森の踏切番日記

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小松和彦『鬼と日本人』を読む~鬼とはなにか?

読書録2018ーーーーーーーーー

鬼と日本人

小松和彦

角川ソフィア文庫(2018/07/25)

★★★★

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鬼と日本人 (角川ソフィア文庫)

 

まずは、鬼の字が入ったことわざや熟語を思いつくかぎり並べてみる。

  • 鬼の目にも涙
  • 鬼に金棒
  • 鬼も十八番茶も出花
  • 鬼が出るか蛇が出るか
  • 鬼が住むか蛇が住むか
  • 来年のことを言うと鬼が笑う
  • 鬼の霍乱
  • 鬼の居ぬ間に洗濯
  • 鬼の首を取ったよう
  • 疑心暗鬼を生ず
  • 心を鬼にする
  • 鬼畜
  • 鬼嫁
  • キックの鬼
  • 渡る世間は鬼ばかり

などなど…

(最後の方は少しふざけました)

妖怪の中では鬼ほど諺や熟語に使われているものは他にないだろう。それだけ鬼というのは日本人に慣れ親しんだ存在なのだ。現代の日本人は、鬼というと下の図のような姿を想像するだろう。

 


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特に角が生えていることが鬼である必要条件になっているようだ。鬼ヶ島に住んで桃太郎に退治されたり、地獄で亡者どもを責め立てたりするのが典型的な鬼の姿だ。こういった鬼の姿形は江戸時代に確立されたという。

「オニ」という言葉は『日本書紀』や『風土記』にも登場する古い言葉だが、元々は「オニ」というのは多様な姿形をした「化けもの」の総称であったようだ。たとえば、百鬼夜行で現れる「さまざまの怖ろしげなるかたち」をした者どもは、角があるものもないものも、動物に似た姿をした者どもも、道具類が化けものと化した者どもも皆「オニ」と呼ばれていたのだ。私たちがイメージする鬼は、そういった多様な姿形をした異形の鬼神どもの一種でしかなかったという。平安時代は鬼の全盛期でさまざまな鬼が跳梁跋扈していたそうだが、時代が下るにつれて鬼の姿形は画一化されていき、上の絵のような「オニ」だけが鬼と呼ばれるようになり、他の「オニ」たちは「化けもの」と呼ばれるようになったという。本書で扱われている鬼は、元のさまざまな姿形をした鬼も含まれていて、画一化された典型的な姿形の鬼だけではない。

 

「オニ」の語源としては、「おん(おぬ)」が訛ったものというのが定番だが、これは源順の『和名類聚鈔』による。元来は「隠れていて目に見えない神霊」という意味である。本来は見えない存在だから、それが見えたときには形が安定しないのだ。これには「隠」の字が当てられているが、和語なのでもちろん後付けで、意味の近い漢字が当てられたのだろう。平安時代にはすでに中国語で死霊を意味する「鬼」の字が当てられていた。「鬼籍に入る」の「鬼」は、この意味の「鬼」である。本書で扱われている鬼は、こういった語源的な意味での鬼ではない。著者に云わせれば、

日本の歴史をくぐり抜けてきた「鬼」の多様化した概念を適切に表現しているとはいえそうにない。

ということになる。

 

それでは、著者が定義する鬼とは何かと云うと、「人間がいだく人間の否定形、つまり反社会的・反道徳的人間」ということになる。鬼とは「人間の分身」なのだという。

このようにみると、鬼とは、実は人間という存在を規定するために造形されたものだということがわかってくる。日本人は、個としての人間の反対物として鬼を想定し、人間社会という概念を手に入れたわけである。このために、人々は人間社会の「外部」に棲むという鬼についての数多くのストーリーをつむぎ出してきたのだった。

鬼とはまず恐ろしい姿かたちをした、したがって忌避し排除すべき存在であった。しかしながら、人間にとって必要な存在であった。鬼がいなければ人間という概念が成り立たないからだ。それゆえに、人々は絶えず鬼を人間社会に登場させ、そして社会から排除したのだ。すなわち、日本人にとって招かざる客であるゆえに、招かざるをえない客であったということになる。日本人は鬼を必要とし、鬼とともに生きてきたのである。

 

つまり、日本人(ここでは主にヤマト民族)が日本人社会(村落共同体)を形成し、また、日本国という国家が形作られていく過程において、日本人社会(村落共同体)、あるいは、日本国を脅かす存在が鬼だというのだ。

鬼は大別すると、二つのグループに分けることができると思う。一つは自然の脅威の擬人化や百鬼夜行のような元来は目に見えない怖ろしげなるかたちをした鬼神たちである。これには、疫病神や雷神、地獄の獄卒などが含まれる。今一つが、反社会的・反道徳的人間が鬼と化した場合である。ただし、これは飽くまで日本人社会(村落共同体)、あるいは、日本国(朝廷)から見て、という意味であり、異民族や外敵、よそ者や被差別民、異形の者や障碍者も含まれる。鬼には陰陽道から派生した鬼もいるし、仏教から派生した鬼もいる。鬼は災いをもたらすが、福をもたらすこともある。鬼という概念は重層的な概念なのである。

 

本書は、こうした多様な鬼から、さまざまな鬼を取り上げ考察し鬼の正体に迫ろうとしている。ここでは、本書で取り上げられた話から印象に残ったことをいくつか紹介したいと思う。

牛若丸を主人公とする『天狗の内裏』では、鬼の大将が所持するという兵法書「虎の巻」が登場するが、なぜ、龍でも豹でも犬でもなく虎なのか、本論からは外れるが、興味深い謎だと思った。白川の印地打ちは五木寛之の『親鸞』を思い出した。いわゆる「河原者」と鬼の関係も興味深い。

本書を読んで最も印象に残ったのは、実は鬼のことではなくて、御伽草子の『一寸法師』における打ち出の小槌の正しい使用法についての話題だった。一寸法師は鬼から奪った打ち出の小槌で普通の人間の背丈になったのだが、他には「必要最小限の飯と金銀を出しただけ」だったそうだ。それが、打ち出の小槌の正しい使用法なのだそうだ。これは、おとぎ話によくある正直爺さんと欲張り爺さんの話と対応している。このタイプの話には、正直爺さんと欲張り爺さんが別々の人格ではなくて一人の人物である場合もある。つまり、善良な爺さんがその善行により神仏から富を得るが、欲張りすぎたために全てを失うというタイプの話である。正直爺さんと欲張り爺さんは一人の人物の時間的経過を表しているのだ。こちらの方がより人間の真を描いているように思われる。一寸法師は賢明な人物だったので、欲張ればどういう結果になるか分かっていたのだと著者は推測している。打てば何でも出てくるのが打ち出の小槌だが、本当に欲しいものだけを出すのが正しい打ち出の小槌の使い方なのである。欲張って打ち出の小槌を打ち続ければ、全てを失ってしまう。御伽草子は奥が深い。著者は、打ち出の小槌から出される富はどこから出てくるのか、その源泉を気にしているが、異界を含めて富の総量は決まっていると考えられるので、富の出所も限定されると思う。星新一ショートショートを思い出した。

中世後期以降、代表的な鬼といえば酒吞童子とされてきたが、王権説話として酒吞童子説話を読み解くことにより、中世後期に酒吞童子説話が果たした役割を明らかにした論考も考えさせられた。王権が衰微したときこそ、王権を賛美する物語が語られる。「宇治の宝蔵」という当時の人々のファンタジーも興味深いものがある。酒吞童子の首にも隠された意味がある。

他に、節分の鬼や雷神、ナマハゲ、蘇民将来の話などが取り上げられているが、鬼と人間の間に生まれた子どもに関する考察が興味をひいた。日本の昔話の話型の一つに「鬼の子小綱」というのがあって、鬼の男が人間の女に生ませた子どもは、右半身が鬼で左半身が人間になるのだそうだ。これは右半身が鬼と決まっているのだろうか。心臓は人間の心臓ということなのだろうか。

 


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鬼にはさまざまな側面があるが、「心の鬼」と呼ばれる、人の心に生じた邪念もまた鬼の正体の一つなのだから、人の心に闇がある限り、鬼は現在も生き続けていると云えるだろう。

ここで論理を飛躍させてみる。日本人社会は、その枠組みをはっきりさせるために常に外部としての鬼の存在を必要としていた。その鬼は内部からは排除されるべき存在である。鬼は退治されなければならない。それが日本人の心性の深層であるならば、そう簡単に変わることはないだろう。現代における「鬼」とは、反社会的・反道徳的人間である。そういった存在は日本人社会から排除しなければならない。「鬼」は退治されなければならない存在なのだ。日本人はこの150年ほどでかなり西洋化したとはいえ、キリスト教に基づいた西洋文化からの受け売りの取って付けたような人権論ごときで、日本人の心性の深層が簡単に変わるとは思われない。従って、日本国が死刑制度を近い将来廃止することはないだろう。

 

 

 

 

 

鬼と日本人 (角川ソフィア文庫)

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