森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

大坂城防衛戦隊ロウニンジャー

『城塞』再読(4)

🐱今回は、大河ドラマ真田丸』第42回「味方」の復習を兼ねて、司馬遼太郎『城塞』中巻に合わせて、牢人五人衆について見ていこうと思います。

 


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明石全登(あかしてるずみ)

※明石氏は、もとは播磨国明石郡の国人で赤松氏に仕えていたが、その庶流が備前国へ流れ地侍になり、台頭した宇喜多氏に臣従した。

※全登は、永禄9年(1566)、保木城主・明石景親の子として生まれる。

※慶長4年(1599)、宇喜多氏で御家騒動が起こり、全登は宇喜多秀家の要請で宇喜多家の執政となる。(宇喜多家は五十七万四千石、明石家は三万三千石)

※『城塞』では、全登は秀吉に愛されて直参待遇をうけ、官位も授けられ、大名格として遇されたとしている。

※翌年の関ヶ原の戦いでは、福島正則らと激戦を展開したが、小早川秀秋の裏切りで西軍は敗走。宇喜多家は改易となり、秀家は八丈島に流される。キリシタンであった全登は、キリシタン仲間の黒田直之(筑前秋月・黒田如水の弟)に匿われる。

※慶長14年(1609)、直之が他界し、如水の子の長政が幕府の方針に従って領内にキリシタン禁教令を出すと、全登は秋月を出奔し、他のキリシタンを頼ったようである。

※『城塞』では、全登は奉教人(キリシタン)保護のため、大坂に潜伏している。司馬は、大坂は幕府の威令が届きにくいため奉教人が大坂に集まって来ていたとしている。洗礼名は「ジョアニー」としている。

大坂の陣の際には、すでに六十歳ほどであったが、豊臣家がキリシタンの自由信仰を約束したことで、キリシタン牢人二千人を率いて大坂入城、全登の母娘や司祭らも共に入城したという。入城一番乗りだったという説もある。

😽『真田丸』では、今のところ、お祈りしかしていないな。

 
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😽オフロスキー改めミサスキー

 

 

後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)

※永禄3年(1560)、播磨国姫路近郊の神東郡山田村に生まれる。後藤氏は黒田孝高(官兵衛)に仕えていたが、天正6年(1578)に一族追放にあい、仙石秀久に仕えることになる。天正14年(1586)から黒田長政に仕えたという。

天正15年(1587)12月、長岩城攻めで瀕死の重傷を負う。

※文禄元年(1592)、朝鮮出兵に従軍し、第二次晋州城攻防戦で一番乗りを果たす。

※慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで武功をあげ、長政が筑前五十二万石の大名になると、又兵衛も筑前大隈に一万六千石の領地を与えられる。

※慶長11年(1606)、一族とともに黒田家を出奔する。又兵衛は、もともと長政と折り合いが悪かったようで、いろいろ逸話が残されている。如水の死後、二人の対立が表面化したという。又兵衛は細川家に身を寄せたが、長政は、他家への奉公を禁じる「奉公構」で対抗し、又兵衛の士官の口を封じる。(長くなるので詳しいことは省略する)

※大坂方から誘いを受けたときには、すでに五十五歳だったが、大和で「寺侍などに武辺の道を教えたり」して糊口を凌いでいたという。司馬は、京や伊勢で物乞いをしていたこともあったとしている。そういえば、「乞食大将」という異名もあったな。

※『城塞』では、「総帥たるべき器量人」として描かれているが、位官を持っていないので総大将になれないとされる。知名度も人気も高く、秀頼も又兵衛を信頼している。

※いろいろ伝説が多いが長くなるので省略する。この辺りのエピソードはWikipediaが詳しい。

後藤基次 - Wikipedia

😽『真田丸』では、今のところ、哀川翔にしか見えないな。

 
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毛利勝永(もうりかつなが)

天正5年(1577)、森勝信の子として尾張国に生まれる。勝信は早くから秀吉に仕え、秀吉親衛隊の黄母衣七騎の一人であった。

天正15年(1587)、九州平定の功により、勝信は豊前国小倉城六万石を与えられ、勝永も一万石を拝領する。このとき秀吉は、「西国では名の通った毛利の方が都合がよかろう」という理由で、毛利姓を与えている。

関ヶ原の戦いでは迷うことなく西軍につき参戦。敗戦後改易となる。加藤清正に預けられたのち、土佐藩主となった山内一豊に預けられる。毛利父子とは旧知であった一豊は彼らに流罪人としては異例の厚遇を与えている。

※慶長16年(1611)、毛利勝信没。

※大坂方から誘いを受けたとき、勝永は後に残す妻子の運命を考えて迷ったという。そのとき勝永の妻は「私にも覚悟は出来ております」と言って背中を押したという。そこで勝永は山内家をうまいこと言いくるめて、嫡男勝家とともに大坂入城を果たしたという。山内家は勝永の妻や次男を捕縛して幕府に処断を仰ぐが、家康は「丈夫の志のある者なら、誰もがそうするだろう。勝永の妻子を罰してはならない」と命じたという。

※『城塞』での勝永は、「色黒く、大兵の人物で、一見海入道」のような壮漢である。大野修理の従兄弟にあたる家臣を大坂に常駐させ様子をうかがわせている。山内家当主の忠義とは衆道の関係であったという。家康は「豊前(勝永)が武略なり」と裁断している。勝永は秀頼の幼少時に遊び相手をしていて、勝永が拝謁したとき秀頼は、

「予はそのほうを覚えている」

と、喜んでいる。

😽『真田丸』では、今のところ、よくわからんな。 


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長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)

天正3年(1575)、長宗我部元親の四男として生まれる。

天正14年(1586)、長兄信親戦死。

天正16年(1588)、元親は溺愛していた盛親を世子に指名し、反対者を処刑。

※慶長4年(1599)3月、元親、三男親忠を幽閉。(次男親和は早逝している)

5月、元親没。盛親が家督を継ぐ。

※慶長5年(1600)、家中が安定しないうちに関ヶ原の戦いが始まり、成り行きで西軍に加担。毛利軍の後方に陣を敷いたが、毛利軍が動かなかったため、何もしないまま敗走。井伊直政を通じて家康に謝罪したが、姦臣にそそのかされて兄親忠を自害に追い込んだ事が家康の怒りを買い、二十二万二千石の所領を没収される。

※牢人となった盛親は、大岩祐夢と号して相国寺門前の柳ヶ厨子寺子屋の師匠となり、京都所司代板倉勝重の監視下に置かれる。

※御家再興を願いながら十四年雌伏したが、大坂方の誘いに応じる。板倉勝重を騙して安心させたその夜、甲冑に身を固め従者を従えて大坂に向けて出発すると、道々家臣が合流し、伏見では一千騎の軍団になったという。盛親の大坂入りを知った旧臣たちも続々と大坂城に入城し、牢人衆の中では最大の手勢を持っていたという。

※『城塞』では、関ヶ原の失敗が悔やまれてならない人物として描かれている。

😽『真田丸』では、戦嫌いで寂しがり屋のお茶目な長宗我部さんだが、実は大物なのだ。三谷幸喜も人が悪いな。


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真田信繁(さなだのぶしげ)

真田信繁は幼名を弁丸、元服して源次郎信繁、従五位下左衛門佐に任官し、入道号好白を称した。(前日の記事で紹介した書状にも「真好白」と署名がある)

※兄信之の回想によると、物事柔和にして険しい態度をとらず、無口で怒ることは少なかったという。

※文禄3年(1594)11月2日、兄信幸と同時に従五位下左衛門佐に叙任される。文禄の役のときの記録に信繁の身分は「馬廻」と記されている。つまり、秀吉の直参衆だったことになる。

※秀吉時代、信繁は馬廻として一万九千石を知行していた。因みに、昌幸は三万八千石、信幸は二万七千石だった。

(以上、丸島和洋『真田四代と信繁』より)

🐱真田幸村自身は、大名ではなかったが、直参で位官もあるので大名格とされる。(『城塞』では)五人の中では又兵衛だけが無位なのだ。これは、当時では重要なことだったと思われる(Wikipediaでは、又兵衛は従六位下となっていたが、他は五位以上であり、五位と六位の格差は大きいので同じことであると思う)。


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🐱真田信繁が幸村と自称した事実はないとされているが、『真田丸』で信繁が幸村と名乗った事を知った信之が、

「わしが捨てた幸の字を拾いおったか」

と、唸った場面は凄く良かったと思う。🐥

 

 

 

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