6月の読書録からーーーーーーー
正岡子規 言葉と生きる
岩波新書(2010/12/17)
1606-08★★★☆
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幕末に生まれた子規は明治という時代と共に成長した。彼は俳句・短歌・文章という三つの面で文学上の革新を起こし、後世に大きな影響を与える。子規の言葉は新しくなろうとする近代日本の言葉でもあった。そのみずみずしい俳句・短歌・文章などを紹介しながら、三十四年という短い人生を濃く潑剌と生きぬいた子規の生涯を描き出す。
🐱坪内稔典先生は、昭和19年(1944)生まれで愛媛県出身なのだが、本書の「はじめに」によると、先生の子規との出会いは「二十代が終わろうとするころ」だという。これは、真の意味で「出会った」ということだろう。当時、女子高校の国語教師だった先生は、パチンコで勝った金で、古書店の店先に積んであった改造社の『子規全集』全22巻を衝動買いしたそうだ。「その全集が私のその後の人生を決めた気がする」という。その数年後には、最初の子規論を上梓するに至り、「以来、子規を考えることが私の暮らしの基調となった」のだそうだ。本書は、そんな稔典先生が子規の生涯をたどった評伝である。
ただし、年月を追って彼の活動を記したものではない。
私はこの本では、言葉で表現する子規をもっぱら追った。子規は言葉と共に生きたが、その子規を見つめたのである。
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『正岡子規 言葉と生きる』
坪内稔典(岩波新書)
を読む・その1
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第一章:少年時代
◾正岡子規は、本名、常規。慶応3年(1867)9月17日(新暦10月14日)、伊予国松山藩士正岡隼太常尚の長男として生まれる。幼名、処之助、のちに升と改める。
◽明治3年(1870)10月1日(新暦10月25日)妹・律が生まれる。
◽明治5年(1872)3月7日(新暦4月14日)父・隼太死去。
※本章は、明治22年(1889)第一高等中学校時代までの生い立ちを紹介しながら、当時の子規の文章を紹介している。
明治16年11月新橋にて
前列左から、藤野潔(古白)、安長知之、正岡子規。後列左から、三並良(はじめ)、太田正躬。
※三並良は、子規の祖父大原観山の甥で子規より二歳上。
🐱幼少期の子規は結構ヘタレな印象があるが、文章には早くから興味があったようで、12歳の時に回覧雑誌を作ったり、松山中学時代には漢詩のグループを作ったり、政治演説に熱中したりしている。
🐱子規は、明治16年(1883)に上京、明治17年から「筆まかせ」を書き始める。「筆まかせ」について著者は、
子規の考え方や感じ方、見方などの基本的なものがこの学生時代のノートに出そろっている感じだ。
たとえば考え方でいえば、比較や分類という方法。そして言葉への強い関心。寄席とベースボールへの興味も並ではない。
と解説している。子規と野球といえば、やはりこの短歌(明治31年作)が思い出される。
今やかの三つのベースに人満ちて
そぞろに胸のうちさわぐかな
🐱子規は、明治21年には『七草集』を執筆しているが、実際に完成したのは翌年5月1日のことで、友人に回覧して批評を求めている。この年から交友が始まった夏目金之助の評もあり、金之助は、このとき初めて「当座の間に合わせに」漱石と署名している。『七草集』について、著者は、
『七草集』はとても月並な、漱石の言葉でいえば通ぶった世界であった。
だが、その月並の世界は、子規が子規になるために通過しなければならない世界であった。
と解説している。当時の子規の関心は、「日本語ハ如何ニ改良スベキカ」にあったようだ。
以来、その日本語との関わりの中で育ってゆく。極端な言い方をすれば、言葉と関わることで子規は育つ。
明治23年3月
球と球をうつ木を手握りて
シャツ着し見ればその時思ほぬ
第二章:学生時代
◾明治21年(1888)7月、第一高等中学校予科卒業。『七草集』を執筆。
◽9月、本科一部に進級。本郷真砂町の常磐会寄宿舎に入る。
◾明治22年(1889)1月、夏目金之助と寄席の話題で盛り上がり交友が始まる。
◽5月9日夜、突然喀血。初めて「子規」と号す。
卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)
卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)
(「啼血始末」明治22年9月)
※この年から「俳句分類」を始める。
◾明治23年(1890)9月、東京帝国大学文科大学哲学科入学。
◾明治24年(1891)1月、国文科に転科。
◽12月、駒込追分町の下宿に転居。小説「月の都」を執筆。
◾明治25年(1892)2月、完成した「月の都」を持って幸田露伴を訪問。好評を得られず小説家を断念。
◽2月29日、陸羯南の世話で下谷区上根岸に転居(陸羯南の西隣)。
◽5月、木曾紀行文「かけはしの記」を初めて『日本』に連載。
◽6月、「獺祭書屋俳話」を『日本』に連載開始、俳句革新に着手。
◽7月、学年末試験に落第し、退学を決意。
◽11月、母・八重と妹・律を東京に呼び寄せ、家族三人の生活が始まる。
◽12月1日、陸羯南の世話で日本新聞社に入社。
🐱本章で興味を引いたのは、「筆まかせ」からの文章で、「最簡単ノ文章ハ最良ノ文章ナリ」とか、「短文ニ余意を含めたる技術の巧なるを喜ぶ」などの文章である。ただ、「俳句は完全な詩歌ではない」とも、当時の子規は考えていたようである。当時流行の進化論の影響などもあったようだ。
🐱「余は交際を好む者なり 又交際を嫌う者也」というのも面白い。良友との交際を好み、悪友との交際を嫌うという意味である。子規は友人を三つにランク分けしている。
正直にして学識ある人を第一等の友とす 多くは得難し、さまでの学問なきも正直なるを 殊に淡泊なるを第二等の友とす 余が友、多くは此中に属す、学識あれども不淡泊なる 利己心の強き 同感の情薄き者を第三等の友とす 余は已むを得ざる場合にあらざれば是等の人と交らず。
そして、「我朋友」を熟語で表現している。秋山真之が「剛友」、柳原極堂が「文友」、夏目金之助は「畏友」である。仲間内で話し合って各人を英単語で評した表というのもあって、それによると、漱石は「the Eyes」であり、子規は「the Cold」である。漱石は「鋭い」ということか。子規は冷笑家で有名だった。
🐱喀血後、余命十年を自覚した子規は、読むこと、書くことにともかく集中する。「それがとりあえず立身出世の途と見えた」のである。「畏友」漱石は、そんな子規に対して折々に率直な意見を手紙に書いて送っているのだが、明治22年12月31日付の漱石の手紙が興味を引いた。
漱石の目に写った子規は、朝から晩まで書きに書く子規である。読書もあまりしないで子規は書いている。そういう子規を、子どもが手習いをしているようなものだ、と漱石は問い詰めた。
漱石には、子規が書くことに熱中して、読むことの方はおろそかになっているように見えたようだ。互いに、端的に意見をぶつけ合う事ができる友人がいるということは、真に貴重なことだと二人の仲を見ているとつくづく思う。
🐱子規の特徴は、やはり、分類能力ではないかと思う。言葉を分類したり分析したりする態度は理系的であると思う。ただ、子規の場合は、それが還元主義に陥らずに、言葉と言葉のつながりがもたらす創発的なものを捉えているのだと思う。
🐱子規は、子供の頃から本を筆写することを好んだという。三並良の手記によると、子規は字が達者で写本も苦にせず、むしろ楽しんでいたという。よほど書くこと自体が好きだったに違いない。その特技が「俳句分類」などに活かされることになる。
🐱子規は、「獺祭書屋俳話」から本格的に俳句論を展開する。
「獺祭書屋俳話」で子規が明確に主張したのは、陳腐なものの追放、または払拭であった。陳腐なものを子規は月並と呼んだ。
発想と表現が陳腐で類型的なもの、それが月並だ。
月並を否定する子規は、作者、ジャンルの特性、時代の流行を視野に入れて俳句を考えようとしている。
学問的な眼で子規は俳句を見ようとしている。
(子規の叔父・加藤拓川の友人 )
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