森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

幕末を暗く彩った暗殺者たち~司馬遼太郎の『幕末』を読む

1月の読書録05ーーーーーーー

 幕末

 司馬遼太郎

 文春文庫(2001/09/10:1977:1963)

 ★★★☆

────────────────────

 

新装版 幕末 (文春文庫)

 

本書の「あとがき」の冒頭には、「暗殺者だけは、きらいだ」とある。その司馬が幕末の暗殺者たちを描いたのが、この連作短編集である。司馬による暗殺者の定義は、「何等かの暗示、または警告を発せず、突如襲撃し、または偽計を用いて他人を殺害する者」ということになる。司馬はそのような暗殺者を「人間のかざかみにもおけぬ」という。

この短編集が単行本として刊行された1963年というと、司馬が『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』を連載していた時期と重なる。本書には坂本龍馬土方歳三のような「幕末」のメインキャラにはなり得ない連中が次々と登場する。ここで取り上げられた暗殺事件のほとんどは歴史の「奇形的産物」に過ぎない。しかしながら、これもまた「幕末」の一側面なのである。その中でただ一つ、例外的に「歴史を躍進させた」暗殺事件がある。それが冒頭を飾る「桜田門外の変」である。 (丸数字は本書の目次順)

 

 

桜田門外の変

安政7年(1860)3月3日の江戸城桜田門外における水戸脱藩士17名と薩摩脱藩士1名による井伊直弼暗殺事件を、薩摩藩から唯一人参加した有村治左衛門兼清を主人公にして、安政6年の秋から決行当日までを描いている。有村は井伊直弼の首級をうばったが、重傷に耐えかねて自害した。享年23。

 

この桜田門外の変から幕府の崩壊がはじまるのだが、その史的意義を説くのが本篇の目的ではない。ただ、暗殺という政治行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外の変からはじまる。斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最精鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬りこまれて惨敗したことによって、倒幕の推進者を躍動させ、そのエネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない。

 

司馬にいわせると、その後の暗殺事件は、「すべてこれに影響された亜流」であり、「暗殺者の質も低下した」ということになる。

霊山歴史館の木村武仁氏によると、幕末の天誅事件は文久元年から慶応3年までの7年間で、

 文久元年~3年 (1861~63) 97件

 元治元年    (1864)      38件

 慶応元年~3年 (1865~67) 26件

合計161件であるらしい。

 

 

⑦ 土佐の夜寒

 文久2年(1862)4月8日の土佐藩参政吉田東洋暗殺事件が、当時吉田の配下だった下横目岩崎弥太郎の視点で描かれている。事件の首謀者は土佐勤王党武市半平太で、実行犯は那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助。

この事件が他の佐幕開国派に対する尊王攘夷派による暗殺事件と異なる点は、土佐藩の山内系の上士に対する長宗我部系の下士の積年の恨みという複雑な内部事情もからんでいる点であろう。吉田氏は長宗我部元親に仕えたが、土佐在郷の名家ゆえに上士に迎えられた家系である。岩崎家は郷士が落ちぶれた地下浪人だったが、もともとは安芸氏に仕えていたので、長宗我部侍ほど山内氏に対する憎悪はなかったのかもしれない。

吉田東洋は有能だが癇癖の強い性格だったというし、改革派の常として保守派からは敵視されていたので、幕末の動乱期でなくても、いずれ失脚するか、暗殺されるような人物だったように思う。享年47。当時29歳だった岩崎弥太郎は、同僚の井上佐一郎とともに下手人探索を命ぜられ大坂へ向かうが、単身帰国後、小役人に嫌気がさして士籍を脱している。井上は岡田以蔵らによって暗殺された。ここで命を無駄にしなかった岩崎は後に三菱財閥を築き上げることになるのだから面白い。

この事件の直前、3月24日に坂本龍馬土佐藩を脱藩したのだが、那須信吾は父親の俊平とともに伊予との国境まで道案内をしている。土佐では龍馬が吉田を暗殺したという噂が流れたという話もある。那須信吾は事件直後土佐を脱出し潜伏、翌年の天誅組の変に参加し戦死。享年35。かなりの大男だったらしい。那須信吾の甥の田中顕助(のちの光顕)や吉田東洋の義理の甥の後藤象二郎も脇役で登場。

 

 

② 奇妙なり八郎

文久3年(1863)4月13日の幕府刺客佐々木唯三郎らによる清河八郎暗殺事件。清河八郎庄内藩出身の倒幕・尊王攘夷の志士。清河八郎が果たした歴史的役割は、浪士組を結成し、新選組と新徴組への流れを作ったことになるか。有能なアジテーターだったが、背景を持たなかったことが彼の不幸だった。己の才気だけを頼りに天下に事を成そうとしたが、自信家過ぎたのか、「策士策におぼれる」の典型だったという印象。享年34。

佐々木唯三郎(只三郎)は、その後、京都見廻組隊士になる。慶応3年(1867)の近江屋事件の刺客の一人(襲撃犯ではない)と目されている。慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いで重傷を負い、紀三井寺で死去。享年36。

 

 

④ 猿ヶ辻の血闘

文久3年(1863)5月20日の禁裏御所朔平門外の猿ヶ辻における姉小路公知暗殺事件。当時の禁裏御所は、今の京都御所とは形状が異なるので、猿ヶ辻も現在の猿ヶ辻とは位置が異なる。姉小路公知は攘夷急進派公卿の大物だったが、前月に大坂湾防備の視察に摂州にくだった際に、幕府軍艦順動丸上で勝海舟から攘夷の無謀を説かれて、開国派に変節したと疑われたという。享年25。

暗殺現場には鞘が落ちていたのだが、それを土佐脱藩士那須信吾が薩摩藩田中新兵衛のものだと証言したことから、田中新兵衛が捕縛された。田中新兵衛は、島田左近や本間精一郎、宇郷玄蕃を斬殺したというテロリストである。ところが、この新兵衛は黙秘したまま取り調べ中に自害してしまい真相は闇の中に埋もれてしまった。享年32。

司馬は、この事件を会津藩密偵大庭恭平を首謀者として小説に仕上げた。大庭恭平は、この年の2月に起きた「足利三代木像梟首事件」に連座して信濃上田藩に流罪となったのだが、そこから抜け出して暗躍したという筋立てである。小説では大庭は事件の翌日自害したことになっているが、現実の大庭は明治35年まで長生きしている。享年73。この事実との齟齬は、小説であることを強調するためのものだと思われる。

この事件の結果、京における勢力争いで、公武合体派の薩摩藩が後退して、尊王攘夷に藩論を転換させた長州藩が浮上したことになるが、司馬は、長州系公卿を薩摩藩士が暗殺したと見せかけて、長州の勢いを削ぐとともに、もともと仲の良くない薩長の関係を致命的に悪化させて、さらに、薩摩藩の勢いも削ごうという幕府側の陰謀という見方をしている。長州が勢いを得たのは誤算だったということになるか。

当時、長州藩にかくまわれていた土佐脱藩士那須信吾が証言していることや、この事件が起きたのが長州藩による攘夷決行の最中であったことも気になるが、真相はやはり闇の中と言うよりない。

 

 

⑤ 冷泉斬り

元治元年(1864)5月5日、大和国丹波市の鍵屋ノ辻(荒木又右衛門で有名な鍵屋ノ辻とは別)において絵師冷泉為恭(れいぜいためたか/ためちか)が殺害された天誅事件。実行犯は、長州浪士大楽源太郎、神山進一郎、天岡忠蔵の3人。

この小説の主人公は長州浪士間崎馬之助になっているが、どうやら架空の人物のようである。新選組隊士米田鎌次郎も架空の人物で、大石鍬次郎をモデルにしたものと思われる。この二人が対峙する場面と、間崎が米田を斬る場面が良い。

冷泉為恭は宮廷に仕える絵師だが、京都所司代にも出入りしていたことから、尊王攘夷派の機密を漏らしているのではないかとの疑いをかけられ命を狙われる羽目になる。命の危険を察した為恭は逃げまくるが、執拗な追跡から逃れきれなかった。享年42。一度狙ったターゲットは仕留めるまで諦めないというテロリストの特質をよく表現している。

為恭を多くの尊王攘夷派浪士が付け狙ったのは、他藩の浪士に出し抜かれたくないというだけの事であり、くだらない話である。司馬が、架空の人物を登場させてまで、この小者を狙った三流浪士どもの狂騒的な天誅さわぎを描いた真意は、作中チョイ役で登場する坂本龍馬の「天誅さわぎなどは、愚劣すぎる」という言葉に尽きるだろう。

 

 

⑧ 逃げの小五郎

元治元年(1864)夏、但馬出石藩の槍術師範役堀田半左衛門は、領内で不審な男を二度見かける。三度目に城崎の宿でその男と出遭ったとき、彼が長州人であると確信する。その男こそ蛤御門の変後の幕府による厳しい残党狩りから逃れてきた桂小五郎(のちの木戸孝允)であった。「剣でめしの食える男」と言われながらも、剣を抜くこともなく、逃げて逃げて逃げまくった桂小五郎が出石に潜伏し帰藩するまでの動向を描いた異色作。

蛤御門の変での小五郎の動向も描かれていて、幾松も登場する。蛤御門の変後姿を消した小五郎の生存を信じる幾松が、京の焼け跡を何日も探し回り、ようやく乞食に扮した小五郎を見つけ出したときの二人のやり取りが印象に残る。殺伐とした話が多い本短編集の中で、小五郎と幾松のエピソードにはホッとさせられる。

斎藤弥九郎の道場・練兵館の道場訓「兵は兇器なれば一生用ふることなきは大幸といふべし」も小五郎の行動原理として紹介されていて、暗殺者たちへの批判になっているように思われる。

面白いのは、この短編で言及されている長州人気質である。「長州怜悧にして油断ならず」、しかも、「頑固で妥協を知らない厄介な」気質をもっているのだそうな。あの男もそうであるな。

 

 

⑨ 死んでも死なぬ

元治元年(1864)9月25日、山口讃井町袖解橋付近で井上聞多(のちの馨)が刺客に襲われ瀕死の重傷を負った「袖解橋の変」を取り上げた一編で、伊藤俊輔(のちの博文)の視点で井上聞多を描いている。

話は、文久2年(1862)12月12日の高杉晋作久坂玄瑞らによる英国公使館焼き討ち事件の前夜から始まる。伊藤俊輔は百姓の出で上士階級の高杉、久坂、井上とは身分が違うのだが、井上だけは伊藤と友達づきあいをした。第二級の似たもの同士でウマが合ったのだろう。井上は松下村塾出身ではないし、高杉、久坂、伊藤よりも年長である。

文久3年(1863)井上と伊藤は、長州藩の秘密留学団に加わり英国へ密航、国力の違いを実感し攘夷論から開国論に転じる。長州藩の攘夷決行を知り、急遽帰国することに決めた二人の英国滞在は半年ほどだった。

元治元年(1864)6月に横浜に密入国して戻った二人の藩論転換運動は実を結ばず、8月の四カ国連合艦隊馬関砲撃となる。幕府からは長州征伐の軍令がくだされ、窮地に陥った長州藩内は俗論党が台頭し、高杉らの強硬論と対立する。幕府に対し、恭順か、武装恭順かを決める最後の御前会議が山口の藩庁で開かれたのが、9月25日である。その場で熱弁をふるった井上聞多は、藩論を武装恭順に導くことに成功する。井上が襲われたのはその夜、藩庁を退出し帰宅する途中のことであった。

襲ったのは、俗論党の椋梨藤太次男中井栄次郎他数名である。その中の一人だった児玉愛次郎は、明治になってから井上聞多に引き立てられて官途に就いたのだが、30年以上経って犯行を告白、井上に謝罪したという逸話がある。主犯の中井栄次郎は、翌年別の暗殺事件の犯人の一人として刑死。享年23。死んでも死ななかった井上聞多は大正4年まで長生きした。享年80。

司馬はこの短編で、明治になってから「貪官汚吏(たんかんおり)の巨魁として悪名をのこした」井上馨を「袖解橋で死ぬべきであったかもしれない」と酷評しているが、『世に棲む日日』(1971)では肯定的な評価をしている。公私の区別がつかない人ではあったらしい。この短編は、『世に棲む日日』と重なるエピソードが多いので、久しぶりに『世に棲む日日』を読み返したくなった。『世に棲む日日』にも「長州怜悧」という言葉が出てきたのを思い出した。

 

 

⑪ 浪華城焼打

吉田東洋暗殺事件を取り上げた「土佐の夜雨」ではチョイ役で登場した那須信吾の甥の田中顕助は、元治元年(1864)仲間とともに脱藩し、長州へ走った。が、長州は幕府から長州征伐の軍令がくだされ窮地に陥った最中で頼ることが出来ない。そこで、起死回生のため浪華城焼打を計画し、9月に大坂に潜伏する。この時、田中顕助22歳。この計画に参加したのは土佐勤王党の残党と京都浪士で大坂松屋町筋でぜんざい屋に身をやつしている本多大内蔵で、謀主には蛤御門の変では「忠勇隊」に属して奮戦した大利鼎吉が選ばれた。

ところが、この計画は、新選組大坂屯所隊長谷万太郎に情報が漏れてしまう。元治2年1月、谷万太郎らが本多のぜんざい屋を襲撃したのが、「ぜんざい屋事件」である。この時ぜんざい屋にいたのは、本多とその母と妻、大利の四人だけであった。本多は逃亡、討ち取られたのは大利鼎吉だけである。享年24。谷万太郎は明治19年まで生きた。享年51。

この事件の前に、千屋金策、井原応輔、島浪間の三人は、同志を募るために山陰方面へ遊説に出かけている。この三人とたまたま同道した備前浪士山中嘉太郎の四人は、作州津山藩領吉岡村百々で、金策に訪れた造り酒屋の主人に侮辱されたあげく強盗として訴えられ、村人たちからリンチに遭い無念の死を遂げた。四人の死後、村人たちは遺体に陵辱の限りを尽くしたが、遺書などから冤罪が判明したという。なんとも後味の悪い事件である。

小説では、大坂にオンナができた田中顕助は米の飯の誘惑もあって、この山陰遊説に同行せず命拾いしたことになっている。ぜんざい屋事件の時もその場に居合わせなかった顕助は、大和十津川の山中にのがれ、7月になって土佐浪士の指導者中岡慎太郎を頼って、京へ潜入した。死なない奴は死なないようにできているということか。

 

土佐藩は支配層が佐幕だったから、勤王運動をしている土佐人に対して冷酷で、京都でも新選組に斬られる者は多くは土佐人であった。斬られても藩が何の故障もいいたてないから、幕府方は遠慮なしにやった。幕末、もっとも多く血を流した集団の一つは土佐人であったが、藩としての行動ではなかったために、維新政府は薩長に独占された。

 

 

祇園囃子

慶応3年(1867)6月祇園祭宵山の宵に水戸藩京都警衛指揮役住谷寅之介が鴨川東岸松原河原で土佐藩士山本旗郎らによって暗殺された事件を大和十津川郷士浦啓輔の視点で描いている。この浦啓輔は架空の人物であるようだが、幕末期における十津川郷士を描きたかったのかもしれない。

住谷寅之介は第二の藤田東湖といわれ、水戸藩尊王攘夷思想の中心的存在だったが、公武合体を容認していたので勤王派の志士から命を狙われた。享年50。この事件には後日談があって、明治3年(1870)2月24日、神田筋違見付で住谷寅之介の長男と次男が山本旗郎を追いつめ、仇討ちを果たしている。

 

 

花屋町の襲撃

慶応3年(1867)11月15日、坂本龍馬中岡慎太郎が近江屋で暗殺された。海援隊副長格の陸奥陽之助(のちの宗光)は、白川村の陸援隊本部に走り、陸援隊隊士らとともに復仇を企てる。紀州藩出身の浪士である陸奥自身は文官で人を斬ったことがないが、大将として指揮をとる。陸奥らは実行犯を新選組だとみていた。この強敵を相手にするために剣客を探す。一人は、十津川郷士中井庄五郎。一人は、元宇和島藩士後家鞘の彦六(のちの土居通夫)。両名は坂本龍馬とは深い関係ではなかったが慕っており、参加を即決する。

討ち入りの準備が進行する中で、事件の張本人が紀州藩用人三浦休太郎だと判明する。この年の春、海援隊蒸気船いろは丸(160㌧)が、讃岐箱崎沖合で、紀州藩藩船明光丸(887㌧)にぶつけられ沈没するという事故があった。非は紀州藩の方にあり、坂本龍馬は多額の賠償金を紀州藩に要求して、談判が成立したのが一ヶ月前のことである。紀州藩はその事を逆恨みしたに違いない。

12月7日夜、海援隊士・陸援隊士ら16名が、油小路花屋町南の天満屋二階で酒宴をしていた三浦と新選組隊士を襲撃する。これが「天満屋事件」である。この時、陸奥陽之助24歳。襲撃側は中井庄五郎が死亡。享年21。新選組側は近藤勇の従弟宮川信吉が死亡。享年25。三浦は軽傷を負っただけだった。

土居通夫が天満屋襲撃に参加した歴史的事実はない。これは飽くまで歴史上の事件に基づいたフィクションである。危険を察した三浦は新選組に護衛を頼んだようだが、そのため尚更疑いが深められたのだろう。近江屋事件の実行犯は京都見廻組の可能性が高いが、黒幕がいたかどうかは不明である。中岡慎太郎を頼って陸援隊隊士になった田中顕助は自重して襲撃に参加していない。

事件から二日後、王政復古の大号令が下った。

 

 

⑫ 最後の攘夷志士

中岡慎太郎亡き後、田中顕助が陸援隊隊長代理になった。この時、田中顕助25歳。そして、王政復古の大号令、倒幕である。司馬は云う。

「顕助、運がよすぎる」

顕助は大久保一蔵(のちの利通)からの要請で陸援隊残党を中心とした義軍を率い、高野山上から紀州藩を牽制する役割を担う。そこへ軍師として招かれたのが、天誅組の生き残り市川精一郎こと三枝蓊(さえぐさしげる)である。この頃の薩長はすでに攘夷を倒幕の道具として使っているだけで、顕助のような攘夷志士にも思想性はなかったのだが、三枝のような国学系の攘夷志士は別で、純粋に攘夷主義者なのだ。いつの時代にもこういう自国至上主義者はいるものだが、彼らは宗教的で頑迷なだけに厄介である。三枝蓊、目が据わっている。

顕助らの高野山義軍は、鳥羽・伏見の戦いの間紀州藩を牽制し、潰走した幕府側の敗残兵と一戦を交えた後、京に戻り解散し朝廷御親兵となる。 朝廷が攘夷を捨て外交をすることが明らかになると、失望した純粋攘夷主義者たちは暴発し、堺事件などの外国人襲撃事件が発生する。

慶応4年(1868)2月30日、三枝蓊は同志の朱雀操とともに、明治天皇に謁見するために宿舎の知恩院から御所に向かう英国公使ハリー・パークス一行に斬り込んだ。朱雀は、後藤象二郎に斬られて死亡後、斬首。三枝は重傷を負い捕縛された後、斬首。享年29。二人は士籍を削られ、平民に身分を落とされ、罪人として梟首された。

ほんの数カ月前なら、かれらは烈士であり、その行為は天誅としてたたえられ、死後は、叙勲の栄があっただろう。

かれらは、その「攘夷」のかどで攘夷党の旧同志によって処刑され、ついに永遠の罪名を着た。

 

イデオロギーというのは、そういうものであるし、時代の相転移というのは、そういうものである。

死者を祀るのも、死者の名誉を奪うのも、生者の側の都合に過ぎず、死者には関係のないことである。

 

田中顕助(のちの光顕)は、昭和14年まで生きる。享年97。

才質さほどでもなく、維新の志士のなかでは三流に近かったが、一流はほとんど死に、顕助、ただ奇蹟的な長寿を得たために多くの栄誉をうけた。

 長生きの術やいかにと人問はば

   殺されざりしためと答へむ

私は、井上聞多や田中顕助のような二流の生き方が好きである。

 

 

彰義隊胸算用

慶応4年(1868)2月12日、徳川慶喜江戸城を去り、上野寛永寺の大慈院に蟄居恭順となったが、これに不満を持つ抗戦派の幕臣を中心に彰義隊が結成された。この彰義隊の顛末を寺沢新太郎(寺澤正明)の視点で描いている。寺沢は八番隊長で後に《幕末秘録》という回想録を出した人。

彰義隊結成当初の頭取は渋沢栄一の従兄渋沢成一郎、副頭取は天野八郎だったが、二人はそりが合わず分裂、天野派による渋沢暗殺未遂事件が発生、渋沢は彰義隊を離脱し別組織「振武軍」を結成する。小者のお山の大将が集まった組織というのは派閥ができて内部抗争が起こり分裂するものである。

5月15日、新政府軍に攻め込まれた上野彰義隊は惨敗を喫し壊滅した。戦わずに逃げ出した者も多かったようだ。寄せ集めの軍隊であるし、戦力が違いすぎるのだから仕方あるまい。寺沢新太郎他逃亡兵の一部は榎本武揚の艦隊に逃れ、函館へ転戦する。渋沢成一郎も函館まで逃げ込んでいる。函館では、彰義隊の残党と振武軍の残党で渋沢を隊長に彰義隊が再編成されたのだが、松前藩の居城福山城を攻撃した際に、渋沢が金蔵に駆け込んで、一番乗りを逃したことから、又しても、渋沢派と反渋沢派に分裂する。もともと武家ではない渋沢は乱世を金儲けの場と楽しんでいた節がある。面白い人だ。

天野八郎は、7月13日、捕縛され、11月8日牢死。享年38。渋沢成一郎は喜作と名を改め、大正元年まで生きた。享年75。

 

 

 

 

新装版 幕末 (文春文庫)

新装版 幕末 (文春文庫)

 

 

 

 

 

 

うつ人もうたるる人もあぢきなき

おなじ御国の人と思へば

勝海舟