森の踏切番日記

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1564の劇を1616書いた人

10月の読書録06ーーーーーーー

 シェイクスピア 人生劇場の達人

 河合祥一郎

 中公新書(2016/06/25)

 1610-06★★★★

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🐱著者は、1960年、福井県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授(表象文化論)。角川文庫のシェイクスピアの新訳の他、角川文庫の『不思議の国のアリス』や角川つばさ文庫の『新訳・ドリトル先生アフリカへ行く』などの翻訳も手がけている。

🐱本書は、「シェイクスピアの生きた時代を振り返り、作品全体を通して浮かび上がる劇作家の姿に迫り、其の精神世界を明らかにすること」を目的としている。シェイクスピア入門書として申し分のない内容である

 

 
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William Shakespeare

 

 

🐱第1章から第3章は、シェイクスピアの人物像を、時代を追って概観している。

シェイクスピアの人となりがわかりにくい理由の一つは、時代背景に求められることがわかるだろう。

 
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シェイクスピアの生家

 

 

🐱シェイクスピアは1564年4月23日(洗礼記録は26日)、ストラトフォード・アポン・エイヴォン(ロンドン北西164㎞)に生まれ、1616年4月23日に他界し、25日に埋葬された。セルバンテスは1547年9月29日生まれで、1616年4月23日にマドリードで没している。徳川家康は天文11年12月26日生まれで、元和2年4月17日に没しているが、グレゴリオ暦に直すと、1543年1月31日生まれで、1616年6月1日没となる。ただし、グレゴリオ暦は1582年10月15日から実施されている。イギリスとスペインではグレゴリオ暦の導入時期が異なるらしく、必ずしもシェイクスピアセルバンテスが同じ日に死んだとは限らないらしい。

🐱司馬遼太郎も『城塞』で、この三人が同じ年に死んだことについて言及している。『ドン・キホーテ』第一部は1605年に、第二部は1615年、大坂夏の陣の年に出版されている。司馬は、ハムレットドン・キホーテと同様に、家康や淀殿も性格典型であるとしている。また、真田幸村後藤又兵衛は「ドン・キホーテ」的にならざるを得ず、秀頼は「ハムレット」的にならざるを得ないとしている。『ハムレット』の初演が1600年、関ヶ原の戦いの年である。

 


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🐱第4章「シェイクスピア・マジック」では、シェイクスピアの劇世界の魅力が紹介されている。

🐱まず、シェイクスピア劇には「二重の時間構造」があるという。時計が刻む時間(クロノス)とは別の主観的な時間(カイロス)の流れによって劇が進行するという。集中したり興奮したりすると主観的時間は早く過ぎるものである。シェイクスピアは観客を興奮させたい場面では、わざと時間を早く進めて観客の高揚感を煽っているということだ。

🐱シェイクスピア独特の劇世界を可能にしているのは、当時の劇場の構造にあるという。舞台には緞帳が無く、平土間は立ち見で観客は張り出し舞台の周りを取り囲むことになる(イギリスで緞帳が用いられるのは1660年から)。従って、大掛かりな舞台装置は使われず、場面転換がなかったのである。このような舞台の使い方は、狂言と同様であると著者は云う。

シェイクスピアの演劇は狂言に近く、西洋近代演劇には遠い。[略]シェイクスピアは近代劇ではないのだ。

シェイクスピアの作品で三一致の法則を厳格に守っているものはないということだ。

🐱従って、シェイクスピア劇では、テレポーテーションが可能である。「言葉一つで瞬時に場所を移動できる」のである。この点でも、シェイクスピアの舞台は狂言に似ていると、著者は云う。

🐱また、自由自在な場所設定が可能である。場合によっては同時に二つの場面をいっぺんに演じることもできる。

🐱『ハムレット』の有名な「生きるべきか死ぬべきか」の場面で原文では「ハムレット登場」とだけある。

ハムレットが独白しているのは、どこでもない場所であり、あえて言えば、ハムレットの脳内に観客が入り込む感じとでも言えよう。

🐱シェイクスピア劇のもう一つの特徴は、せりふの多くが韻文で書かれている点であるという。

シェイクスピアのせりふは、意味だけを伝えるのではなく、音の響きを楽しみながら朗唱すべきものなのだ。

要するに、シェイクスピアの魅力とは理屈を超えたおもしろさであり、頭で理解するのではなく、感じるものだと言ってよいだろう。リズムや音の響きを楽しむ世界なのである。

 
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※グローブ座の舞台

 

 

🐱第5章では喜劇世界を、第6章では悲劇世界を解説している。

シェイクスピアの悲劇の世界をハムレットのせりふを使って To be, or not to be(あれかこれか)とするなら、その喜劇の世界は To be and not to be(あれでもあり、これでもある)と規定できる。

🐱喜劇の底流には人文主義思想があるようだ。

「愚者は己が賢いと思うが、賢者は己が愚者だと知っているものだ」

🐱シェイクスピアはオクシモロン(撞着語法)を好んで用いている

「冗漫にして簡潔な一場。とても悲劇的なお笑い」

「これは熱い氷、黒い雪というようなものだ」

「そのとおりです。僕は今の僕ではありません(I am not what I am)」

悲劇においても、

「きれいは汚い、汚いはきれい」

🐱著者は、シェイクスピアが矛盾した表現を好むのは、「人間は矛盾した存在だという認識がある」からだという。

人間は理屈を超えた存在であり、矛盾の中にこそ人生の危うさやおもしろさがつまっているのだ。

こうした世界こそシェイクスピアの喜劇世界なのだそうだ。

🐱また、シェイクスピアの喜劇は、「笑いの背後に常に影が」あり、「影が明るさを支えている」という。そこには、人は死すべき存在であるという認識がある。だからこそ、よりよく生きようとするのであり、そのためには、己の愚かさを知らなければならないということなのだ。

🐱シェイクスピア悲劇の本質は「神に成り代わって運命を定めようという傲慢さ」(ヒューブリス)にあるという。以下四大悲劇について概観しているが、長くなるので省略する。『ロミオとジュリエット』が何故四大悲劇に加えられないのかというと、主人公たちにヒューブリスがないからだそうだ。

🐱ここで、新プラトン主義が出てくる。

プラトン主義の重要な考え方の一つに、人間というミクロコスモス(小宇宙)は、世界というマクロコスモス(大宇宙)と照応するという考え方がある。星の動きが人間の運勢と関係するとした占星術の発想はここからくる。

🐱一方では、そうした運勢を信じない新しい考え方をする人物たちも登場する。

人間には自由意志があって、自分の存在のあり方を決定できるとした考え方がそれである。

この考え方が、一歩進むとマキャヴェッリの『君子論』(1532)にいたる。著者は、イアーゴー(『オセロー』)やリチャード三世などの人物にマキャヴェッリ主義者の側面があるのは偶然ではないだろうとしている。

🐱人間という小世界とそれをとりまく大世界が呼応するとみなす新プラトン主義の考え方は、エリザベス朝演劇全般に「世界劇場」(テアトルム・ムンディ)と呼ばれる概念を浸透させたという。

世界はすべて一つの舞台。

男も女もみな役者にすぎぬ。

この発想には、「演じる「私」を客観視する視点が必要」だという。

🐱また、メタシアター(演劇についての演劇)の効果について言及している。

ハムレットが自分の人生を芝居に譬えた時点で、リチャード・バーベッジがハムレットを演じていることが忘れられ、ハムレットという人物が実在するかのように感じられて、『ハムレット』という芝居の虚構性が霧消するのだ。

※「劇の中に劇中劇が組み込まれたり、演じる意識が強く示されたりすることで、劇そのものの構造が登場人物の演技の意識に取り込まれる劇をメタシアターと呼ぶ」

「劇中に抱え込んだ演劇性が、劇そのものの構造をとっぱらうような劇をメタシアターというわけである」

🐱著者は、メタシアターの前提となるのが世界劇場の概念だという。

世界劇場の概念はつきつめると、芝居が終わる瞬間、つまり死へと思いを馳せることになる。人生を諦観するような視点は悲劇にこそふさわしいのだろう。

リア王のせりふ

人間、生まれるときに泣くのはな、

この大いなる阿呆の舞台に上がってしまったからなのだ。

 


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memento mori(死を思え)の概念を反映しているという。

 

 

🐱最終章は、シェイクスピアの哲学についてまとめられている。著者は、シェイクスピアを理解すると、ものの見方は一通りではないとわかるようになるという。

「万の心を持つシェイクスピア」(myriad-minded Shakespeare)と言われるが、それは多くの人の心に訴えかけるほど多様なものの見方が作品に籠められているという意味だ。シェイクスピア自身の本心は多くの仮面の背後に隠れて見えないと言われることもある。

🐱シェイクスピアの認識論を理解するためには、プラトンアリストテレスに依拠したシェイクスピア時代の伝統哲学を確認する必要があるという。また、ストア哲学が、シェイクスピアの世界観に大きな影響を与えているようだ。

私たちの日常はロゴス(理性)に支配されることが多いが、演劇は理性と対立する感性の世界においてその力を発揮する。そして、そこでもっとも重要となるのは想像力だろう。今日言うところの想像力ではなく、エリザベス朝時代の想像力だ──強くイメージした心像(ファマンタズマ)は、現実そのもののインパクトを持つのである。そして、時には、新たな現実そのものをも生み出す力さえ持っている。 

客観によって捉えられるのは《事実》だが、主観によって捉えられるのは《真実》だ。

心の目には真実が見える。

ストア派の努力は立派だが、コーディーリアの例が示すようにうまくコミュニケーションがとれないと独善に陥る危険がある。さまざまな人々の生きざまを描いてきたシェイクスピアだが、最後に到達したのは「信じる力」の大切さだった。

 

  

 

🐱全体的に興味深い内容だったが、特に第4章から第6章までは大変参考になった。観劇の習慣は無いのだが、劇場に足を運んで見ようかという気にすらなった。やはり、芸術は本物を直に見ないと駄目だな。シェイクスピアは全作品を読んではいないし、もちろん、原典を読んだこともないが、『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』などは再読して見ようかと思った。未読作品も読んでみたい。読んだ中では『夏の夜の夢』と『リチャード三世』が好きである。🐥