠牲者は300名を越えた。

 


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関西電力黒部専用鉄道の阿曽原・仙人谷間のコンクリートで覆われた区間

(出典:仙人谷ダム - Wikipedia


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関西電力黒部専用鉄道の阿曽原・仙人谷間の素掘り区間

(出典:関西電力黒部専用鉄道 - Wikipedia

 

 

本書のあとがきによると、著者は黒部第四発電所建設工事の大町トンネル(関電トンネル)工事現場を見学した際、岩盤に取り組む技術者や労務者の自身とは明らかに異質な世界に住む人間の姿に大きな衝撃を受けたという。そのとき味わった「はかない人間としての自分の存在を見せつけられたような萎縮した卑屈感と孤独感」が、この小説の主題に反映されている。

この小説の登場人物は、作者の創作である。小説としては、第二工区担当土木会社に勤める工事課長を主人公に、技師たちと人夫たちとの人間関係を中心に描かれている。

 

技師と人夫。そこには、監督する者と従属する者という関係以外に、根本的に異なった世界に住む違和感がひそんでいる。それは、一言にしていえば、技師は生命の危険にさらされることは少ないが、人夫は、より多く傷つき死ぬということである。と言うより、人夫たちには、死が前提となっているとさえいってよい。

 

技師たちの立場は、主人公の上司である事務所長の「おれたちトンネル屋は、トンネルをうまく掘ることさえ考えていりゃいいんだ」という言葉に尽きる。 人夫の死にいちいち感情移入していては、トンネル屋はつとまらないのだ。

登場する若手技師二人のうち一人はそうした世界に染まっていくが、もう一人は最初の泡雪崩事故の後、精神に変調をきたして雪山に消えていく。人の死の重みに耐えきれなかったのだ。

一方、人夫たちが高熱に喘ぎ、死の危険にさらされながらも工事現場から離れないのは、高い日当がもらえるからにほかならない。彼らは生きるために、家族に少しでも楽な暮らしをさせてやりたいがために働いているのである。

技師たちは、人夫たちが持つ潜在的な不満や憎悪に対して、常に細心の注意を払わなければならない。主人公は、工事が進むにつれて、彼らの怒りがいつか暴発するのではないかという恐怖心を募らせていく。

著者は、この両者の決して相容れない、しかし、互いに依存し合わなければならない、死と隣り合わせの現場を目の当たりにして、この地下世界では自身の方が異質な存在であることに卑屈感と孤独感を味わったのだろう。

 

この渓谷は、人の住みつくことを頑強に拒否している。はげしい造山運動を繰り返す黒部渓谷は、思うままに雪崩を起し崖くずれを発生させて、人を近づくことを許さないのだろう。

 

本書を読んで深く印象に残ったことの一つに黒部峡谷の自然の恐ろしさがある。それでも、人はそこに分け入っていくのである。この隧道工事史上稀に見る難工事が、十五年戦争中(満州事変から敗戦まで)に行われたという事情がなければ、果たして完工されたであろうか。国家のために国民が犠牲になるのは当然のことであると考えていたのが当時の大日本帝国である。戦後の日本国であっても、国家的事業とあらば完工させるだろう。国家とはそういう性質のものである。この第三発電所の完成がなければ、第四発電所の建設もなかった。その事を考えると、この高熱隧道の完工は大きな意味をもつと云えるだろう。