『ブラタモリ』#60こんぴらさん(2/3)
~人はなぜ“こんぴらさん”を目指す?
🐶こんぴらさんでブラタモリ(1/3) - 森の踏切番日記の続き
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人気の神社になって境内に起きた「とんでもないこと」って一体なんでしょう?
ヒントはこの道です。さらに登ると…
すぐにまた曲がる。
江戸時代の頃からずっと続いていたものです。
琴陵「いっぱいいまして」
更に上へ行くと…
[江戸時代初期の図]
[大正時代の図]
どうしてでしょう?
大正解
草彅「江戸時代の初め」
草彅「ところが、こんぴらさんの人気が高まるにつれ」
草彅「そこで新たに置くスペースをつくったんです」
残りあと40段です。
近江「あとちょっとですね」
タモリ「登りきりました」
まずは、お参り。
最近これやらないなあ。
久し振りの草彅クンを探せ。
こんぴらさんがどんな場所にあるのか見てみましょう。
いい眺め。
ここで前回の「さぬきうどん」編で登場した長谷川先生が再登場。
内陸に入っているけど海が見える。
ということは、海からもよく見えるということ。
長谷川「形も面白いんですね」
画面左の低い山がたぶん愛宕山で、そこから右へ、琴平山、象頭山、大麻山(おおさやま)からなる独立山を総称して、象頭山あるいは琴平山(あるいは金比羅山)と呼ぶようです。ややこしい。国土地理院の地図で確認すると標高は、愛宕山が232m、琴平山が524m、象頭山が538m、大麻山が616.3mとなります。
こんぴらさんへ向かう讃岐街道からの眺めが象のように見えるということだそうな。
ところで、江戸時代の人は本物の象を見たことがあるのかな?
たしかに象に見えるw
象の眼の笑ひかけたり山桜 与謝蕪村
江戸時代までに何回か象が来日した記録がありますが、初めて多くの人の目に触れたと思われるのが、享保13年(1728)に来日したアジアゾウでしょう。この時、全国的に象ブームが起きたそうな。
どうしても本物の象が見たい将軍徳川吉宗が中国商人に発注したとかで、享保13年の6月に広南(今のベトナム)から7才の牡と5才の牝の2頭のアジアゾウが長崎に上陸。長旅の疲れからか牝の方は間もなく死亡しました。
翌年3月、牡象は長崎を出発。4月には京の都に到着し、中御門天皇の上覧がありました。官位がないと上覧はかなわないので、この時象に「広南従四位白象」の官位が与えられたとか。
当時14歳だった伊藤若冲は象を見ることができたでしょうか。若冲の象はあまり写実的ではないので、見られなかったのかもしれません。
それはともかく、象は東海道を東へ旅し、箱根の山も越えて、5月に江戸に到着。江戸市民の熱狂的な歓迎を受けたとか。八代将軍吉宗は江戸城大広間の前庭で象を観覧しました。余は満足じゃ。
象は浜御殿で飼育されましたが、寛保元年(1741)には農民に払い下げられ、寛保2年(1742)に病死しました。
その後幕末まで日本人が本物の象を見る機会はなかったということなので、江戸時代の多くの日本人は、本物の象を見たことはなかったということになります。絵を見たり話を聞いたりして想像をふくらませたことでしょう。
伊藤若冲が80歳頃(1795)に描いた白象図。若冲の象はいくつかの作品で見られますが、どれもだいたいこういう感じです。これはこれで好きですけど。
当時の日本人にとって、象といえば仏教だったと思います。普賢菩薩の乗り物である白象が連想されたと思います。象頭山松尾寺は、大宝年間(701~704)に役小角が開基したという伝承があるようですが、象頭山も元々は仏教がらみの命名ではないかと思います。
不完全ながらメサ?
近江(めさ?)
先生わかりません (^_^;)
メサ(mesa)は卓状台地ともいいます。
上位に硬い水平な地層があって、下位に柔らかい地層があると、下の地層が侵食されて急崖を形成し、上部は侵食されないためにテーブル状の台地となります。これを卓状台地あるいはメサといいます。
象頭山もかつてはメサだったと考えられます。
花崗岩でできたくぼみがあったと考えられます。
なるほど。
出典:屋島 - Wikipedia(by 屋嶋の仙人)
こちらは、モニュメント・バレー(米国)のメサ
※メサがさらに侵食が進み、右奥に見えるような孤立丘になったものはビュート(butte)と呼ばれます。
長谷川「マサになってて柔らかいんですね」
近江(メサとマサ?)
毎回混乱してないかい?
「まさご」ともいいます。
山の形が独特で、しかも周りと比べて高くて目立つ山だということが、こんぴらさんが信仰された理由の1つだということです。
タモリ「不完全メサがよかったんですよ」
近江「ちょうどいいあんばいで」
でも、なぜ御本宮が頂上ではなくてここにあるのでしょうか?
長谷川「実は、おっしゃるとおりなんです。これ以上はね、ちょっとってとこなんです」
急な崖。
まさに頃合いのいい場所なんです。
ちなみに、御本宮がある辺りの標高は国土地理院の地図で見ると、236mです。さらに583段の石段を登った奥社の巌魂(いづたま)神社の標高は、421mになります。巌魂神社は、1905年(明治38)に現在の位置に遷座されました。
👺奥社の断崖に彫られた天狗とカラス天狗
人がこんぴらさんを目指した理由は、お参りだけじゃない?
俗🎵
聖があれば、俗もある。
分かるんですと。
歌舞音曲とか、お酒とか。
遊郭もあっただろうな。
そういえば、レオマワールドってあったなあ。
あれまだあったっけ?
・・・・・・
ニューレオマワールドになってた!
全然知らんかったなあ。頑張ってはるんや。
こんぴらさんから割と近いんやったなあ。
それはそうとして…
タモリ「ああ~、やってる、あれか」
タモリ「出雲でもやっていた富くじ、ここでもやっていたんですか」
富札と同じ番号の木札を駒箱に入れて、上部の穴から錐を突き入れて一枚を刺し取り抽籤しました。なので、富突とも呼ばれていました。
富籤の勧進元は寺社にのみ許されていました。
近江「10万円ぐらい…」
タモリ「いやいやもっとでしょう」
近江「100万円!」
タモリ「いやもっとでしょ」
近江「もっとですか!?」
タモリ「1000万円と言いたいですね」
1等賞は銀六貫目。ということは、約750万円か。散財するのに手頃な感じだな。
草彅「多くの人をとりこにした富くじ」
🐘次の記事へと続きます
近江友里恵メサマサ混乱図
🐘伊藤若冲と金刀比羅宮🐘
伊藤若冲は、1764年(明和1)、49歳の年に、象頭山松尾寺金光院奥書院の上段の間に「花卉図」を、二の間に「山水図」を、三の間に「杜若図」を、広間に「垂柳図」を制作しています。
佐藤康宏氏は、『伊藤若冲 生涯と作品』(東京美術)で、「動植綵絵」などの制作に熱中していたであろう当時の若冲が、わざわざ讃岐まで出かけたとは思われないので、絵だけを送ったのではないかと推測しています。
また、当時、奥書院を私的生活の場としていた金光院の第十代別当・宥存は、少年時代に京都で若冲に就いて絵画を学んだことがあるので、その縁で依頼されたのではないかとも推測しています。
1844年(天保15)には、これらの障壁画は損傷がひどくなったため、「花卉図」だけが残され、他の三室の絵は撤去され、岩岱に新たな障壁画を依頼し、現在に至るということです。奥書院は、作品保護のため通常は非公開です。
※上の画像は『花卉図』より「梅」(金刀比羅宮)
(出典:金刀比羅宮)