森の踏切番日記

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三島由紀夫の小説『命売ります』を読んで考えたこと

1月の読書録01ーーーーーーー

 命売ります

 三島由紀夫

 ちくま文庫(1998/02/24:1968)

 ★★★★

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命売ります (ちくま文庫)

 

私は、世間が左を向けば右を向きたくなり、右を向けば左を向きたくなるというひねくれた性格をしていて、ベストセラーや話題作などは、それだけで読む気にならない。ただ、私の場合、ひねくれ方が中途半端(私の母親はもっとひねくれている)なので、時々、後でこっそり読んだりする。だったら最初から素直に読めよ、と思うのだが、たまに素直に話題作を読んでみたりすると、ものすごくつまらなかったりするので、嫌になるのだ。

そんなわけで、この小説も話題になった頃は、何となく読む気にならず、書店でザッと立ち読みしただけだった。たぶん、文庫本に付いていたオビの文句が気に入らなくて買わなかったのだと思う。ところが昨年、『美しい星』を読んで以来、俄然三島由紀夫に興味を持ってしまい、今更のこのこと本書を読むことになった次第であります。素直に読んでおけばよかった。

 

この小説『命売ります』は、1966年(昭和41)10月に創刊された雑誌「週刊プレイボーイ」に、1968年(昭和43)5月21日号から10月8日号まで、全21回にわたって連載され、同年12月25日に集英社から単行本が刊行された。

この1968年は「泥沼化したベトナム戦争」という国際情勢を受けて、1月に米原子力空母エンタープライズ佐世保入港反対運動が巻き起こり(当時、佐世保の高校生だった村上龍が刺激を受けた)、6月には九州大学に米軍機が墜落、米軍基地撤去運動が高まり、10月21日の国際反戦デーでは新左翼学生の反戦デモが暴徒化、新宿騒乱事件が勃発した。また、日大紛争では警官が死亡し、東大紛争が激化するという激動の1年だった。

三島由紀夫自身は、前年に自衛隊体験入隊をした後、「祖国防衛隊」構想を進め、この年の10月に「楯の会」と名称を変えている。『命売ります』連載終了後には『豊饒の海』第三巻「暁の寺」の連載が始まる。また、川端康成ノーベル文学賞受賞は、三島にとっても大きな出来事だったと思われる。

 

1960年代後半の「若者」というと、学生運動というイメージが強い。一方では、ヒッピー文化のイメージもある。しかしながら、それらは両極端であって、大半の若者は「ノンポリ」だったのではないだろうか。ノンポリにもサヨクのシンパやヒッピーかぶれもいただろうが、ほとんどは、今よりも政治意識は高かったとは思うが、いつの時代も大して変わらない平凡な若者だったと思われる。村上龍の小説『69 sixty nine』の最後にある「どうして、醜いものとか汚いものとか、わざわざ見なくてはいけないの?」という言葉が彼らを象徴しているように思う。

また、ノンポリにも消極的ノンポリと積極的ノンポリがあって、消極的ノンポリというのは、普通の大半のノンポリのことだが、ごく少数のノンポリはポリシーとしてノンポリを貫く積極的ノンポリだったと思われる。村上春樹の初期の小説の主人公はこの積極的ノンポリに属するのではないかと思う。私が最もシンパシーを感じるのは、ニヒリズムでもアナキズムでもない、この積極的ノンポリである。

 

当時のインテリ大学生は「朝日ジャーナル」を読んでいて、アート系の学生は「ガロ」というイメージがある中で、1960年代には新進の週刊誌だった「週刊プレイボーイ」や「平凡パンチ」の読者層は、大半の「健康で文化的な」ノンポリ男子だったと思われる。そうした雑誌に小説を連載するにあたって三島由紀夫は、当時の三島の傾向とは路線が異なると思うのだが、雑誌のコンセプトや読者層の傾向に適した小説を用意している。この小説を三島自身は「サイケデリック冒険小説」と呼んでいるが、いかにも「週プレ」的な若者向きの小説である。時代は違うが、かつて「週プレ」読者だった私はこの小説を楽しく読んだ。

 

この小説は、起承転結がはっきりしていて分かりやすい構成である。冒頭、生の倦怠に取り憑かれて神経衰弱になった主人公・山田羽仁男は、睡眠薬を飲んで自殺を図るが失敗に終わる。投げやりになった彼は、「命売ります」という新聞広告を出す。

私は昔、「死んだ気になれば何でもできる」と説教されたことがあるが、死んだこともないのに死んだ気になどなれるものか。その点、主人公は一度死にぞこなっているので、何でもできるわけだ。

詳しいあらすじは、〈命売ります - Wikipedia〉でも参照していただくとして、第一の依頼と第二の依頼のエピソードが語られる第18節までが起承転結の「起」にあたる。Wikipedia に載っているあらすじでは、第二の依頼で主人公が飲んだ自殺したくなる薬の効き目はなかったように書いてあるが、私は効いているように解した。

ここまではハードボイルド調のストーリー展開である。第一の依頼の後の拘束衣を着させられた鼠の縫いぐるみ相手のひとり芝居は演劇的だが、少しわざとらしい感じがしなくもない。主人公はニヒリズムに陶酔しているように思われる。

そもそも、宇宙に意味などないのだから世界に意味があるわけがない。人生に意味はないし、従って、死にも意味はない。生にも死にも意味がないのだから、わざわざ死に急ぐ必要もない。どうせ、人はいずれ死ぬ。世界に意味がないから死んでもかまわないという主人公の考え方は、若さゆえの傲慢に過ぎないのではないかと思う。

 

第三の依頼者の少年の母親は吸血鬼である。ここから怪奇小説じみてくる。主人公は吸血夫人の愛人になり、日に日に衰弱していくのだが、乱歩のような淫靡さは感じられないし、ゴシック風でもない。あっけらかんとした感じである。これは、主人公が成り行きに任せてしまって、気楽にしているからだろう。彼は平凡な人生に退屈してしまって、命を引き換えにしてもよいから、刺激が欲しかっただけではないかという気もする。要するに、彼は無責任なのである。

ここでは、知らない人間からの古い価値観に基づく説教が書かれた手紙が面白かった。これは、この手紙に続いて紹介されるラリった手紙のカモフラージュにもなっていて、基本的な技巧なのだろうが巧いなと思った。

 

第四の依頼のエピソードはスパイ小説風というか推理小説風である。随筆「法律と文学」で「推理小説に何ら興味を抱かない」と言明している三島が推理小説風の謎解きをしているところが面白かった。この小説は三島らしくないことをいろいろわざとやっているように思う。ハードボイルドの文体に興味があったのだろうか。

このエピソードの第33節までが、起承転結の「承」にあたる。ここにきて、主人公は饒舌になり、ふてぶてしくなっている。鴻毛より軽いのは彼の命ではなくて、彼の精神の方ではないかと思う。にんじん嫌いの話などは調子に乗っているとしか言いようがない。

この第28節で出てくる「命を鴻毛の軽きに比することのできる人間」という表現は興味深い。これは、「死は或いは泰山より重く或いは鴻毛より軽し」という言葉からきているのだが、1882年(明治15)に明治天皇が陸海軍軍人に下賜した勅諭(軍人勅諭)の中に、これをもじって「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」という文言があるのである。鴻は「おおとり(大型の水鳥)」のことである。もともとの意味は、忠義のための死は重いが無駄死にはするなということなのだが、軍人勅諭の方は、忠義のためなら命など軽いものだという意味しかないよう思われ、この言い換えは巧妙である。

私にとって、「この世で一番大事なもの」は私自身の「自由」であって、己の自由で死ぬのはかまわないが、何かのために死ぬのは御免である。現憲法下で生まれて良かったとつくづく思う。このままヌクヌクと生きたいものである。誰も余計なことをするなよな。

 

第34節からが、起承転結の「転」になる。たまたま入った不動産屋で、偶然にもラリった手紙の差出人である玲子と知り合い、彼女の家の離れに住むことになるのだが、ここから様相が一変する。

第35節の、

何かひどく大きなものが置き忘れられているような午後、明るい空地みたいな春の午後だった。

という表現が印象的である。その数行後の、

人生が無意味だ、というのはたやすいが、無意味を生きるにはずいぶん強力なエネルギーがいるものだ、と羽仁男はあらためて感心した。

という辺りから、主人公の心境に変化が起こり、ここまでのイケイケ状態から守勢に回ることになる。精神の高揚は長く続くものではない。そういう風に感じるということは、エネルギーが切れかかっているのである。

ここから話はホラーというかサスペンスじみてくる。次から次へと趣向を凝らして読者を飽きさせないところがすごい。生物は生存本能を持っているから自死するためには、強い意志力で本能をねじ伏せるか、何らかの方法で本能を麻痺させる必要がある。ここまでの主人公は「命を売る」ことによって頭の中をフリーズさせていたに過ぎない。何のかんのと理屈をつけても他人に拳銃の引き金を引いてもらうのと変わりない。

玲子という女性はイカレた女で、意味のないところに意味を見出して死のうとしている。頭の中がフリーズしていない状態の主人公は、巻き込まれて死ぬことを拒否するが、人間というのは自分よりもイカレた人間に出くわすと正気に戻るものである。結局、主人公も己の自由で死ぬのはかまわないが、何かのために死ぬのは御免なのであり、これこそノンポリ的な考え方なのである。彼が玲子の元を逃げ出したのは、彼女が夢として語る「ゴキブリの生活」を避けるためではなく、単に玲子のイカレ具合についていけなくなっただけに過ぎない。

隙をみて玲子から逃れた主人公だが、何者かに付け狙われていることに気がつく。ここに至って、彼はようやく自身が「死の恐怖」にとらわれていることを認め、東京から逃げ出すことにする。人がそれほどにも生きたいと思い、また、死に恐怖を覚えるのは、生命体には生存本能が予めプログラムされているのだから、自然なことなのである。主人公は、その当たり前のことを失念している。

 

個体は、個体としては自らの生存本能に従うが、生存の確率を上げるために個体が集合してシステムを形成すると、システムとしての生存本能が芽ばえるようだ。システムはシステムとして持続できればよいのだから、個々の個体の持続は重要ではない。従って、システムの保存のためには、個体の生存本能よりもシステムの生存本能が優先される。個体の独立性が強ければ、そこに軋轢が生じる。独立性の強い個体数が閾値を超えれば、システムは崩壊する。システムから見れば、個体の独立性が弱い方が都合がよいのである。個体の方も、独立性が強くなりすぎてシステムから離脱すれば、生存の可能性が低下する。逆に、個体の独立性が弱くなりすぎると単一化が進み、システムが硬化して機能しなくなる。持続的な複雑適応系のシステムは、個体の独立性との関係においてカオス的遍歴をするよう思われる(テキトー)。また、閉鎖的なシステムは、いずれエントロピーが増大しきってしまうので、上手く行くわけがない。

 

主人公は、社会からの疎外感を今更のように覚えるが、「ゴキブリの生活」というシステムからのがれることは、そういうことなのである。第50節からが、起承転結の「結」になる。主人公は拉致されるのだが、そのとたんに死の恐怖が遠のく。「やはり人間にとって一番こわいのは不確定な事柄」だというのは、もっともだと思った。恐怖心は想像力が増幅させるものである。

主人公を拉致した首謀者は、第一の依頼のエピソードで登場した秘密組織のボスだったのだが、このボスは、「命売ります」という広告は罠で、主人公はおとり捜査官だと思い込んでいたのであった。結局、第一の依頼も第二の依頼もこのボスが仕組んだことで、主人公は泳がされていたに過ぎなかったことが明らかになる。この小説は、所々で三島のユーモアが感じられるのだが、ここにきて、話はマンガ的になる。

主人公は、偽の時限爆弾ではったりをかまして、秘密組織のアジトからなんとか逃げ出し交番に駆け込む。半泣きで保護を訴えるのだが、住所不定の不審者でしかない彼の荒唐無稽な話は信用してもらえない。刑事からは命を売る奴はただの人間の屑だと突き放され、追い出される。これで彼もようやく絶望することができるのではないか。

 

この小説は、日常生活に倦んでしまった凡庸な人間がアナーキーな遍歴の末に最後はすべてを失い真の絶望を味わうというパンクな話だった。人間は、たとえ何らかの組織に属さなくとも人間社会というシステムからは逃れることはできないわけで、そこを拒絶してしまえば自滅するしかないのは自明のことである。結局のところ、「命売ります」という主人公は、単に愚かなだけだったということになる。凡庸な人間が「ゴキブリの生活」を全うすることの難しさと有り難みをもっと知るべきであろう。失って初めて分かる平凡な日常の有り難み。この小説を読んで、現憲法下に生まれて良かったという思いを新たにした。

解説の種村季弘は、このような小説にこそ、「こっそり本音を漏らしていたのではなかろうか」と考察している。そこまで深い小説かどうかは知らないが、小説の面白さを知り尽くした三島由紀夫の極上のエンタメ小説であることは間違いない。

星新一のこの名言を思い出した。

 命短し襷に長し

 

 

 

 

 

命売ります (ちくま文庫)

命売ります (ちくま文庫)