漱石鏡子夫妻まとめ(5)
🐱土曜ドラマ[夏目漱石の妻]に合わせて、漱石鏡子夫妻についてまとめております。今回は、今夜の第2回の放送に合わせて、千駄木時代の夏目家について簡単にまとめておきましょう。
漱石の「黒歴史」
英国から帰国して、すっかり「前とは別人」になってしまった夏目金之助の「黒歴史」を前回に引き続き、長女・筆子の手記から引用しよう。
神経衰弱といえば、そのために父自身がどれ程悩み、家族全体がどれ程、脅かされ、苦しめられたか、それは計り知れないことでございました。
帰国後まもない事だったと思いますが、ある日、私は突然、父に書斎にすぐ来る様にいいつけられ、そして訳もなく私は正座させられて、父に睨みつけられました。その只ならぬ父の形相に怯えて、私は火をつけた様に泣き出してしまいました。
父は力まかせに私の額を押し飛ばします。私は引っくり返って、そのままの姿勢で[略]手足をばたばたさせて一層激しく泣きじゃくりました。
家中がひっそりと息をひそめ、母もお手伝いさんも救いには来てくれないのです。
当時、筆子は三、四歳である。確実にトラウマになるよね。実際、漱石の精神が落ち着いて穏やかになった後も、筆子と次女の恒子はビクビクしていたそうである。
こうした事は屢々ございました。父は余程神経的に参っていたのでしょう、私や妹のちょっとした仕草ーそれは本当にささいなことなのですがーが気に食わないからといっては、突然私達を書斎にとじ込めたり、ぶったりしたものでした。
鏡子は金之助がすっかり精神病になってしまったと生涯信じ込んでしまったようで、ドラマ原作の『漱石の思ひ出』もその線で書かれていることは注意が必要である。現在では漱石の神経衰弱は鬱病の発作だったとされているようである。
私達ばかりでなく、母も大方髪でも摑まれて引きずりまわされたのか、父の書斎から髪を振り乱して、目を泣きはらして出てくるのを、私はしばしば見かけたものでした。
この頃が、漱石の鬱病の最高潮に当たっていた、と筆子は書いている。
これは私にとってこの上ない不幸、同時に不孝なことでございました。
筆子は父・金之助のことを嫌っている訳でも憎んでいる訳でもない。彼女の手記からは父・金之助に対する懐かしさや思慕や敬愛が十分に伝わってくる。
筆子は娘の末利子に、
「お祖母ちゃま(鏡子のこと)が普通の女の人だったら早々と逃げ出すか、気が変になるか、自らの命を絶っていたことでしょうよ」
といつも語っていたそうである。当時の鏡子は、
漱石が病気であるなら、なおさら、私のほかには支えになれるものはいない。
その覚悟で安心してゆける
と心に決めていたのであった。鏡子は、少々のことではびくともしやしない女なのだ。
※この髭を長谷川博己が忠実に再現している。
千駄木の「猫」の家
◾明治36年(1903・36歳)1月24日金之助、東京帰着、家族の寄寓先である中根家の離れに落ち着く。
※現在の文京区向丘2の20の7にあたる。いわゆる「猫」の家。前住者は森鴎外。家賃は月25円。
◾4月、一高と帝大の講師となる。
◾7月初旬より、神経衰弱悪化。9月中旬頃まで妻子と別居。
◾10月末、三女栄子出生。
※この頃、再び神経衰弱を昂じている。気分転換のためか、水彩画や書を始めている。
◾明治37年(1904・37歳)2月、日露戦争勃発。
※漱石は戦争が始まると精神が不安定になるという説もある。
◾4月、明治大講師を兼任。
※英国帰りで帝大に勤めていることから世間からは、さぞかし高収入だろうと思われ、親族からは頼られ、その事も金之助を憂鬱にさせた。
😺夏の初め、生後まもない黒猫が夏目家にまぎれこみ、居着く。
※半藤末利子によると、鏡子は猫嫌いで、「端から図々しかった」その仔猫を初めの頃は追い出そうとしていたそうだが、漱石が、
「そんなに家に入ってくるなら、この家が気に入っているのだろうから、飼ってやればいいじゃないか」
と言ったことで追い出すことは止めたものの、悪戯が過ぎる仔猫を物差しでピシャリとひっぱたいたり、御飯を抜いたりしていたそうである。ところがある日、出入りの按摩師に、
「奥様、この猫は爪の先まで黒うございますから福猫でございますよ。お飼いになると家が繁盛いたします」
と言われて、仔猫に好待遇を与えることにしたそうだ。
※鏡子はもともとは占い好きではなかったが、漱石の鬱病最悪期に神仏にすがるようになったらしい。
※この頃、千駄木の夏目家を漱石の留守中に訪問した高浜虚子は鏡子夫人に次のように頼まれている。
「どういうものだかこの頃機嫌が悪くって困るのです。[略]あなたもヒマな時はチトどこかに引っ張り出してくれませんか」
律儀な虚子は漱石を芝居や能楽に無理矢理連れ出している。漱石は芝居は気に入らなかったようだが、能楽は気に入ったようだ。後には、漱石の好きな相撲を二人で見に行ったりしている。この事がきっかけで、二人は以前より親交を深めることになったのだ。
◾12月初旬、「吾輩は猫である」を書く。
※漱石は高浜虚子に勧められて「吾輩は猫である」の第一章にあたる部分を書き、虚子の指摘を受けて直しを入れた後、正岡子規門下の文章会(山会)で朗読され、好評を得た。
◾明治38年1月、「吾輩は猫である」を「ホトトギス」に発表、世評を高める。
※以後、漱石は精神を安定させていくのであった。高浜虚子の「漱石氏と私」から引用する。
漱石氏の機嫌が悪かったということは学校に対する不平が主なものであったろう。
「猫」を書きはじめて後の漱石氏の書斎にはにわかに明るい光がさし込んで来たような感じがした。漱石氏はいつも愉快な顔をして私を迎えた。
筆子の手記からも引用しよう。
こんな時代に、何の苦も無く、『吾輩は猫である』を父が書き続けていたのですから、私には、それが不思議でなりません。
恐らくああいう軽口をたたいて、勝手な熱を上げる事が、頭の中の殺伐としたモヤモヤを中和させるのに役立ったのかもしれませんが……。
※漱石は、「猫」の続編や他の小説を書いていくうちに、教師を辞めて創作に専念したいと強く思うようになる。そして、明治40年3月、ついに教師を辞めて、小説家としてやっていくことを決意するが、長くなるので今日はここまでにしよう。
恋猫や主人は心地例ならず 漱石
中村不折の挿絵
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