森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

『羊をめぐる冒険』を久し振りに読んでみた

11月の読書録04ーーーーーーー

 羊をめぐる冒険

 村上春樹

 講談社文庫(1985:1982)

 ★★★★☆

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「変な言い方かもしれないけれど、今が今だとはどうしても思えないんだ。僕が僕だというのも、どうもしっくり来ない。それから、ここがここだというのもさ。いつもそうなんだ。ずっとあとになって、やっとそれが結びつくんだ。この十年間、ずっとそうだった」

 

 

 

10月に三島由紀夫の『夏子の冒険』を角川文庫で読んだのだが、巻末の千野帽子の解説に「村上春樹の『羊をめぐる冒険』が本書のパロディあるいは書き換えであるという仮説も近年、よく目にします」とあるのを読んで、本当だろうかと思い、久し振りに『羊をめぐる冒険』を読み返してみることにした。

 

この小説の第一章には「1970/11/25」という題がついていて、これは三島由紀夫が自決した日にあたる。本文中にも「あの奇妙な午後を、僕は今でもはっきりと覚えている」とあり、大学のラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が繰り返し映し出されていたが、「我々にとってはどうでもいいことだった」と書かれている。何か意味があるようにも思われるし、単に時代を象徴しているだけのようにも思われる。これが何かを暗示しているのではないかと考える人もいるのだろう。

 

確かに『羊をめぐる冒険』には『夏子の冒険』と表層的な部分で類似点が幾つかあることを指摘できると思うが、その程度ではパロディとはいわないように思う。また、『夏子の冒険』を男の側(井田毅)の立場で考えると、夢やロマンの世界から現実の世界へと戻る物語であると読み解くことも出来るので、『羊をめぐる冒険』は『夏子の冒険』を男の側の視点で書き換えたものであると読み解くことも出来ないこともないが、類似点よりも相違点の方が大きく思われて、少し無理があるような気がする。まあ、この程度の論考ではないのだろうとは思うが、正直言って私にはよくわからない。

 

三島由紀夫の熱心な読者でも村上春樹の熱心な読者でもない私には、『夏子の冒険』を読んで羊男の気配を感じることはなかったし、『羊をめぐる冒険』を読んで人喰い熊の匂いがしてくることもなかった。ということで、この件については忘れることにした。

 

 

 

「世界は凡庸だ。これは間違いない。それでは世界は原初から凡庸であったのか? 違う。世界の原初は混沌であって、混沌は凡庸ではない。凡庸化が始まったのは人類が生活と生産手段を分化させてからだ。そしてカール・マルクスプロレタリアートを設定することによってその凡庸さを固定させた。だからこそスターリニズムはマルクシズムに直結するんだ。私はマルクスを肯定するよ。彼は原初の混沌を記憶している数少ない天才の一人だからね。私は同じ意味でドストエフスキーも肯定している。しかし私はマルクシズムを認めない。あれはあまりにも凡庸だ」

 

 

 

村上春樹の熱心な読者ではない私は『ねじまき鳥クロニクル』あたりで村上春樹を卒業している。今世紀に入ってからの作品でまともに読んだのは『海辺のカフカ』くらいなものである。『騎士団長殺し』はちょっと興味があって、書店に寄るたびに任意の個所を開いて何頁か立ち読みしてみるのだが、買って読もうという気にまではならない。

 

今回、久し振りに『羊をめぐる冒険』を読み返してみたが、文章が若々しいなと思った。主人公の何者でもないところとか、力を持つ者に対する反発心とか、喪失感とか、疎外感とか、昔この小説を読んだときの感情が思い出されて懐かしく感じた。それと同時に、過去の遺跡を訪れたようなもの哀しい感じもした。昔の「いるかホテル」が出てくると不思議な感じがするのだ。私のイメージの中では、古い「いるかホテル」はもうなくなってしまっているからだ。

 

私は、1960年代というとロックでサイケでフリーなイメージがあり、1970年代というと気だるく空虚でパンクなイメージがある。この小説は第一章で1969年と1970年で空気がガラリと変わったことを説明している。村上春樹の小説は1970年から始まることが重要なのだと思う。主人公は六十年代の雰囲気を引きずりながら七十年代の気だるい空気の中で途方に暮れている。この空気感が好きだったし、今読んでもしっくりとなじんでくる。

 

これが『ダンス・ダンス・ダンス』になると、八十年代的な浮ついた空気に主人公がとまどっている感じがするところが面白いと思う。私にとって、1980年代は浮ついたイメージしかなくて、1990年代はカオスなイメージである。私の中では1999年に地球は滅んでいる。今の地球はすでに死んでいることに気づいていない亡霊のようなものだ。だから、今の私は村上春樹の小説を必要としなくなったのだろう。それでも、この『羊をめぐる冒険』は、今でも何か特別な感じがする小説なのである。

 

 

 

「一般論は止そう。さっきも言ったようにさ。もちろん人間はみんな弱さを持っている。しかし本当の弱さというものは本当の強さと同じくらい稀なものなんだ。たえまなく暗闇にひきずりこまれていく弱さというものを君は知らないんだ。そしてそういうものが実際に世の中に存在するのさ。何もかもを一般論でかたづけることはできない」