2月の読書録01ーーーーーーー
岩波新書(2016/11/18)
1702-01★★★☆
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写真で見る漱石は、いつも真面目な、多少気難しい顔をしている。
と言っても、彼の不機嫌な顔はその一面であり、友人や教え子たちとは談笑し、彼らの頼みは就職、借金など身を切っても尽くす。約束は必ず守る、義理がたい気性である。酒はほとんど呑まないが煙草は一日に四十本、お洒落で服装に気を使い、外出して気に入ったものがあればすぐに買って帰る。食事には注文をつけないが、駄菓子が好きで、妻が留守のときには自分で何か探して食べる。病気がちのくせに、無理な行動も平気でやってしまう。
🐱夏目漱石は、慶応3年1月5日生まれだが、西暦では、1867年2月9日生まれということになり、今年で生誕150年である。昨年の12月9日の没後100年と合わせて、書店でも夏目漱石フェアを展開しているが、この機会に最近出た評伝でも読んでみようと思い立ち本書を読んでみた。
🐱著者は、1936年北海道生まれ。1966年京都大学大学院博士課程修了。近代日本文学専攻。現在は、学習院大学名誉教授、日本近代文学館顧問である。
🐱本書は、漱石の生涯とともに作品についても丁寧に触れられており、大体は既知の内容だったが、新しい発見もあった。作品の解説については大変参考になった。最近ありがちな極論や暴論もなくて好感が持てた。
🐱以下、気になったことをメモしておこうと思う。
彼の心の中には、つねに現状に満足できない強い欲求が潜んでいたようだ。
第一章:不安定な育ち
第二章:子規との交友
🐱この章では、子規との交友について、特に「文学上の対立」が取り上げられている点が興味深かった。著者によると、「自己中心的に具体的問題に即する子規に対して、漱石は客観的、論理的に批判する姿勢が特徴的」であるという。これは、そのまま二人の性格の違いを表しているように思われる。二人は書簡をやり取りして論争するのだが、全く噛み合わない。しかし、だからといって友情が損なわれるわけではない。
異質な者同士が率直に自分の考えを述べて成長していく、羨ましい友情である。
第三章:松山と熊本
🐱ここでは、漱石が弓術に熱中したのは、当時は弓の姿勢が肺に良いとされていたからだったということを初めて知った。
🐱また、「第一義」を求めるということが印象に残った。二十代の漱石は人生迷走中で、決して自信を持って真っ直ぐには生きていないように思われて、そこに共感する。
🐱漱石が子規に宛てた手紙で「銀杏返しにたけなはをかけ」の「たけなは」の意味を調べても分からなかったのだが、それが分かったのが収穫だった。正しくは「たけなが」なのだそうだ。そりゃ調べても分からんわ。「たけなが」は、元結の上に和紙をかけた飾りなのだそうだ。
🐱漱石が子規と虚子の仲を心配し、交際復活を願っていたというのも印象的。確か、漱石は子規に取り成しの手紙を書いたはず。
第四章:ロンドンの孤独
第五章:作家への道
🐱ここでは、ロンドンから帰国する船に青山脳病院院長の斉藤紀一が同船していて知り合ったことを知った。斉藤紀一は斎藤茂吉の養父である。北杜夫の『楡家の人びと』を思い出した。
🐱漱石の初期の短編では「一夜」が好きなのだが、「漱石の先進性に驚かされる」と評している。漱石は、未だに新しいのだ。
🐱『坊つちやん』について、「坊つちやん」が、父親と清の間に生まれた子供だったという可能性について論じていて面白かった。この仮説は、あり得そうな気がする。婆やの清はそれほど年を取ってはいないという説は初めて目にするわけではない。当時は四十代でも婆さんだったし、婆さんじゃなくても婆やと呼ばれることがあったという。
第六章:小説記者となる
🐱漱石初の新聞小説となる『虞美人草』は、よい評価を目にすることは無いのだが、吾輩は嫌いではない。この時期の漱石にしか書けない唯一無二の小説という意味において貴重だと思う。
第七章:『三四郎』まで
🐱『三四郎』の美禰子について「枠」という見方が興味深かった。
池での出会い以後、彼女はいつも枠取りの中から現われる。枠というのは、世間的な枠でもあり、実際に四角な枠のことでもある。
[中略]
彼女は「結婚」という枠に囲まれる直前の「自由」を楽しみたかったらしい。
🐱美禰子は嫌な女だとは思わない。彼女のような都会の女性を御するには、三四郎は経験不足に過ぎる。美禰子は、当時としては、新しい女性だったのだろうが、限界をわきまえていたと云える。どんな人間も時代という枠からは逃れることは出来ないのだ。
第八章:『それから』の前後
第九章:修善寺の大患
🐱ここでは、修善寺の大患前後について詳しい。修善寺に向かう鏡子の動向も書かれている。子供たちが鏡子の母親と一緒に茅ヶ崎へ海水浴に行っていたのを豪雨の中迎えに行って、母親を横浜に送り、自分は茅ヶ崎に一泊するつもりでいたところに、修善寺からの電報が回送されてきた。そこで、子供たちを茅ヶ崎に預けておいて、母親を追って横浜に向かい、遅くなって汽車がなくなり、不安な一夜を過ごし、翌日の午後修善寺に到着したという次第である。これは、夏目鏡子の『漱石の思い出』に詳しく書かれている。
第十章:講演の旅に出る
🐱ここでは、朝日新聞社内の内紛(池辺三山辞任問題)が波及して、漱石が池辺に辞表を郵送したときの事(その後説得されて撤回)が印象的である。提出直前に漱石は鏡子に相談しているのだが、
以前の漱石ならば妻に相談なく事後通知で済ませただろうが、大患後の彼は、妻の誠意ある看病に、自分の「我」をむき出しにする弊はなくなったようだ。
ということだ。この問題については、森田草平の不徳の致すところだと思う。
🐱『彼岸過迄』は、好きな作品の一つで、何度も読み返しているのだが、ここでの評も興味深かった。
一旦起ったことは、表面に出なくとも生き続け、突如として現れることもあるだろう。それは、「過去」に対する漱石の考えであった。
これは、『門』や『道草』にも当てはまる。
第十一章:心の奥底を探る
🐱『心』の先生の自殺は、自壊とも云えるものだったのだろうか。孤独地獄に耐えられなくなった結果だろうか。それに対する回答は見出せない。先生死後の奥さんの気持ちがいつも気になる。
第十二章:生きている過去
第十三章:『道草』から『明暗』へ
🐱『道草』については、
漱石にとって、女性には理解できない一点があり、男同士の方が気兼ねなく話せる相手だったようだ。過去の回想は「道草」ではない。人生そのものが「道草」の連続なのである。
とある。なるほどね。修善寺の大患後でなければ、この小説は書けなかったのではないだろうか。
第十四章:明暗のかなた
🐱ここでは『明暗』について詳しく論じられている。『明暗』は、まだ一度しか読んでいない。再読したくなった。
第十五章:晩年の漱石とその周辺
🐱死の床にある漱石の写真がなぜあるのか今まで疑問だったのだが、
子供たちがどこから聞いてきたのか、死にそうな人の写真を撮ると治ると言ってきかないので、朝日の写真班に頼んで写真を撮ってもらった。
ということだそうだ。そんな迷信は初めて聞いた。それが、生前最後の写真である。
(夏目鏡子の『漱石の思い出』に書いてあったのをすっかり忘れていた)
死の床にある漱石。大正5年(1916)12月9日
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