森の踏切番日記

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行く我にとどまる汝に秋二つ 子規

正岡子規 言葉と生きる』

坪内稔典著(岩波新書

を読む・その2

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明治28年

 

 

第三章:記者時代

◾明治26年(1893)3月、帝国大学文科大学を退学する 。

◽11月、「芭蕉雑談」を『日本』に連載開始。

◾明治27年(1894)2月1日、陸羯南宅の東隣に転居。創刊された『小日本』の編集主任となる(7月廃刊)。小説「月の都」を連載。

※8月、日清戦争始まる。

※秋から冬にかけて、郊外を散策。

 晩稲(おくて)刈る東海道の日和かな

 街道を尻に稲こく女かな

◾明治28年(1895)4月、日清戦争従軍記者として遼東半島に渡る。(従軍中の森鴎外を訪ねている)

◽5月、帰国の船中で喀血して、神戸で入院。

◽7月、須磨保養院で静養。

 六月を奇麗な風の吹くことよ

 すずしさや須磨の夕波横うねり

 暁や白帆過ぎ行く蚊帳の外

◽8月27日から10月19日まで、松山中学に赴任した漱石の下宿「愚陀仏庵」に同居。

◽10月、「俳句大要」を『日本』で連載開始。

◽12月9日、高浜虚子を誘って道灌山へ行き、自らの文学上の後継者となることを依頼するが、断られる。

 

 

 

🐱「芭蕉雑談」では、「創業の人としての芭蕉を高く評価しながらも」、

芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ上乗と称すべき者は其何十分の一たる少数に過ぎず。

と、最初に過激な断定を下している。権威的なものを攻撃する場合の有効な常套手段である。ただ権威があるからと言うだけで盲目的に崇める輩を批判しているのである。

 

🐱この時期の子規は、俳句に「文学上の破天荒」を求めていたようで、芭蕉の俳句でも「老健雄邁」な句を評価していた。

 夏草やつはものどもの夢のあと

 五月雨を集めて早し最上川

 あら海や佐渡に横たふ天の川

などの句が「雄健放大」なのだという。

 

🐱また、近代文学の条件である「一貫せる秩序と統一」がない連句を文学ではないとしている。

この見方によって、発句、つまり五七五の俳句をもっぱら文学として作る時代を子規は開いた。

 

🐱一方で、「俳文」を評価したことも注目すべきことなのだそうだ。子規は西鶴近松芭蕉元禄時代の「三偉人」と呼び、「和文の外に一種の文を起した」芭蕉の俳文を評価したという。

子規は、真面目な中に滑稽諧謔を含んでいる文章を俳文と見なしたらしい。後に彼が試みる写生文がその俳文にあたるのだろうか。

 

🐱漱石が『吾輩は猫である』を子規に捧げた気持ちが分かるような気がする。子規にこそ読んでもらいたかったのだろう。漱石は『吾輩は猫である』と共に次の二句を子規に捧げている。

 長けれどなんの糸瓜とさがりけり

 どつしりと尻を据えたる南瓜かな

 

🐱この時期の子規の俳句は、まだまだ理論先行で実践が追いついていないようで、著者によると、「批評の高さにまだ実作が届いていない」ということである。河東碧梧桐の『子規を語る』には、子規の書簡が多数収録されているのだが、初期の子規らの俳句は、素人から見ても案外下手くそな句が多いと思う。

 

🐱小説「月の都」についても、子規の書簡に詳しく心情が書かれているのだが、かなり苦労して執筆して結構な自信作だったようだが、幸田露伴から良い評価をもらえなくてショックを受けたようで、肉体的にも精神的にも疲弊している。それでも諦めきれなかったのか、推敲して「小日本」に連載している。その小説「月の都」についての著者の評価は、

美辞麗句が多いその文体は、散文というよりも浄瑠璃や謡の詞章に近い。かなり推敲したものの、子規はまだ自分の小説の文体を得ていないのかもしれない。

 

🐱「小日本」の仕事を通じて画家の中村不折と知り合い、洋画の基礎的技法の写生を教えられたことが転機となったようだ。明治27年の秋から冬にかけて郊外散歩に出掛け「写生的俳句」を試みている。子規は後に、

「写生的の妙味は此時に始めてわかつた様な心持ちがして」と言い、「毎日得る所の十句二十句位な獲物は平凡な句が多いけれども何となく厭味がなくて垢抜がした様に思ふて自分ながら嬉しかつた」

と述べている。

対象と同化したその場所で写生は始まった。

 

🐱子規は、文学的に天才ではないと思うし、「努力の人」と云うよりも「夢中の人」という印象がある。自分の信じることを試行錯誤しながらも夢中になってやり続け道を開いていったという感じがする。

 

🐱 漱石の下宿「愚陀仏庵」での同居生活の間、子規は、柳原極堂らの俳句グループ・松風会としばしば句会を開き、俳人漱石が誕生するきっかけとなるのだが、著者は、「子規もまた俳句と取り組む意欲をこの愚陀仏庵でいっそう強くする」と指摘している。それが、「俳句大要」の執筆につながり、子規の俳句論が完成するのだ。愚陀仏庵での五十四日間は、夏目漱石正岡子規という二人の大文学者を生み出したことになる。この二人の出会いはなんという奇跡だろうか。

俳句は文学の一部なり文学は美術の一部なり故に美の標準は文学の標準なり文学の標準は俳句の標準なり即ち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以て論評し得べし (「俳句大要」)

 

🐱自分があと何年も生きられないという自覚があった子規は、自らの後継者に虚子を指名するが、虚子はこれを断っている。著者が云うように「学問をして後継者になれ、という子規の要求は虚子には大きな負担だった」のだろう。虚子は「子規居士と余」で、

 冷かにこれを言えば、そういう事はやや幼稚な考えであって、居士の後継者は決して一小虚子を以てこれに満足すべきではなくして、広くこれを天下に求むべきであったのである。

と書いている。子規には焦りもあっただろうし、青春していたんだと思う。虚子のこの意見は、老成してからの考えであり、当時は、自分には無理だと思ったのだろう。虚子は別の方向に青春していたんだと思う。吉原とかね。二人は文学に対する向き合い方が全然違うと思う。

 

🐱子規のショックは大きかったようだが、このことが、覚悟を決めさせたのかも知れない。

今迄でも必死なりされども小生は孤立すると同時にいよいよ自立の心強くなれり 死はますます近きぬ 文学はやうやく佳境に入りぬ

(五百木飄亭宛書簡、明治28年12月10日ごろ)

 

🐱子規と虚子はこれで仲違いしたわけではなく、以後も師弟関係は続いている。この年の大晦日には、数日前に見合いを終えた漱石と虚子が子規宅を訪れている。

 漱石が来て虚子が来て大三十日

 

 

 

 

 

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