8月の読書録06ーーーーーーー
創作の極意と掟
講談社文庫(2017/07/14:2014)
★★★★
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本書は、心して読まねばならない書物である。なぜならば、これは筒井康隆の「作家としての遺言」であるからだ。表題の「創作」は、小説のことである。著者が対象として念頭に置いたのは、「プロの作家になろうとしている人、そしてプロの作家すべて」だというが、それ以外の人が読んでも得るものが多々あるし、著者の他のエッセイ集と同様の面白さがある。
「小説とは何をどのように書いてもよい文章芸術の唯一のジャンルである、だから作法など不要」というのが著者の持論だったという。そういう著者が敢えて書いた小説作法だから、ただの小説作法であるわけがない。全体を通して受ける印象は、やはり、小説とは自由に書いてよいものであり、作法などはないということである。
自由に書いてよいといっても、独りよがりな文章では駄目であるし、陳腐な表現でも駄目である。自由であるということは、己で己を律しなければならないということであり、自分の文章に責任を持つということではないだろうか。そのためには覚悟と情熱がなければならない。新しい小説には何か新しいものがなければならないし、様々な技法をものにするためには経験を積むことが必要である。そして、やはり、本をたくさん読んだ方がよい。
本文は、31の項目に分かれているがタイトルはすべて熟語である。「凄味」から始まり、「色気」、「揺蕩」、「破綻」、「濫觴」、「表題」、「迫力」、「展開」、「会話」、「語尾」、「省略」、「遅延」、「実験」、「意識」、「異化」、「薬物」、「逸脱」、「品格」、「電話」、「羅列」、「形容」、「細部」、「蘊蓄」、「連作」、「文体」、「人物」、「視点」、「妄想」、「諧謔」、「反復」と続いて、最後が「幸福」となっている。
各項では、古今東西の名作が、純文学系から、エンタメ系、SF、ラノベに至るまで、例として取り上げていて、名作が何故名作となり得るのか解説されている。とくに小説家を志さなくても、読書をするときに大いにためになると思う。作家の逸話がいろいろ紹介されているのも読書好きにはたまらない。著者の日記やエッセイを読むときは、いつもそうなのだが、紹介された本が本当に面白そうで全部読みたくなるので困る。また、著者自身の作品についても言及されていて、筒井康隆ファンには大変うれしい内容になっている。
「濫觴(らんしょう)」は、大河もその源は觴(さかずき)にあふれる程度の小流であるということばから、物事の初めをいう。一説に、さかずきをうかべる意という(『新漢和辞典』大修館書店)。ここでは、小説の書き出しを指す。この項には、こんなことが書いてある。
小説作法本に小説の出だしはどうあるべきかなどと書かれていれば、これはもう無視した方がよい。考慮されるべきはあくまで、「その小説の出だしはどう書けばよいか」である筈だ。ひとつひとつの作品にはその作品に最も相応しい出だしがあるのだから。それを考えることこそが個個の作家の作業なのである。
「表題」で思い出したのは、『涼宮ハルヒの憂鬱』である。このタイトルは当初、「憂鬱」という画数の多い漢字はラノベには相応しくないのではないかという理由で別のタイトルが検討されたのだが、結局そのままのタイトルで刊行されて大ヒットになったという逸話がある。その時ボツになったタイトルが、
『創造主のマスカレード』
『グルグルグルーミー』
『タブルサイドH』
『むかつくグルーミーデイズ』
『オルタナティブガール』
『HARUHI!』
『ハルヒ伝 閉鎖空間変化自在篇』
などであったという(『涼宮ハルヒの秘話』より)。ラノベっぽいけど、ヒドすぎるわ!『涼宮ハルヒの憂鬱』というタイトルが秀逸であり最も相応しいタイトルだったことがよくわかる。
この項では、小説のタイトルはその作品に最も相応しいものがよいのだが、テーマとも内容ともまったく関係のないタイトルをつけるというのも、表題に困った時のひとつの方法であるとして、自身の短編小説「ムロジェクに感謝」を例として挙げている。このタイトルの意味が長らく理解不能だったのだが、ようやくスッキリした。
「遅延」の項では、涼宮ハルヒ・シリーズに関して、
SF的首尾結構は整っているし、センス・オブ・ワンダーにもSF的合理主義精神にも欠けるところはない。
と評価している。特に、『涼宮ハルヒの消失』は文芸誌編集者の間でも評判がよかったという。著者は、涼宮ハルヒ・シリーズからライトノベルに対する姿勢が変わり、『ビアンカ・オーバースタディ』を書いてしまったと明かしている。知らなかった。
「迫力」の項では、「最大の迫力を生むのは死である」として、星新一の「殉教」が取り上げられていて懐かしかった。このショート・ショートは、昭和33年(1958)に雑誌『宝石』に発表された星新一最初期の傑作で、『ようこそ地球さん』(新潮文庫)に収録されている。最初に読んだのは中学時代だったと思う。この「殉教」と「処刑」の2編は大人になってから読み返してみて、その迫力に戦慄したものである。
「展開」には、こんなことが書いてある。
通常の小説の場合は、よほどの着想でない限り、あまりおかしな展開にはしない方がよかろうと思う。つまり小説のよき展開として「序破急」や「起承転結」以外の技法はないのだ、と考えておいた方がよい。
ただし、文学性を重視した作品においては、展開は作家の自由であるという。
そこにこそ小説の自由さがひとつ存在するからだ。
この項を読んだあと少し気になって、脚本の「三幕構成」について調べてみたのだが、三幕構成 - Wikipediaに映画の脚本の三幕構成についての解説があったので思わず熟読してしまった。なぜか『アナと雪の女王』をおもな例として取り上げていて、丁寧な解説で勉強になった。脚本の場合も、特にエンタメ系は、よき展開として「三幕構成」以外の技法はないということのようだ。
「形容」の項では、いかなる小説であっても絶対に使ってはいけない形容は、「筆舌に尽くしがたい」という形容だと書かれている。そりゃそうだ。この項では、「美しい形容に溢れた文章を書く作家」として三島由紀夫を取り上げている。
として、『禁色』から文章を引用して、
単に形容だけではなく、美学や古典文学からあらゆる世相に至るまでの教養と知識に鏤められた文章はもう、どんな作家たちにも書けないだろう。
とある。ちょうど、本書と並行して『美しい星』を読んでいたので、ものすごく納得した。古典文学といえば、三島が清少納言について、頭のいい女性独特の誇り高さがあって周りの男性がバカに見えて仕方がなかったのだろう、というような意味のことを書いていたのを読んだことがあるのを思い出した。
『美しい星』を読んで、ミシマに少しはまってしまったのだが、そっちの方は趣味も興味もないので『禁色』系の小説は敬遠するとして、何か読んでみたいと思っている。昨年話題になった『命売ります』は、立ち読みでザッと読んで、さほど興味を持たなかったから、まあよいか。
「細部」の項では「神は細部に宿る」ということで、フロベールを取り上げている。この項目は、そのまま『ボヴァリー夫人』論になっていて読み応えがあった。「ボヴァリー夫人はフロベールである」と言ったのは誰だったか忘れてしまったなあ。
「文体」の項には、
文体というものは作品内容に奉仕するものである、と小生は思っている。
とある。ここで取り上げられたレーモン・クノーの『文体練習』と高橋源一郎の『国民のコトバ』は、どちらも面白そうで、機会があれば読んでみたい。
「妄想」の項には、
小生、小説を書く者にとっていちばん大切なものは妄想ではないかと思うのだ。妄想というのは時には猥想などとも言われるように性的な空想だけと思われがちだがなかなかさにあらず、すべての想像の根幹にあり、着想と言われるもののすべてはここから発するものではないかとさえ思う。
とある。私は、この項目だけはクリアできるな。
女性の場合は、男性と比較して右脳と左脳を結んでいる脳梁が太いことから、思考と感情が結びつきやすいのではないか、と著者は推測している。ここで取り上げられている本谷有希子の『嵐のピクニック』と川上弘美の『神様』は、どちらも著者が高く評価している作品だが、私は前者よりも後者の方が好みである。どちらも面白い作品だが、小説にも相性というものがあって、前者の方は私が好む面白さとは少しベクトルが違うように思われる。ただ、「パプリカ次郎」のような作品は好きだ。川上弘美の最近の作品は読んでいないが、また読みたくなった。『なめらかで熱くて甘苦しくて』は、読んでみたい。最近私が注目している女性作家は、最果タヒと藤野可織である。
「反復」は、31の項目の中で最も分量が多い。というのも、『ダンシング・ヴァニティ』(以下「DV」と略)の自作解説になっているからである。
小説の中での反復にはさまざまな意図や意味があり、「DV」ではそれらの反復を多種多様に駆使している。特に過去の他の作家の作品には見られなかったであろうと思われる反復もあり、この小論では「DV」を読んでいただいた読者のために、それらを分類し、解説していきたいと思う。また、「DV」では取りあげることのなかった種類の小説の反復ということについても、この機会に触れておくつもりである。そもそもこの作品は、ダンス、演劇、映画、音楽など他の芸術ジャンルに顕著な反復が、なぜ小説でなされ得ぬのかという疑問から発したものなので、できるだけ他のジャンルとの比較の上で考察していきたい。
『ダンシング・ヴァニティ』は、もちろん読んでいるので、この項目は興味深く拝読した。最近なぜか「セレンディピティ」という言葉が再流行しているようだが、ここでも言及されている。負のセレンディピティは嫌だなあ。東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』と桜坂洋の『All You Need Is Kill』に関する考察は、文学の行く末について考えてさせられる。最後にはプルーストからハイデガーまで飛び出してくる本項は、凄味と迫力があり本書を象徴する内容である。
最後の「幸福」の項では、小説家であることの不幸と幸福が語られているが、結局のところ「作家として認められている幸福は何ものにも換え難いものがある」ということで、最後は、小説家であることの「幸福」を噛みしめているのだろうか
……。
と、無言で締めくくられている。
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