『ブラタモリ』#84高野山の町(2/3)
~高野山はなぜ “山上の仏教都市” に?
タモリ「オンアビラウンケンバサラダトバン」
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🔘高野山の町でブラタモリ(1/3) - 森の踏切番日記の続き
その昔、青巌寺(今は金剛峯寺)の柳の間で豊臣秀次が切腹しました。
デカ!
タモリ「いろいろ仕事してますね」
ホントにね。
土は使っていない。何故でしょうか?
声デカ!
関西には、こういうオッサン多いけどな。
はあ。
この奥に秘密が!?
右いろりの間、左台所。
大きいお釜が三つ並んでいる。
近江「100人分くらい?」
タモリ「250ぐらい、いくんじゃないですか?」
タモリ「二石!」
炊くための薪も大量にいるよな。
毎日、薪割りしてたんやろな。
2000人分!
今よりもはるかにお坊さんが多かったにしても、一度に2000人分とは。
江戸時代には、高野山全体で何人くらい住んでいたのかなあ。2万人くらいは住んでいたのかなあ。
「#82高野山」より
現在の117寺でお坊さん約1000人としたら、単純に計算すると、約1万7000人か。
江戸時代の話ね。
お寺さんやもんなあ。
荘園の時代は、もっと大きかったでしょう。
織田信長は高野山の荘園を解体して武装解除するために、織田信孝に包囲させたことがあります。
豊臣秀吉は、最初は高野山の所領を没収しましたが、後に改めて所領を与えて保護し、興山寺、青巌寺を建立しております。
石高 - Wikipediaによると、
天保期における日本の総石高は約3055万石、
うち天領が約419万石(13.7%)、
皇室御領は約4万石、
(宮家と公家を合わせても、約10万石だったと記憶しております)
寺社領は約29万石でした。
その中でも高野山は最も石高が大きかったようです。
奈良の春日大社や興福寺も2万石クラス。東照宮が1万4000石弱、増上寺が1万石クラスだったそうです。
お寺さんやもんなあ。
昭和の中頃まで?
お寺さんやもんなあ。
あれしかないやん。
台所の横にあるお坊さんが実際に食事していた場所。
棟梁「ダイニングルームというか」
タモリ「ダイニングキッチンDKですね」
白衣という白い衣を着ている。
階級を表す衣を脱いでいる。
なんか来た。
お坊さんの所作がキレキレなもんで。
こうやくんも大好きw
こうやくん
ですよね~
屋内でも十分凍ったと思う。
そろいました。
なんでしょう?
女人禁制。
男だらけ。
1000年以上出生率ゼロだった。
そりゃそうだ。
力ずく?
この階段の上に秘密が!?
寺生(てらせい)さんというそうな。
平安の昔から高野山の各お寺に全国から学生が集まり、住み込みで勉強していた。
「会下(えか)」という長屋だそうな。
個室。学費免除。生活費もらえる。
ただし、男だらけ。
いやいや。
思わず突っ込むタモリさん。
近江(突っ込まれちゃったw)
近江、反省ソワカ。
お寺さんやもんなあ。
次の記事へと続く
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