森の踏切番日記

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京極夏彦『鬼談』を読む~人であり人であらぬものの物語

読書録2018ーーーーーーーーー

鬼談

京極夏彦

角川文庫(2018/02/25:2015)

★★★★

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鬼談 (角川文庫)

 

だって私は人だから。

 

「見えないものは見ようとするな」

 

「全ての恐怖は、予感なのよ」

 

 

 

夏といえば京極夏彦、ということで、京極夏彦の『鬼談』を読んだ。本書は、『幽談』『冥談』『眩談』に続く「 」談シリーズ四作目である。もう一冊『旧談』というタイトルの本もあるが、これはコンセプトが異なるので別である。この「 」談シリーズは毎回楽しみにしているのだが、本書も期待に違わぬ佳作揃いの短編集である。今回は、各短編のタイトルに全て「鬼」の字が付いていて統一感がある。そのタイトルは、「鬼交」「鬼想」「鬼縁」「鬼情」「鬼慕」「鬼景」「鬼棲」「鬼気」「鬼神」であり、目次を見ただけで鬼気迫るものがある。

 

小松和彦先生の『妖怪文化入門』(角川ソフィア文庫)に収録されている「鬼」によると、鬼とは、

日本人が抱く「人間」の否定形、つまり反社会的・反道徳的「人間」として造形された概念・イメージ、ということになる。すなわち、「人間」という概念を成立させるために、「鬼」という概念がその反対概念として作り出されたのである。

のだそうだ。つまり、日本社会が形成されていく過程において、「人間らしさ」とは何であるかということに関して社会的合意がなされていく中で、その概念からはじき出された概念の集合体が人格を持った存在が「鬼」であると云えよう。それが、「怪力・勇猛・無慈悲・恐ろしい」という「鬼」の属性に集約されているわけである。

 

とは云え、「鬼」という生物がこの世に存在するわけでは、もちろんない。「鬼」もまた畢竟「人間」なのである。「人間」でありながら「人間」にあるまじき(と日本社会から見なされる)行為をなす「人間」が(日本社会から)「鬼」と呼ばれてきたのである。結局のところ、「鬼」とは人の心奥深くに潜んでいるものなのである。それが何かのきっかけで心の表層に現出し、人の心を支配し、人を人でありながら人であらぬものにしてしまうのである。人でありながら人であらぬものの行為は「人間」には理解できない。なぜ人を喰らうのか、なぜ肉親を殺めるのか、なぜ愛する人を裏切るのか、「まともな人間」には理解不能である。だから、「鬼」はコワいのである。

 

人は理解できないものに対して恐怖を覚える。暗闇を怖く思うのは何よりも視覚が奪われて周囲の状況を理解できないからである。人は合理的に説明がつかないことに対して恐怖を覚える。顔があるはずの無いところに顔が見えると思うからコワいのである。人は理由の無いものに対して恐怖を覚える。殺人事件に動機を求めるのは、「理由なき殺人」ほど反社会的な行為はないからである。だから、怪談に理由はいらない。

 

本書に収められた短編のうち、「鬼情」と「鬼慕」の二作品は上田秋成の『雨月物語』のリメイクである。前者は「青頭巾」が、後者は「吉備津の釜」が元になっており、両作品とも京極夏彦らしい現代的な解釈と趣向で新しい怪談に仕立て上げられていて、どちらも読ませる。「鬼交」は、鬼と交わるエロティックな話。「鬼想」は、濃厚なショートショート。「鬼縁」は、過去と現代の重層的な物語。「鬼景」は、何気ない日常が記憶のズレにより落とし穴に落ち込むように暗転する怪談。これはコワい。「鬼棲」の伯母は人魚の肉でも食べたのだろうか。この伯母と主人公との会話が興味深い。「鬼気」は、老いた母の認知症による父に対する暴力という現実的でやり切れない問題と夜道で後をつけてくる顔を半分隠した見知らぬ女の不気味さが交差し、ラストシーンで恐怖に突き落とされる佳作。「鬼神」は民話風。いずれも読み応えのある短編である。暑い夏の夜に背筋をゾクッとさせるのにピッタリの短編集であると云えよう。

 

 

 

 

鬼談 (角川文庫)

鬼談 (角川文庫)

 

 

 

 

 

 

本書の「鬼気」を読んでこの写真を思い出したw


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