『ブラタモリ』#65神戸の街
~神戸はなぜ“ハイカラ”なのか?
😽近江「神戸といえば、洋菓子がおいしい! 掛け算は出来ます! 天井川? サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」
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タモリ「ここは京都の北野という所で」
近江「神戸です!」
タモリ「あっ神戸だ! もうどこにいるのか分かんなくなってる」
タモリ「ホテルから何も言われずに、ここへ来るんですよ」
😽タモリさん、お疲れ?
近江「ありません? あれ? そうでもないですか?」
タモリ「ある?」
近江「お上品な街のイメージ」
😽そこか!
タモリ「そうそう、洋食がおいしかったり」
近江「女性も上品そうなイメージ」
😽エエトコのコや。
小代「ハイカラの意味はご存知でしょうか?」
タモリ「襟の高いシャツ」
近江「そういう事なんですか」
🐱襟の高いシャツといえば、夏目漱石を思い出す。元々は洋行帰りという意味だったのだろうな。
🐱要は西洋趣味ということだな。良くも悪くも。
今日は神戸で『ブラタモリ』!
草彅「たくさんの異人館が立ち並び年間100万人もの観光客が訪れます」
明治30年代の建物
昭和初期ぐらいの異人館
昭和初期ぐらいの建物
タモリ「あれ? 森田…」
タモリ「すごいなあ!」
森田「非常に光栄に思います」
😽森田義氏と森田一義氏、感激のご対面。
😽なんか番組が違くね?
😽『森田一義の建物探訪』
😽お金持ち~。
😽和室もないと安心できない。
和と洋が溶け込む神戸
なぜ神戸はハイカラに?
草彅「それを知るために向かったのは」
草彅「150年前の神戸の開港がきっかけです」
草彅「実は、異人館が出来る前の北野がどんな所だったのかを知ると」
タモリ「曲がってますよね。直線ではない」
神社の左にあるのが「風見鶏の館」
🔎風見鶏の館Google マップ
😽「館もの」なら地下室には死体があるはず。
😽「館もの」ならどこかに隠し部屋があるはず。
昔は使用人部屋として使われていた。
江戸時代後期の絵図。右の鳥居が北野天満宮。「風見鶏の館」のある場所は池だった。
水を抜いた池の底に異人館が建てられたため、半地下になった。
外国人のために整備した所ではなく、農村に外国人が入って家を建てた。
タモリ「北野村だったんだ」
🐱元々は、北野天満宮の荘園だったのだろうか。
黄色い部分が全部雑居地。
幕末に開港が決まった5つの港。
草彅「神戸だけなんです」
草彅「でも、どうして神戸だけにこれほど大きな雑居地が出来たんでしょう。実はその理由、居留地に行けば分かるんです」
草彅「ということでタモリさんが向かったのは、かつての居留地。今はオフィス街ですが区画や道幅は当時のままなんです」
居留地で150年間使われている地番。
番号をたどってまっすぐ進んでみる。
番号が飛んでいる。
タモリ「13番!」
😽そうですね。┓( ̄∇ ̄;)┏
🐱慶応2年(1866)12月25日、条約拒絶と攘夷の意志が強かった孝明天皇が痘瘡(天然痘)にかかって崩御。
🐱慶応3年(1867)5月、兵庫開港勅許。
幕末の動乱に重なってしまった。
一般的な居留地の場合。
神戸の場合。
草彅「神戸には広大な雑居地が認められたんですねえ」
タモリ「高い所じゃないでしょうね?」
😽近江ちゃん、なんか、うれしそう。
😽アホは高いところが好き。( ´▽`)🎵
雑居地は、川と海、断層に囲まれて独立した一区画になっていた。
草彅「この事こそ、神戸に広大な雑居地を認めることができた理由なんです」
草彅「こうして和洋2つの文化が混ざり合い」
「兵庫」&「神戸」の地図。
開港以前の神戸の街の中心部は兵庫津だった。
草彅「たくさんの日本人が暮らす大きな街があったんです」
タモリ「段差がありますね」
タモリ「川っほいですね。この道は」
😽新たな刺客登場。
😽近江アナ計算中
刺客「ああ、正解です」
😽なんか、残念そう。
河岸段丘なら地面が続いているはずだが、それが無い。
河岸段丘ではないとすると、
刺客「そうです。ずばり、そうです」
😽なんか、うれしそう。
草彅「川底が上がります」
草彅「天井川というんです」
🐱湊川といえば、1336年、湊川の戦い。楠木正成は700騎を従え、湊川西側の会下山に布陣したという。足利尊氏・直義軍に敗れた正成は、湊川の北の民家に入り、一族ら70余人とともに自害した。この時代の湊川は、すでに天井川だったのだろう。
そのおかげで、神戸の外国人と兵庫津の日本人の接触を防ぐことができた。
やがて、外国人への警戒心が薄れ、神戸も兵庫もどんどん発展していく中で湊川という壁が邪魔になってきた。
そこで、湊川の付け替えが行われた。
タモリ「新開地」
草彅「実は、この商店街、入り口近くから下がっています」
草彅「更に大きな通りまでやって来ると」
天井川は、ここで終わった。
タモリ「堤防を壊した」
草彅「天井川がつくった壁を斜めに削りました」
その結果、神戸と兵庫はひとつになり、新開地は、ハイカラ発展の舞台になった。
昭和初期の新開地の復元図。
神戸一の繁華街ができた。
🐱京都でいえば、新京極通りのようなものか。
その賑わいは、「東の浅草」、「西の新開地」とまでうたわれた。
近江「サヨナラ、サヨナラ」
🐱淀長さん、知ってるんだ。
更に神戸は日本のスイーツの歴史を変えた⁉
草彅「ということで、やって来たのは新開地から1km東」
😽またしても、『べっぴんさん』がらみか。
草彅「なんとここに、ケーキなどの洋菓子が日本に広がるきっかけとなった」
タモリ「和菓子ですよね」
近江「和菓子?」
5代目見習い「神戸発祥のお菓子です」
タモリ「え~知らなかった。そうですか」
明治6年に5代目見習い松井隆昌さんの高祖父が考案して神戸で大人気になった。
😽小動物っぽい二人。
5代目見習い「焼きたては、まだやわらかいんです」
瓦せんべいのもとになった和菓子。
近江「固くてかめない!」
近江「歯が…」
小麦粉と水と少しだけの砂糖が入っている紅梅焼に
たっぷりの砂糖と卵を加えて出来たのが瓦せんべい。
見た目と名前は和風だが、材料は洋風。
兵庫に製粉工場が開業。
草彅「神戸にたくさん生まれました」
5代目見習い「日本の食文化にハイカラさが伝わった」
タモリ「兵庫と神戸という意味ですか?」
タモリ「神戸牛だと思っていた」
湊川隧道は、明治34年~平成12年、湊川の水路として使われていたトンネル。
おまけ

次回は

😽一発芸、フルート。
😽一発芸、尺八。
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