森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

藤野可織の『爪と目』を読んでみた~見て見ぬふりをしたくなること

2月の読書録03ーーーーーーー

 爪と目

 藤野可織

 新潮文庫(2016/01/01:2013)

 ★★★☆

────────────────────

 

爪と目 (新潮文庫)

「あんたもちょっと目をつぶってみればいいんだ。かんたんなことさ。どんなひどいことも、すぐに消え失せるから。見えなければないのといっしょだからね、少なくとも自分にとっては」

 

 

この小説は、三才の女の子の「わたし」が、母親の死後同居することになった父親の不倫相手に「あなた」と呼びかけ、「あなた」と「わたし」について物語るという形式になっている。「爪」と「目」は、「わたし」と「あなた」のことを象徴している。

 

母親は、寒い日にベランダで死体となって発見された。ベランダの鍵はかかっていて、部屋には「わたし」だけがいた。はっきりとは書かれてはいないが、何が起きたのかはだいたい想像できる。事故といえば事故だが、母親は生きる気力をすでに失っていたのかもしれない。

 

母親の死は「わたし」の心を傷つけたのだろう。以後「わたし」はベランダに通じるリビングルームに近づくことができなくなり、それは引っ越ししても変わらなかった。それに爪を噛む癖がついてしまった。

 

三才の女の子の「わたし」が語る「あなた」の人生は詳細で三才の女の子が知り得ない内容も含まれている。また、「わたし」の行動は客観的に語られ、「わたし」の内面が語られることはない。

 

そうしたことから、実際には三才の女の子が語っているわけではないことが分かり、小説の終わりの方で「わたし」が既に大人になっていることが明らかにされる。「わたし」は「あなた」に実際に語りかけているわけではない。大人になった「わたし」が、後に知った情報を補足し、空白を空想で補い、三才の頃の出来事を再構成し、「あなた」を眺めながら、心の中で「あなた」に語りかけているのだろう。

 

「わたし」が語る「あなた」の物語の中心となるのが「あなた」の目のことである。「あなた」は裸眼では視力が0.1もなく、コンタクトレンズを付けないと人の顔がぼんやりとしか認識できない。そもそも「あなた」が「わたし」の父親と出会ったのも眼科だった。「あなた」は、しきりに目薬をさす。

 

世の中には感受性が強くて心が傷つきやすい人もいれば、他人から何を言われても動じない図太い人もいる。自分の言動が他人を傷つけていることに全く鈍感な人もいれば、人を傷つけないように気配りを怠らない人もいる。

 

感受性が強い人にも鈍感な部分はあるし、鈍感な人にも傷つきやすい部分はある。自分は傷つきやすいのに他人を平気で傷つける人もいるし、心が強くて気配りもできるという人もまれにはいる。

 

だいたいの人はおおむね図太く鈍感にできていて、自己の敏感な部分をなるべく見ないようにして生きている。「あなた」はそういう一般的な人間であり、だから「あなた」なのだ。

 

父親もまた同様に図太く鈍感な人間である。そもそも鈍感でなければ不倫など出来ない。しかし、彼は妻の死後「あなた」とセックスしようとしても肝心のモノが役に立たなくなってしまう。つまり、彼の心にも敏感な部分があるということになるが、彼は別の女性となら支障なくできるので、またしても浮気をする。彼は自己の敏感な部分を直視しない。彼は「あなた」の浮気にも気がつかない。彼は自己を中心とした単純な世界に安住している。

 

母親は夫の不倫に気づいていたのだろう。そして、気がつかないことにすることにしたのだろう。彼女は自分の心を守るために日常生活を彩り、それをブログに記録することに生きがいを見出そうとした。だが結局は、見て見ぬふりをするには彼女の感受性は強すぎて、夫の不倫を咎めるには心優しすぎたのだろう。

 

「あなた」は、ネットの世界で母親のブログを見つけ、それを参考に日常生活を彩り始める。「あなた」は鈍感だから、それが死んだ前妻のブログだと知っても何とも思わない。「あなた」は、自己を中心とした単純な世界で気楽に生きている。

 

一般に、大人よりも子供の方が感受性が強いだろう。子供の心は無防備なものである。三才の女の子である「わたし」には、「あなた」や父親のように鈍感に生きることはできない。だから、爪を噛み続けるしかないのだ。

 

冒頭の引用は、母親の遺品の本の架空の独裁国家を舞台にした幻想小説の中のセリフで、このセリフが書かれたページには小さな折り目が付けられていた。それを見つけた「あなた」はそのセリフを自分の言葉にして「わたし」に教える。「わたし」はだいぶあとになって、母親の本からそのセリフを見つける。

 

独裁者は、見ないことにかけては超一流の腕前を誇っていた。彼は、自分に起きたひどいことも、まったく見ないようにすることができた。彼は目をつぶり、すると肉体や精神の苦痛は消え失せた。わたしやあなたでは、こうはいかない。わたしもあなたも、結局はか弱い半端者だ。

 

この話がものすごく腑に落ちるのは、私の周りにも見ないことにかけては一流の人間がいるからで、それは私の母なのだが、母は自分にとって都合の悪いことや嫌なことを一切見ないようにすることができ、記憶から抹消することすらできるという特技を持っていて、それはもう、呆れるほどである。母は鈍感で無神経で空気をまったく読めなくて、自分の言動がどれだけ人を怒らせるかとか、どれだけ人を傷つけているかとか一切理解できない。ついでに、絶対に自分の非を認めないし、絶対に謝らない。私の母は首相になる素質があるのではないかと思う。

 

それはともかく、ある程度鈍感であることは、凡庸な人生を生きていく上で必要なことである。感受性が強すぎるとこの世は生きづらい。 人というのは、どうしても他者を傷つけてしまうものである。悪意を持って人を傷つけるのは論外だが、悪意が無くとも人を傷つけてしまうことは普通にある。それを気にし始めるとキリがないし、極論に走りかねない。かといって、まったく気にしないというわけにはいかない。結局のところ、多少のことで心が傷つかないように耐性をつける方が手っ取り早いということになる。そうして、人は図太くなっていくのだ。

 

しかしながら、心に耐性をつけるにしても限度というものがあるし、急所というものは耐性をつけられないから急所なのだ。目をつぶるだけで苦痛を消すことができるのは一種の才能である。だから、独裁者ではない凡庸な人間は、「結局はか弱い半端者」だと作者はいうのだろう。

 

この小説の最後の場面は、「あなた」の人生において、目を背けていた自己の敏感な部分を直視しなければならない時が来たことを暗示していて、語りかけている現在の「わたし」もまた同じだということを示唆している。過去と未来がガラス板となって体を腰からまっぷたつに切断するというイメージは、身を切るような苦痛を想像させる。そのとき、その苦痛に目を見開かずにはいなれなくなるのだ。見て見ぬふりをしたくなることというのは、本当は直視しなければならないことなのである。

 

 

それは分かっているのだが、私は母ほど鈍感の才能がないので、そういう場面に直面したら、逆ギレします。

 

 

同時収録の「しょう子さんが忘れていること」は、老人の性を扱った短編だが、しょう子さんにとってはホラーでしかない。「ちびっこ広場」は、少女の霊の呪いというありがちな都市伝説を信じてしまった息子のために母親が呪いに立ち向かうという短編。母は強し。

 

 

 

 

爪と目 (新潮文庫)

爪と目 (新潮文庫)