森の踏切番日記

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藤野可織の『ファイナルガール』~女は度胸なのだ

9月の読書録05ーーーーーーー

 ファイナルガール

 藤野可織

 角川文庫(2017/01/25:2014)

 ★★★☆

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藤野可織は、以前から気になっていた作家の一人で、一度小説を読んでみたいと思っていたのだが、なかなか機会がなくて、今年の9月にようやく『おはなしして子ちゃん』を読むことができた。これが、期待以上に面白くて、すっかり気に入ってしまったので、引き続いて本書も読んでみた。

本書には、7編の短編が収録されているが、いずれもユニークな作品である。

 

 

 

ファイナルガール (角川文庫)

 

 

 

まず最初の「大自然」では、次の一節が引っかかった。 

「芸術は人工物です。人工物に対して、自然がある。ふつう、私たちはそのように考えがちです。でも、よく考えてみてください。人工物、芸術をつくるのは、私たち人間ですよね。人間って、なんですか? そう、動物です。動物は、自然の一部です。つまり、私たち自身の肉体もまた、自然なのです。

 さて、芸術作品をつくるとき、手や目といった肉体のほかに必要なものはなんだと思いますか? そう、こころです。では、こころというものは、人工物ですか、自然ですか。どっちだと思いますか? そうですね、自然ですね。この作品をつくった芸術家も、そのように考えました。それで、肉体という自然を使って、こころという自然を思いのままに表現したものが芸術作品なのだから、芸術作品はどれも例外なしに大自然なのである、と考えたのです」

面白い屁理屈である。「芸術」を「石油化学工業製品」と置き換えてみると分かりやすい。人間の肉体も心も「非人工物」だが、人間が作り出した物は「人工物」なのだ。私は「人工物」もまた「自然」の一部だと思う。つまり、「人工物」は「自然」と対立するものではなくて、

{人工物}∪{非人工物}={自然}

だと思う。ファーストキスは甘酸っぱくはない。

 

 

「去勢」は、十七歳の夏以来ストーカーにつかれている女性の話。「憑かれている」と表現した方がよいかもしれない。不気味だが実害があまりないので、主人公にとって環境の一部になってしまっている。メタフィクション的に考えると、このストーカーは読者自身だと見なすことができる。小説の主人公にとって読者とはストーカーのような存在に違いない。そこに思い当たると、夢の中で犯罪を犯したときのような気分になる。

 

 

「プファイフェンベルガー」のマイケル・プファイフェンベルガーは映画俳優である。下の早口言葉を3回続けて言ってみよう。

〈赤プファイフェンベルガー青プファイフェンベルガー黄プファイフェンベルガー〉

言えねえ。とにかく、この短編はプファイフェンベルガーに尽きる。作者がプファイフェンベルガーという名前にはまって書いたんじゃないかとすら思われる。プファイフェンベルガー主演の映画のタイトルを想像してみる。

『ターミプファイフェンベルネーター』

『トータルプファイフェンベリコール』

『プファイフェンベレデター』

『プファイフェンベルランボー』 

『リーサルプファイフェンベルポン』

『ダイプファイフェンベルハード』

『沈黙のプファイフェンベルガー』

もうやめとこ。

 

 

「プレゼント」の小林は、デートしてキスしたら、虫歯の味がすると言われる。しかも、今から歯医者に行こうと言われ、十六歳のナツミ行きつけの小児歯科に連れて行かれる。

小林は、二十一歳で彼女のカテキョーである。大学の友人からは(ペドフィリアの)「ペド」とからかわれている。小林は友人に対して優越感を持っている。お気楽な性格だ。

歯を抜かれたくらいで喪失感を感じるのは大袈裟だと思う。小林は、よほど恵まれた生活をしているのだろう。彼は抜歯した歯をポケットに入れていたのだが、ナツミと別れた後確認したら歯がなくなっていた。彼女は、記念に彼の何かが欲しかっただけなのかもしれない。

 

 

「狼」の主人公(俺)が五歳のとき、両親とともに郊外のマンションに引っ越した日に、一人でお留守番をしていると、狼が訪ねてくる。狼は、独りのとき、来そうだなと思ってしまうと、やって来るものだ。

狼を倒すために必要なものは腕力ではなくて胆力である。どんなに肉体を鍛えても胆力がなければ狼を倒すことはできない。

 

 

「戦争」の主人公(私)は、サイモンの死をずっと悲しんでいる。サイモンは、「ハリー&レニーシリーズ」という小説の脇役である。彼女は、現実の人の死は悲しまない。彼女が生きている世界は戦争下にある。彼女は爆撃で死んだ「あなた」の死を悲しむことができない。彼女は、サイモンの死だけを悲しみ続けている。

私も、人は死ぬものだと思っているので、人の死をあまり悲しまない。もし悲しむならば、すべての人の死を同等に悲しまなくてはならない。私には、そんなことはできない。

彼女は、自己防衛的に感覚を麻痺させているのかもしれない。現実の人の死は受け入れがたい。サイモンはその代用なのだ。

 

 

最後は表題作の「ファイナルガール」である。リサは幼い頃にシングルマザーだった母親を亡くした。彼女の住むアパートが連続殺人鬼に襲われたのだ。リサはたったひとりの生き残りだった。母親の機転で助かったのだ。以来、彼女は何度も連続殺人鬼に襲われるが、その度に連続殺人鬼をたったひとりで打ち倒し、ひとりだけ生き残ってきた。このリサと連続殺人鬼の闘いの描写は秀逸である。さすがホラー映画好きの作者だけのことはある。

この短編集に登場する男性陣は、皆、どことなく頼りない。「去勢」のストーカーにしても、「プファイフェンベルガー」の伊藤にしても、「プレゼント」の小林にしても、「狼」の俺にしても、「戦争」の亮輔にしても。それに対して、女性陣は、皆、肝が据わっている。「ファイナルガール」のリサは、その最たるものである。彼女たちは、最早男なんかあてにしていない。これが現代社会を象徴しているとしたら、まったく困った時代になったものだ。

 

 

 

ファイナルガール (角川文庫)

ファイナルガール (角川文庫)

 

 

 

 

 

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