漱石鏡子夫妻まとめ(1)
🐱吾輩はドラマはめったに見ないのだが、本日夜9時より始まるNHK土曜ドラマ『夏目漱石の妻』(全4回)はちょっと気になる。NHKのホームページをチェックしてみると、鏡子夫人が畳に寝転んで雑誌を読んでいる画像があり(事実)、笑った。鏡子夫人は朝寝坊の占い好き(これも事実)キャラで、漱石はツンデレキャラ(事実?)の設定らしい。漱石山房の書斎のセットもかなりリアルであり、本気度の高さがうかがえる。漱石の養父(金をせびりに来る)役の竹中直人の演技も見ものである。今回はちょっと見てみようかと思う。
🐱ドラマはドラマとして楽しむとして、今年は吾輩も漱石・子規関連の本を読書テーマの一つとして、いろいろ読んでいるので、この機会に少しまとめておこうかと思う。タイトルの猫の俳句は、熊本時代に、漱石が俳句の本を読んで笑っていたので、鏡子夫人が何がおかしいのか尋ねたところ、この句が面白いと見せたので、そんなの当たり前じゃないですかと返すと、だからお前は俳句が分からんのだと叱られたというドラマ原作『漱石の思い出』(夏目鏡子・松岡譲)にあるエピソードによる。はたしてドラマに出てくるかどうか。
🐱今回は熊本時代までの漱石鏡子夫妻関連の出来事を年表にまとめてみた。全て今までに読んだ本の受け売りである。
◾慶応3年(1867)2月9日(旧暦1月5日)夏目金之助誕生。翌年、塩原昌之助の養子となる。
◾明治9年(1876)塩原家に在籍のまま夏目家に戻る。(後に夏目家に復籍)
◾明治10年(1877)7月21日中根重一長女、鏡子(戸籍名キヨ)誕生。
◾明治28年(1895)4月、金之助、松山中学校の嘱託教員となる。(月給80円)
◽8月27日から10月19日まで、正岡子規が金之助の下宿に同居する。
◾12月28日、金之助、東京で中根鏡子と見合いし、婚約が成立する。(鏡子の父の中根重一は当時、貴族院書記官長。金之助の評判を色々調べたらしい)
※12月18日付、正岡子規あての夏目金之助の手紙を抜粋して紹介する。
結婚の事などは上京の上、実地に処理いたすつもりに御座候。
中根の事については写真で取極候事故、当人に逢た上でもし別人なら破談するまでの事とは兼てよりの決心、これは至当の事と存候。
見合い写真を信用していなかったらしい。
※鏡子と金之助の見合い写真
◾明治29年(1896)4月、金之助、熊本の第五高等学校講師となる。(7月、教授に昇格)
◾6月9日、金之助、自宅6畳の離れで、父とともに来た鏡子と結婚式を挙げる。(金之助29歳、鏡子18歳)
◾12月、夫婦で北九州旅行。
※『漱石先生ぞな、もし』(半藤一利:文春文庫)から結婚式の様子を引用する。
新婦についていった老女中が、仲人兼お酌人などと、万端ひとりでとりしきった。婆やと車夫が台所で働いたり、客になったりした。これに新婦の父の四人が、出席者の全部。[略]花嫁は振袖、花婿はフロックコートであったが、ほかはみんなふだん着。[略]式がすむと、あまりの暑さで、まず岳父が服を脱ぎ、漱石のかすりのゆかたを借り、やがて裸になった。とたんに花婿までが着物に着かえて肩ぬぎになる。[略]三三九度の盃は、一つ足りない二つ重ね。それも縁が欠けていたらしい[後略]
『道草』より
「それで三三九度をやったのかね」
「ええ。だから夫婦仲がこんなにがたぴしするんでしょう」
漱石がジミ婚を主張したらしい。翌日、漱石が子規に送った句が、
衣更へて京より嫁を貰ひけり
子規からの祝いの句が、
蓁蓁(しんしん)たる桃の若葉や君娶る
赤と白との団扇参らせんとぞ思ふ
漱石が新妻に言った言葉がこれである。
「俺は学者で勉強しなければならないのだから、お前なんかにかまってはいられない。それは承知していてもらいたい」
◾明治30年(1897)6月29日、金之助父直克没。(享年84歳 )
◾夏、東京滞在中に鏡子流産、鎌倉で静養。流産後、鏡子はヒステリーになり、金之助は悩まされている。
◾9月10日、金之助、単身帰任。
月に行く漱石妻を忘れたり
◾10月25日、鏡子、熊本に戻る。
◾12月末から正月初めにかけて、金之助は同僚の山川信次郎と小天温泉に旅行している。
温泉や水滑らかに去年の垢
※同年4月23日付、子規あての漱石の手紙を抜粋して紹介する。
単に希望を臚列(ろれつ)するならば教師をやめて単に文学的生活を送りたきなり。換言すれば文学三昧にて消光したきなり。
熊本時代の漱石には、テストの答案用紙を机から飛ばして、遠くに飛んだ順に高得点をつけたという有名な伝説がある。よほど教師生活にうんざりしていたのだろうか。
◾明治31年(1898)夏の初め、鏡子、自宅近くを流れる白川井川淵に投身自殺を図るも、投網漁に出ていた漁夫に救われる。悪阻(つわり)による発作と云われている。それ以来、金之助は夜寝るときには自分の手首と鏡子の手首を紐でつないで寝ることにしたらしい。金之助は熊本時代に四年間で六回ほど引っ越しをしているが、この時は、事件後すぐに転居している。
◾9月から11月まで、金之助は、鏡子の猛烈な悪阻とヒステリー症に悩まされる。
※その頃の漱石の句が、
病妻のねやに灯ともし暮るる秋
◾明治32年(1899)5月31日、長女筆子出生。
※その時の漱石の句が、
安々となまこの如き子を生めり
◾9月初め、金之助、山川信次郎と阿蘇山に登る。
灰に濡れて立つや薄と萩の中
行けど萩行けど薄の原広し
◾明治33年(1900)5月、金之助、英国留学を命ぜられる。7月、上京、中根家を妻子の寄寓先とする。9月8日、金之助、ドイツ汽船ブレーメン号で横浜を出帆。
🐱その後、漱石は二年数ヵ月間、英国で生活することになる。その間、鏡子にあてた手紙も面白いので紹介したいが、今日はここまでにしよう。🐥
名月や十三円の家に住む
菫程な小さき人に生れたし
※『夏目漱石青春の旅』(文春文庫)より
②が家賃13円の家(13円は高い)
④が鏡子が自殺未遂した家
⑤が筆子が生まれた家(下の写真)
📄追記
🙀タイトルの猫の俳句についてですが、正しくは
両方にひげがあるなり猫の恋
です。これは芭蕉と同時代の大阪の俳人・小西来山の句で近世俳句俳文集に収められています。(「大岡信ことば館」より)
ドラマ原作『漱石の思い出』では「ひげの」となっています。鏡子夫人はそのように記憶していたと思われます。この記事では鏡子夫人に合わせて「ひげの」としました。
ドラマ第1回では長谷川博己は正しく「ひげが」と言っていました。🐥
📄内坪井町の旧居
「熊本にいた間、私共が住んだ家の中で一番いい家」(鏡子夫人)
📄関連日記