森の踏切番日記

人生LARKしたい

ゼロから始める現代数学~『無限の果てに何があるか』を読んで

8月の読書録03ーーーーーーー

 無限の果てに何があるか

 足立恒雄

 角川ソフィア文庫(2017/02/25:2002)

 ★★★★

────────────────────


f:id:morifumikirikita319:20170819191641j:image

 

本書は、現代数学の基礎、数体系の構成、公理主義、数学的真理について解説した数学入門書である。実は、本書を読んだのは5月だったのだが、感想を書くのが面倒臭くなって放置していたのだ。今月に入って、ようやく感想を書く気になり再読したという次第。

 

文庫版のためのまえがきによると、

数学は社会や思想と無関係に存在するものではなく、むしろ、人間の言語能力から数学の諸概念が培われ、逆に数学によってわれわれは言語や思考の方法を鋭利なものに改良してきたのである。簡単に要約すれば、数学は人間の基本的な知的営為であるということ、これが、私が数学者として世間一般の読書人・知識人に伝えたいと望んだメッセージである。

という。つまり、「人間を離れて数学は存在しないのだ」ということが著者の主張するところである。

 

これは見方を変えると、「数学を知らずんば現代人に非ず」と主張しているようにも受け取れる。実際、本書の「プロローグ」には、

数学は全科学の共通言語である。その基本的理解なしに、どんな世界観を持てるというのだろうか。

と書かれている。著者は、数学は現代人の素養に必要のない学問ではないと主張しているのである。

 

従って、本書の目的は、

中世の暗闇的段階にとどまっている世間一般の数学的知識を、現代数学の基礎がかたまった二十世紀前半ころの数学のレベルにまで高めよう、

というところにある。現代数学の基本概念と数学の精神とは何かということについて考えるきっかけになる本であると云える。これは同時に、分からない人には分かってもらわなくても結構、という「独善的特権的地位にあぐらをかいている」数学界に対する批判でもある。

 

本書は、この種の数学入門書の中でも比較的本格的な内容であり、気軽に読めるという内容の本ではないが、名著であり良書であると思う。

 

 


f:id:morifumikirikita319:20170819214733j:image

レオンハルト・オイラー

 

 

第1章 虚数とは何か

第1章では現代数学において「数」がどのように定義されているかを解説している。

 

数というのは、個数、大きさ、位置などたくさんの起源から発展してきたものを思想的に把握・統一した結果、抽象的な思惟の上だけで存在することになったものである。

 

ここでは「数は方程式を解くために創造されていった」という立場で考察を進め、「整数しか知らない世界」から数を構成していって虚数まで拡張するという話をしている。体の理論のエッセンスを解説した内容と云ってよいだろう。数学の論理性と厳密性が強調されている。数を数えるという行為や幾何学の延長である古い数学観では虚数は理解できないのである。

 

数学は純粋に論理的な学問であるが、その理解のためには何らかの具体的なイメージ作りが欠かせない。歴史的には、ガウス複素数を視覚的にイメージできる「ガウス平面(複素平面)」を普及させた事が、虚数が広く認知されるきっかけになった。人類が虚数を受け入れたことが数理科学のブレイクスルーをもたらし、現代文明の礎を築いたといっても過言ではない。また、代数学の基本定理(方程式論の基本定理)とその意義が解説されている。

 

「数は方程式を解くために創造されていった」という立場で考察を進めると困ったことが起きる。実数の中には方程式の解にはならない「超越数」が存在するので、実数全体を定義することが出来ないのだ。そこで、実数を定義する別の方法を紹介している。実数の定義とその方法は意外に難しい話になるのだが、簡単に云うと実数とは無限小数であるということになる。 

 


f:id:morifumikirikita319:20170819214823j:image

カール・フリードリヒ・ガウス

 

 

第2章 三角形の内角の和はホンマに二直角か

第2章では現代数学における公理主義について解説されている。公理とは、「誰もが正しいと認める事実」という意味だと、私は理解している。

 

この章では、ユークリッド幾何の歴史を素材にして、公理という概念が「自明な命題」という地位から、一つの理論を展開する際に前提とされる「仮定命題」という地位へと変遷していく過程を話してみようと思う。

 

ここでは、ユークリッドの『原論』と平行線公準(第五公準)の解説から、ガウスロバチェフスキー、ボーヤイの三人が非ユークリッド幾何(双曲幾何)を発見する話が紹介されている。これは数学の一般向け解説書ではよく登場する話題である。双曲幾何では、三角形の内角の和は二直角より小さくなる。

 

著者によると、非ユークリッド幾何の出現によって、公理というものの性格を考え直すきっかけが与えられたことは、非ユークリッド幾何が創始されたことにも勝る数学史上の事件であったという。それが、公理が「自明に真なる命題」という意味を失い、「理論の前提となる仮定命題」へと変貌を遂げたことなのだという。

 

数学に対する世間の人たちの誤解の中でも、数学は真理、とくに物理的な真理を表していると考えているのは、いちばんの大誤解であろう。

 

数学は現実世界を忠実に反映しているという19世紀以前の考え方は正しくないということが、非ユークリッド幾何の発見の帰結なのである。そこで、数学者たちが目指したのは、自然の理とは独立した、矛盾のない、しかもすべてを証明することのできる完璧な数学の体系を作り上げることだったのだ。

 

代数学では、無定義用語というのは、単に他と区別するための言葉であると考えるという。そして、無定義用語の間の関係を記述した命題を公理としていくつか採用するという。ここでは、「関係」だけが重要なのである。こういう立場を徹底させて「公理主義」を提唱したのが、ダフィット・ヒルベルトであった。

 

数学者の自負は、「数学以外の科学に絶対的に正しい理論は原理的に存在し得ない」というところにあるようだ。

 

ある数学の理論が自然現象と合致しないとき、これは数学がまちがっているのではなく、その数学を成り立たせている前提、すなわち公理系が、自然界において満たされていないというだけのことである。

 


f:id:morifumikirikita319:20170819214933j:image

ダフィット・ヒルベルト

 

 

第3章 1+1はなぜ2なのか

代数学は「集合」を基礎としているということで、本章では集合論の基礎が解説されている。数学は、集合を唯一の原材料として作り上げられている論理体系であるとみなせるという。

 

算術をはじめとする数学は、人類が現実の存在の観察から抽出して作り上げたものではあるが、すでに思惟上の存在となっていて、物理的存在とは本質的に無関係であると言いきったほうがよい。

 

ものを数えることから始まった算術が1+1=2の真理性を保証することにはならないのである。 筒井康隆の短編小説「一について」(『エロチック街道』新潮文庫)を思い出す。

 

「そんならやな、林檎一個食うてコップ割って電話かけて昼寝して、大学一番で卒業したら1+1+1+1+1=5か。その五はいったい何をあらわしとるんや」

「そんなもん、何もあらわしてないがな。あほか」

「その『あほか』というたそのことばを一としょうか」

 (「一について」筒井康隆

 

さて、数学上の概念は、集合という言葉を使って表現できるということだが、これは大雑把にいうと、「集合とその要素であることを示す∈という記号さえあれば、そこから⇒や∧などの論理記号を用いて、ありとあらゆる数学の概念が定義できるのだ」ということであり、逆に、数学とは、「少なくとも形式上は、集合とその要素であることを示す記号∈を、論理記号と一定の規則に従って組み合わせて作り上げた体系のことである」と定義できるのだと説明されている。ところが、これだけでは不十分で、その「一定の規則」と「集合とは何か」が説明されなければならない。

 

本章は、「1+1はなぜ2なのか」を説明することを目的としているのだが、その準備として論理の記号化、すなわち、述語論理(predicate logic)が解説されている。これが、分かりやすくて良かった。述語論理の定理として重要なものに、前の記事でも出てきたド・モルガンの法則がある。

 ¬∀xP(x)⇔∃x¬P(x)

 ¬∃xP(x)⇔∀x¬P(x)

上の式は、「任意のxについてP(x)でない」と「P(x)が成り立たないようなxが存在する」とは同値であることを意味している。下の式は、「P(x)を満たすようなxが存在しない」と「どんなxをもってきてもP(x)が成り立たない」とは同値であることを意味している。¬∀は部分否定で、¬∃は全否定と考えると分かりやすいと思う。

 

これで、「1+1はなぜ2なのか」を説明できるかというと、そうはいかなくて、次に集合論の公理化をしなければならない。ここでは、集合論の基礎的な公理の一部が紹介されているが、この中では分出公理が重要だろうか。

 ∃x∀y[y∈x⇔(y∈a)∧P(y)]

これは、aが集合であるとき、

 {x│(x∈a)∧P(x)}  ※{x∈a│P(x)}と略記される

は集合をなす、という意味になる。つまり、P(x)を満たすxのうち、集合aの要素となっているものの全体は集合になる(必然的にaの部分集合になる)ということを主張している。

 

次に、自然数を定義しなければならない。この辺りになるとだんだん話が難しくなってくる。自然数の定義といえば、ペアノの公理である。まず、0を定義することから始まる。あとは、ペアノの公理を表現を変えて説明している。分かりやすい説明だったと思う。

 

続いて、帰納法公理(排他公理)から数学的帰納法が説明される。これによって、自然数の足し算とかけ算の定義が与えられるのである。これで、ようやく1+1=2であることが説明できるわけである。ここでは、自然数全体の集合Nが最小の帰納的集合であり、それにより数学的帰納法という強力な論法が確立され、自然数論が完成するという構造が強調されている。

 

本章の最後に、「数を数える」という行為に定義が与えられる。これは、つまり、「上への一対一」の写像全単射)のことである。これで、論理・集合・写像の基本が説明されたことになる。こうして、数学の抽象性が保証されるのである。教科書的には、全てが説明されたわけではないが、深い内容だったと思う。自然数が定義されれば、整数も定義できるということで、第1章につながる。

 

自然数こそは人間が作った。あとの数は論理的拡大要求に従って生じた」のである。

 


f:id:morifumikirikita319:20170819215030j:image

ゲオルク・カントール

 

 

第4章 無限とは何か

数学は無限に関する学問であり、その目的は有限の身である人間が、記号を用いて無限を理解することである。

ヘルマン・ワイル

 

最終章は、無限に関する話である。本書のこれまでの内容は、本章のためのネタ振りといってもよい。宇宙は膨張し続けているが無限ではない。宇宙の果ての先や平行宇宙については、人間には認識できない。我々が認識できる形而下の世界においては無限のものは存在しない。無限とは形而上の世界にしか存在しないのである。

 

無限はもともと非現実的存在であり、もともと思惟上の存在であり、またもともと自己否定的な要素を持った、矛盾を生じやすい概念なのである。

 

つまり、無限というのは、うっかり近づくと危険な存在なのだ。それ故に、古代ギリシア文明では無限という概念は避けられ、キリスト教文明では無限とはすなわち神であったのだ。現代数学は西洋文明から生まれたので、本書では東洋文明については言及されていないが、インド人は無限について考えていたようだ。

 

ルネッサンス以降の科学革命によって、科学者たちは無限について考えざるを得なくなる。そこで、「極限」という手法があみ出されたのである。本章でも極限、微積分学の基本が解説されている。この辺りは通い慣れた道という感じであるが、極限が厳密に定義されていく歴史的過程が要領よくまとめられていて、一読の価値があると思う。

 

高等学校の解析学は基礎がインチキだとか、怪しげだとか言われることもあるけれども、それはイプシロン・デルタ論法と呼ばれるさらに進んだ立場から見たときに言われることであって、教育的立場からは、高等学校で今日用いられている極限の導入法は、歴史的に見ても、教育的見地からも、十分に厳密で明解な方法であると評価してよい。

 

本書では、数列の収束の定義が紹介されている。直観的には「nをだんだん大きくしていけば、a[n]は限りなくαに近づく」となるが、これを述語論理を用いて厳密に命題の形で表現すると、

数列{a[n]}が数αに収束するとは、

 ∀ε>0∃n_0∀n[n>n_0⇒│αーa_n│<ε]

が成り立つことをいう。([n]と_0, _nはどちらも添字です)

教科書的にいうと、「どのような正の数ε>0に対しても、番号n[0]を適切に選ぶことにより、n[0]以上の全ての番号nについて、│αーa[n]│<εが成り立つようにできるとき、数列{a[n]}はαに収束するという」ということになる。竹内薫氏が言うところの、微積分学の教科書の最初に出てきて、多くの学生のやる気を失わせる定義ですな。教える立場の著者は、「人類の歩んだ無限に関する苦闘の長い道のりを思いやって感動を覚える」という。

 

ギリシア以来、無限には二種類あるとされてきたそうで、それは実無限(actual infinite)と潜在的無限(potential infinite)であるという。解析学で扱われるのは潜在的無限の方だという。ヒルベルトによると本来の無限はそのようなものではないという。例えば、自然数全体を考えれば、これは無限集合であって数ではなく、そのような無限、実無限が本来の姿であるという。

 

ということで無限といえば、やはりこの人、ゲオルク・カントールの登場である。まず、個数の概念を拡大した「濃度」について説明がある。カントールは無限集合の濃度の比較を研究したのだが、無限の個数を比較するという研究は、彼の生きた時代では異端視され理解されなかった。

 

自然数全体の集合Nと濃度が等しい集合のことを可算無限(countable set)という。偶数全体の集合や整数全体の集合有理数全体の集合自然数の平方全体の集合N^2も可算無限である。つまり、Nと濃度が等しい。無限集合を有限集合と同じように考えてはならない。発想の転換が必要である。

 

ところが、実数全体の集合の濃度(連続体濃度)は可算濃度よりも大きい。実数の無限は自然数の無限とは次元が異なるのだ。ここで、対角線論法が説明されるが、この説明は、さすが専門家だけあって、たいへん分かりやすかった。

 

カントールは、直線の濃度と平面R^2の濃度は等しいという本人も驚愕の結果を証明してしまう。カントールデデキントに書いた手紙の一節が、

 Je le vois, mais je ne le crois pas.

 (我見るも、我信ぜず)

この証明も本書で紹介されている。証明自体は難しくないが、発想が素晴らしい。それだけに信じられなかったのかも知れない。このあとカントールは、恩師のクロネッカーから激しく攻撃されることになる。

 

続いて、集合論の大矛盾、ラッセルのパラドクスが登場する。これには色々なバージョンがあるが有名なのは、「セビリアの理髪師は、自分で髭を剃ることのできないセビリアの男全員の髭を剃る。さて、セビリアの理髪師は自分の髭を剃るだろうか?」というものである。これは数学的にいうと、「自分自身を要素として含まない全ての集合からなる集合はそれ自身の要素であるか」ということになる。

 

ラッセルのパラドクスが意味していることは、全体集合(すべてを含む集合)は存在しないということである。つまり、どんな集合に対しても、それよりも大きな集合が必ず存在する(具体的には、べき集合)。こうして迎えた集合論の危機に、すでに心を病んでいたカントールは、益々絶望を深め、最期は痩せ衰えて死んでしまう。本書では、カントール連続体仮説選択公理については触れられていないが、それでも難しい内容である。

 

こうした集合論、ひいては数学界の危機を救おうと立ち上がったのがヒルベルトだった。彼は、数学の基礎を「有限の立場」で検証(数学が無矛盾であることを証明)しようではないかと提案したという。その手続きの第一歩として集合論を形式化したということで第3章とつながる。公理主義は第2章とつながっている。この部分の解説は少し分かりにくいが、他の類似本よりも詳しく書かれている。

 

ヒルベルトは、集合論の無矛盾性を証明するためのプログラムを掲げたわけだが、ここで登場するのが、ゲーデル不完全性定理である。

 

ひとことで言えば「自然数論を含む形式化可能な数学理論の無矛盾性を、その体系内で証明することはできない」という意外な結果だった。これを俗に表現すれば「自分の正しさは自分では証明できない」のである。

 

本書では、大雑把ではあるがゲーデルの方法が説明されている。かなりややこしい。前の記事で紹介した『眺めて愛でる数学美術館』(竹内薫著・角川ソフィア文庫)にもゲーデル不完全性定理の解説があるが、本書では省略された、対角線論法を使った部分の解説なので本書と併せて読むと見通しが良くなった。とは言うものの、大雑把な説明であるし、高度な理論なので、私の理解力では数学的に理解できたとは言い難い。何となく雰囲気が伝わってきたという程度である。

 

ゲーデルの第一不完全性定理 自然数論を含むような再帰的体系Sが無矛盾であれば、それ自身もその否定も証明できないような命題がSの中に必ず存在する。

ゲーデルの第二不完全性定理 自然数論を含むような再帰的体系Sの無矛盾性を、S内で形式化された論証でもって証明することはできない。

 

ゲーデルの業績は人類の知性の到達しえた最高峰と言え、また人知の勝利と言うべきだが、その内容が人知の限界を教えているというのは、まことにもって皮肉と言わねばならないであろう。

 

こうして、ゲーデル不完全性定理ヒルベルトのプログラムに、致命的な打撃を与えたのだった。無限の果てにあるもの、それは決して手の届かない真理ということか。

 


f:id:morifumikirikita319:20170819215141j:image

クルト・ゲーデル

 

 

本書で取り上げられた話はここまでだが、この続きとして、1963年にポール・コーエンがカントール連続体仮説は決定不可能であることを証明した。連続体仮説は人類の手に届かない所にあるのだ。ただし、これは現行の公理系では連続体仮説は証明できないということであるらしい。連続体仮説の真偽を証明できる、人類が知らない公理系があるかも知れない。無限の果てを探る旅はまだまだ続いているのだという。

 

数学の本質は、その自由性にある。

ゲオルク・カントール

 

 

 

無限の果てに何があるか 現代数学への招待 (角川ソフィア文庫)
 

 

 

📄関連図書

読む数学 (角川ソフィア文庫)

読む数学 (角川ソフィア文庫)

 

🐱★★★☆

🐱こちらも数学入門書だが、より基本的な内容になっている。ペアノの公理ユークリッドの第五公準などを取り上げている。

 

 

🐱★★★★

🐱こちらは、数列をテーマにした数学入門書。『読む数学』よりも数学的な内容。「数列と集合論」で対角線論法を取り上げている。先生によって説明の仕方が異なるので、読み比べてみると面白い。

 

 

 

非ユークリッド幾何の世界 新装版 (ブルーバックス)

非ユークリッド幾何の世界 新装版 (ブルーバックス)

 

🐱★★★★

🐱本書で紹介されている。昔読んだ記憶がある。後半は数学的な内容だが、前半の読み物のパートは読み応えがあって面白い。

 

 

 

「無限」に魅入られた天才数学者たち (〈数理を愉しむ〉シリーズ)

「無限」に魅入られた天才数学者たち (〈数理を愉しむ〉シリーズ)

 

🐱★★★☆

🐱ギリシア文明における無限の発見から人類が無限といかにして向き合ってきたのか、ユダヤ教カバラにまで言及しているが、メインはゲオルク・カントールである。カントールの人生とその数学的業績が詳しく紹介されている。連続体仮説選択公理ゲーデル不完全性定理との関係は難解。コーエンの証明やその後の展開までフォローしている。

 

 

 

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

 

🐱★★★★

🐱数学の一般向け解説書の歴史的名著。ヒルベルト・プログラムからゲーデル不完全性定理、コーエンの証明までが紹介されている。