『城塞』再読(15)
🐱司馬遼太郎の『城塞』下巻を再読しております。今回は、ついに夏の陣開戦です。
◼元和元年(1615)4月30日、大坂城軍議
※すでに惣濠を失った大坂城では、要塞戦の強味を発揮することができない。「人々の口は重かった」(長宗我部盛親談)という。
「敵はかならず大和口からくる」
と、又兵衛は言った。
「この山越えの敵を打つ」
というのが、又兵衛の策であった。
これにより、軍議は決定する。
「家康の本営を襲い、家康ひとりを刺すべし」
というのが、唯一の目的であった。
「みずからの最後を飾らん」
※この日、家康はまだ二条城にいたが、徳川方主力の大和方面軍は大和盆地に集結している。先鋒大将の水野勝成は法隆寺村まで進んでいる。伊達政宗は木津にとまった。河内も大和も人馬であふれ、大混雑であった。
🔘5月5日、家康・秀忠、出陣
◽家康軍は兵一万五千。家康は馬ではなく乗物を用いた。家康は全軍に対し、「三日分の腰兵糧」を指示している。
家康はせいぜい三日でおわるものとみていた。
▶一方、伏見城を出発した秀忠軍は兵一万。秀忠は騎馬であった。
この日、道路が混雑したため行軍は遅々として進まず、家康・秀忠が、河内の星田に入ったときは深夜であった。
▶そこに斥候が戻って来て、後藤又兵衛が兵数千を率いて道明寺方面に向かったことを報告する。
▶家康は、「わが味方に参じるならば、播磨一国五十万石をあておこなう」という使いを出させる。
◽後藤又兵衛はこの日の午後、大坂城を発して、平野郷(大阪市住吉区)に宿営していた。そこへ又兵衛の知人楊西堂(相国寺の僧)が家康の使いとして訪れる。又兵衛は、
「なによりもの死にみやげ」
と言って、丁重に辞退する。
▶家康の狙いは、「後藤又兵衛が寝返りをうつ」という流言をまき散らすことにあった。
※司馬は、こうした家康の調略は秀吉の真似であるとしている。ただ、家康の場合は、「模倣者が当然もつ一種の薄汚さ」をもつという。
天下人たる者が当然心をくばるべき人格的演出という点になると、かれは深刻な失敗者であったといえるかもしれない。
※この日、又兵衛のもとを、勝永・幸村が訪れて合議し、訣別の盃を交わしたという話もある。
大坂城落城大戦図 歌川芳虎(1868)
『大坂の陣名将列伝』より
🔘5月6日、道明寺の戦い
◽この日未明、又兵衛は二千八百の兵を率いて藤井寺まで進出する。ところが、合流するはずの勝永・幸村ら後続部隊がやって来ない。この日の朝は、濃霧で視界がきかず行軍が遅れていたのだ。
▶徳川方はすでに国分村まで進出している。この時点で、狭隘地で敵を迎え撃つ作戦は破綻した。徳川方は先鋒大将水野勝成四千、本多忠政五千、松平忠明四千、伊達政宗一万、松平忠輝一万一千余である。
▶又兵衛は単独で戦うことを決意、石川を越え、小松山を奪る。緒戦は後藤隊が圧倒するが、敵はなにぶん大軍であるため湧くように兵が出てくる。
▶午近くまで持ちこたえたが、もはや支えきれないと見た又兵衛は、
「死を欲せぬ者があるだろう」
と、兵達に退却を促したが誰一人去る者はいなかった。
「それではわしについてくるか」
又兵衛は、自ら平地戦をやるべく小松山を駆け下った。
後藤又兵衛戦死。享年56歳。
◽およそ八時間に及ぶ激闘の末、後藤隊は潰乱し、将を失い退却する兵達を大軍が襲いかかる。
▶そこへようやく「橙武者」薄田兼相以下三千六百が道明寺付近に到着するが、大軍に呑み込まれてしまう。
薄田兼相、あっけなく戦死。
『大坂の陣名将列伝』より
◽崩れに崩れた大坂方が藤井寺村まで敗走したとき、三番目の後続部隊である毛利勝永隊三千と合流する。真田幸村隊はまだ到着しない。
▶毛利隊にとって絶望的な状況になったとき、真田隊三千がほとんど全軍駆け足で到着する。
▶幸村は、徳川方最大の集団である伊達隊一万を蹴散らそうとして誉田村後方の野中村の丘の上に陣取る。戦闘が始まったのは正午過ぎであった。
▶伊達隊には、騎馬兵が馬上銃を放ちつつ突撃するという政宗考案の兵種があり、真田隊は一時これがためにほとんど潰乱寸前になるが、幸村はうまく立て直し逆襲する。
▶伊達隊先鋒はたちまち崩れるが、無傷の政宗本隊が押してくる。幸村は、政宗の本営をめがけて猛烈な突撃を敢行する。このため伊達隊は崩れ、はるか後方の誉田の村落まで逃げて行った。
▶毛利隊もよく敵を防ぎ、真田隊とともに激闘六時間の末、日が暮れ始めて大坂に向かって後退した。これに対して徳川軍は追撃しなかった。このとき幸村は、
「東軍百万を呼応するといえども、ついに一個半個の男子もおらぬのか」
と嘲笑したという。
🐱これが、大河ドラマ『真田丸』の「徳川兵に真の武士は一人もおらんのか~!」のもとになった言葉だな。
『大坂の陣名将列伝』より
🔘同日、八尾・若江の戦い
◽長宗我部盛親は、この日未明、五千三百の兵を率いて大坂城を発し、久宝寺村に達する。道明寺に向かいつつあった藤堂高虎隊五千は、濃霧のため敵の存在に気がつくのが遅れ、予定を変更して戦わざるを得なくなった。
▶盛親がやった戦闘は「野外戦における模範的な戦闘」だったという。藤堂隊はほとんど粉砕されて、高虎が馬に乗って逃げ出す程であった。藤堂隊では八尾を動かなかった渡辺了隊だけが無傷だった。
▶そこへ、協同部隊である木村重成隊壊滅の報が入る。孤軍となった盛親隊はやむなく退却。大坂城に戻った。
『大坂の陣名将列伝』より
◽木村重成は、この日未明、五千の兵を率いて若江に向かった。
重成は若江村付近で井伊直孝の隊と激しく戦い、一進一退をくりかえしていたが、後続部隊をもたないために士卒の疲労がかさなり、敗勢というより疲労による自潰といったかたちでくずれはじめ、重成も早暁からの戦闘で疲労してみずから戦闘を投げだし、自殺的な討死をとげた。
木村重成戦死。享年23歳(異説あり)。
◾その夜、伊達家の先鋒大将片倉小十郎重綱のもとに幸村の使者が訪れる。三女阿梅の保護の依頼であった。片倉が政宗に報告すると、政宗は即座に許可した。
▶その夜更け、阿梅と近臣穴山小助の娘は、片倉のもとに届けられ保護される。阿梅はのちに片倉の室となり、幸村の血は奥州に遺った。
◾「右大臣家の御馬出し」
ということを、幸村は明日の決戦の眼目としていた。大野修理も、異存は無かった。
▶一方、家康は、秀頼の出馬をおそれた。そこで、念には念を入れ、大野修理の弟の治純に偽の誓詞を持たせ、修理への使いを出させる。
▶修理は、まんまと引っかかり、御馬出しはやめることにする。
▶という逸話を『城塞』では採用している。
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