森の踏切番日記

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平野啓一郎『マチネの終わりに』を読む~凡庸な人間の愚かな行為が歴史を動かす

読書録2018ーーーーーーーーー

マチネの終わりに

平野啓一郎

毎日新聞出版(2016/04/15)

★★★★

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何で読んだかは忘れてしまったのだが、天才というのは指数関数なのだという意見を読んで、なるほどと思ったことがある。これを私なりの理解で説明すると以下のようになる。

 


f:id:morifumikirikita319:20180801135853j:image

 

指数関数というのは、

 y=a^x(aは定数/a^xはaのx乗)

であらわされる初等超越関数の1つで上のようなグラフになる。ここでは分かりやすいように、a=10の場合、つまり、

 y=10^x

で考えてみよう。グラフは上図の右肩上がりの太い実線のようになる。xに0から9までの整数を代入すると、

 x=0のとき y=1

 x=1のとき y=10

 x=2のとき y=100

 x=3のとき y=1000

 x=4のとき y=10000

 x=5のとき y=100000

 x=6のとき y=1000000

 x=7のとき y=10000000

 x=8のとき y=100000000

 x=9のとき y=1000000000

となる。才能を数値化できると仮定して、たとえば平均的な人間(現実にはそんなヤツはいないが)の才能を1として、その天才指数を0とすると、歴史に残るような大天才の天才指数は9となり、その才能は1000000000であるというわけである。つまり、yは才能の大きさを表していて、xはその天才の度合いを指数化している(その意味では対数関数にした方がよいのだが話が難しくなるので)。

この場合、xが1増加するときのyの増加分は順に、

 9

 90

 900

 9000

 90000

 900000

 9000000

 90000000

 900000000

となり、xの値が大きくなるにつれてyの値が急激に増加することがわかる。これが「指数関数的」と形容される増加である。つまり、才能というのはレベルが上がるにつれて、その差は急激に大きくなるというのである。天才指数0の凡人でも、努力を怠らなければ、天才指数1や2にはレベルアップすることはできようが、レベルアップすればするほど、その坂は急になるのである。従って、凡人がどんなに頑張っても天才に追いつくことはできない。ゆえに、天才というのは孤高の存在なのである。

ところが、悲しいかな凡人には天才の真の偉大さが理解できない。なぜならば、凡人はyの値を見ずにxの値の方を見て才能を判断しているからである。天才指数0と1の間も8と9の間も同じ1やん何がちゃうねん、という誤解をして疑わない。天才指数9の大天才の真の偉大さを理解できるのは、同レベルの大天才か、あるいは、天才指数8の天才だけである。天才指数8の天才は、天才指数9の大天才の高みを見上げて愕然とするのである。ときには自らの命を絶ってしまいたくなるほどに。ゆえに、真の天才というのは孤独な存在なのである。

「天才」というと、一石さんを連想してしまう凡庸な私は、一石さんはすごい人だとは思うのだが、一石さんの真の偉大さを本当に理解できているかというと、心許ないものがある。一石さんの脳をスライスしたところで天才の真実は分かるまい。

 

この『マチネの終わりに』には、クラシックギターの天才(蒔野聡史)が登場する。天才にもいろいろあるが、芸術の天才というのは特異な存在ではないだろうか。私はロックしか聴かないので天才ギタリストというとギターを抱いて寝る人を連想する。

このクラシックギターの天才は四十代に入って深刻なスランプに陥っている。天才のスランプというのは、凡人の理解の範疇を超えるので分からないというよりない。四十代は人生の転機だよね、というような簡単な話ではないように感じる。

そんな絶賛スランプ中の天才が「運命の女性」と衝撃の出会いをする。矢沢永吉風に言うと(私の記憶が正しければ)「地獄の女」である。恋に落ちるのに、年齢も立場もTPOも関係ない。落ちるときには落ちてしまうのが恋というものなのだ。ミック師匠も「愛は光の速さで訪れる」て歌ってはるしね。光速で来られたら避けようがありません。

女性(小峰洋子)の方も彼に対して人生初とも云える恋愛感情を持つ。まさに運命的な出会いである。こういう出会いは一体どれくらいの確率で起こるものなのだろうか、「運命の女性」に出会ったことのない私には分からない。世間には運命的な出会いだというカップルは数多いるが、ほとんどは勘違いか思い込みに過ぎない。

この女性はジャーナリストで、自立していて、理知的でエレガントな美人さんで、何か特別な雰囲気を持っている。私も惚れた、会話に苦労しそうだけれど。主人公が芸術家であることを考えると、彼女は芸術家にインスピレーションをもたらすミューズ的存在かと思った。しかしながら、彼女が彼のスランプに良くも悪くも何か影響を及ぼしたかというと、そうは思わない。天才のスランプというのは、もっと根の深い所に原因があるように思われる。

 

実は、この小説は今年の2月頃に読み始めたのだが、一度読むのを止めている。どこで中断したかというと、「第六章 消失点」の途中、三谷の偽メール事件の所(215頁)である。三谷はまったく凡庸な女性である。凡庸な人間である私は、天才の心情は分からないが凡庸な人間の心情はよく理解できるので、彼女の心理や行為は身に突き刺さってくる。

いくらなんでも、それだけはやっちゃいかんだろ。たとえ上手くいっても誰も幸せにならんだろ。わかっているだろうに。でも、やっちゃうんだよなあ。あ~あ、やっちゃった。絶対後悔するね。後で罪の意識がジワジワ身を焦がすんだよね。我々はエピメテウスの子孫だからね、仕方ないね。

この瞬間、この後の展開が私の中で組み上がってしまい、ストーリーを勝手に作り上げてしまった。凡庸な人間である私には凡庸な人間の方が感情移入しやすいので、三谷に感情移入してしまって、やり切れなくなって、ここで読むのを中断したのだった。

この時点で、私はこの小説を天才とミューズと凡人のいびつな三角関係として読んでいたようである。凡人のつかの間の勝利。恋愛は人を愚かにする。

 

押し入れのダン箱から黄ばんだ薄っぺらい新潮文庫を取り出す。トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル/ヴェニスに死す』である。高校時代に買って読んで、よく分からなかった思い出の小説である。大人になってから再読して、何となく分かるようになったような気がした。これは訳者(髙橋義孝)の「あとがき」からの受け売りだが、感情と思想、感性と理性、美と倫理、陶酔と良心、享受と認識といった二項対立が芸術家の内面で葛藤する中で、『ヴェニスに死す』のアシェンバハは前者に敗北してしまうのだ。それが芸術家の「死」である。タドゥツィオ(タッジオ)は前者を象徴している。

洋子は蒔野のタッジオではないし、蒔野も洋子のタッジオではない。「真」であろうか。

 

先月、この小説が映画化されるというニュースを読んだ。実は、妹が福山雅治ファンで原作を読みたそうにしているのだ。読書の習慣のない妹に本を貸すとなかなか帰ってこない可能性があるので、思い切って残りを読んでしまうことにした。

後半は一気に読んだ。私が勝手に作り上げてしまったストーリーは、当たらずと雖も遠からずという感じだったが、当然のことながら本物は、はるかに上をいく内容で読んでいて心地よかった。特にラストはエレガントな収束で胸に迫るものがあった。

リチャードにしても岡島にしても、俗物の行動や心理は分かりやすい。三谷も彼らと同レベルに過ぎない。最後は自分が楽になりたいばっかりにゲロするし。三谷がやったことは道義的には許されるものではないが、種の保存を本能とする「利己的な」生命体としては正しく行動したと云える。凡庸な人間が優秀な遺伝子を獲得するためには手段など選んではいられない。その意味では、蒔野も洋子も内的な問題を抱えていたとはいえ、彼らの恋愛は少し上品過ぎるかなという気がしないではない。洋子はやっぱりミューズかなと思う。

また、この小説には激動する歴史の様相が背景として的確に描かれていて、現代的な種々の問題が織り込まれていることも印象に残った。

 

 

過去と未来の境界に現在は存在するが、過去と未来が存在するから境界として現在が存在するわけではない。時間は一次元なので直線で表される。直線上に「今」という点を打つから直線が過去と未来に分断されるのである。

固定された「今」という時間は無い。固定された過去も未来も存在しない。「今」は直線上を移動する動点である。一瞬ごとに「今」は変化している。従って、過去も未来も一瞬ごとに更新される。

我々は過去も未来も認識することはできない。我々が認識できるのは「今」という瞬間だけである。我々が云うところの「過去」とは、すなわち、記録と記憶のことである。記録も記憶も残らない過去は存在しないのと同様である。また、我々が云うところの「未来」とは、予感と希望的観測に過ぎない。

記録も記憶も永遠不変なものではなく、どちらも改変可能である。従って、過去は常に不安定である。予感も希望的観測も曖昧なものである。だから、未来は常に揺らいでいる。

 

 

 

 

マチネの終わりに

マチネの終わりに