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森の踏切番日記

人生LARKしたい

修善寺大患日記

漱石鏡子夫妻まとめ(8)

🐱土曜ドラマ夏目漱石の妻]に合わせて、漱石鏡子夫妻についてまとめております。今回はドラマ第4回の山場になるであろう「修善寺の大患」についてまとめたいと思います。

 

 

 

◾明治40年から専業作家となった漱石の神経衰弱はおさまったが、今度は胃病に悩み始めた。これは、英国留学時代の不摂生が影響しているのではないかと云われている。

 

 

◾明治42年の夏には、中村是公より満韓旅行に招待されたが、急性胃カタルの発作で出発を延期している。(この時期、養父塩原昌之助から金を無心されているが関係ないだろう)

 

 

◾明治43年6月18日、胃潰瘍のため、内幸町の長与胃腸病院に入院、7月31日、退院した。

 

 

◾同年8月6日、修善寺温泉に転地療養に赴く。この頃の日記を読むと容態が悪化していく様子が分かる。折悪しく大雨で水害が発生し、交通通信が寸断され、川は氾濫し、家々は流され大変な事になっていた。

 病んで夢む天の川より出水かな

 

 

◾8月21日頃、鏡子夫人は修善寺に到着したようだ。その夜、修善寺に花火が上がり漱石は寝ながら見物している。

 萩に置く露の重きに病む身かな

 

 

◾8月24日、吐血して三十分間人事不省に陥り、危篤状態になる。

 ※この日から9月7日まで漱石の日記を鏡子夫人が代わりに書いている。

 

◾8月24日付の日記より

朝より顔色悪し。杉本副院長午後四時大仁着にて来る。診察の後夜八時急に吐血五百ガラムという。のうひんけつをおこし一時人事不省。カンフル注射十五、食えん注射にてやや生気つく。皆朝までもたぬ者と思う。

社に電報をかける。夜中ねむらず。

 

◾8月25日付日記より

朝容態を聞けば、きけんなれどごく安静にしていればもちなおすかも知れぬという。杉本氏帰る。

※この後、関係者、門下生、親族が続々と見舞いに訪れる。漱石の兄姉、筆子・恒子・栄子、中根倫も訪れている。

 

◾8月29日付日記より

晴。容態良好にてこの分ならば心配なしとの事。皆安心して東京へ帰られる。

※この日の日記に鏡子夫人は初めて天気を記している。この一文字に鏡子夫人の安堵感がこめられていると思う。

 

 

◾9月8日付日記より(この日から漱石の日記が復活する)

われよりいえば死にたくなし。ただ勿体なし。

 別るるや夢一筋の天の川

 

 

◾9月11日付筆子・恒子・栄子にあてた手紙より

けさ御前たちから呉れた手紙をよみました。三人とも御父さまの事を心ぱいしてくれて嬉しく思います。

この間はわざわざ修善寺まで見舞に来てくれてありがとう。びょう気で口がきけなかったから御前たちの顔を見ただけです。

この頃は大分よくなりました。今に東京へ帰ったらみんなであそびましょう。

御母さまも丈夫でここに御出です。

るすのうちはおとなしくして御祖母さまのいうことをきかなくってはいけません。

三人とも学校がはじまったらべんきょうするんですよ。

御父さまはこの手紙をあおむけにねていて万年ふででかきました。

からだがつかれて長い御返事が書けません。

御祖母さまや、御ふささんや、御梅さんや清によろしく。

今ここに野上さんと小宮さんが来ています。

東京へついでのあった時修善寺の御見やげをみんなに送ってあげます。

さようなら。

※筆子11歳・恒子9歳・栄子6歳であった。修善寺の大患の後、漱石は優しい父親に変身したそうだ。それでも、筆子と恒子は幼少期のトラウマが残りビクビクしていたそうだが。

 

 

◾9月13日付日記より

昨日より妻頭病むとて寐る。

四時頃突然ビスケット一個を森成さんが食わしてくれる。嬉しい事限なし。

 

◾9月14日付日記より

二兄皆早く死す。死する時一本の白髪なし。余の両鬢漸く白からんとしてまた一縷の命をつなぐ。

 生き残るわれ恥ずかしや鬢の霜

 

 ◾9月16日付日記より

昨夜重湯を呑む。まずき事甚だし。

ビスケットに更える事を談判、なかなか聞いてくれず。

重湯・葛湯・水飴の力を借りて仰臥、静かに衰弱の回復を待つはまだるこき退屈なり。併せて長閑なる美わしき心なり。年四十にして始めて赤子の心を得たり。この丹精を敢てする諸人に謝す。

 

◾9月18日付日記より

今日は体力回復と思う。明日になるとそれはイリュージョンである。今日は切実に何か思う。明日になるとそれがイリュージョンである。

 

◾9月20日付日記より

間食にミルクとカジノビスケットを食うはまるで赤子也。

粥を口に運んでもらう処は赤子也。

※寝ながら難しい本を読むのは困難でないのに、起き直って便器にかかる事は「一世の大事業の如く」困難なのは不思議だと鏡子夫人に話すと、「あなたは悪かった二、三日頭が判然し過ぎてみんな困りました」と返されている。

 

◾9月21日付日記より

昨夜始めて普通の人の如く眠りたるの感あり。節々の痛、柔らぎたるためか。体力回復のためか。

 起きもならぬわが枕辺や菊を待つ

爽颯(そうさつ)の秋風緣より入る。

嬉しい。生を九仞に失って命を一簣(いっき)につなぎ得たるは嬉しい。

 生き返るわれ嬉しさよ菊の秋

※この頃から俳句の他に漢詩も混じり始める。

 

◾9月26日付日記より

昨夜始めて起き直って食事。横に見る世界と竪に見る天地と異なる事を知る。食事うまし。夜に入って元気あり。妻から失神中の事をきく。失神中にも血を吐いて妻の肩へ送れる由。その時間は三十分位注射十六筒という。坂元がふるえて時々奥さんしっかりなさいといった。電報をかけるのにふるえて字が書けなかった由。

 竪に見て事珍らしや秋の山

病床のつれづれに妻より吐血の模様をきく。慄然たるものあり。危篤の電報を方々へかけたる由。妻は、五、六日何も食わなかった由。

顧みれば細き糸の上を歩みて深い谷を渡った様なものである。

杉本氏帰る時もう一度吐血すれば助からぬ由を妻にいえる由。

※坂元は朝日新聞社社員・坂元雪鳥のこと。

 

◾10月10日付日記より。(帰京の前日)

 足腰の立たぬ案山子を車かな

 骨ばかりになりて案山子の浮世かな

※自身を案山子に見立てている。

 

◾10月11日、帰京。直ちに長与胃腸病院に入院。翌年2月26日まで病院生活を送る。

「終日雨」

 

 

 

漱石日記 (岩波文庫)

漱石日記 (岩波文庫)

 

😸★★★★☆

🐱文庫版には、

「ロンドン留学日記」明治33年9月8日より明治34年11月13日まで

「『それから』日記」明治42年5月31日より8月14日まで

「満韓紀行日記」明治42年9月6日より10月13日まで

修善寺大患日記」明治43年8月6日より10月11日まで

「明治の終焉日記」明治45年6月10日より大正元年8月1日まで

「大正三年家庭日記」大正3年10月31日より12月8日まで

「大正五年最終日記」大正5年4月23日より7月27日まで

が収録されている。漱石はまめに日記をつけるタイプではなかったのか日記は部分的にしか残っていない。文庫版には全集に収録されている全日記のうち、およそ半分が収められている。全集には他に「断片」と呼ばれるメモが多数収録されている。

🐱「大正三年家庭日記」は「硝子戸の中」を連載する直前にあたるが、かなり病んだ内容。「妻は私が黙っていると決して向うから口を利かない女であった」「妻は朝寝坊である。小言をいうとなお起きない」 などの記述がある。何故この時期だけこの様な日記を書いたのか、『道草』のための準備なのか、本気で書いているのか、よく分からない。

🐱漱石は日記も書簡も面白い。

 

 

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

 

😻★★★★★

🐱「文鳥」「夢十夜」「永日小品」「思い出す事など」「ケーベル先生」「変な音」「手紙」を収録。このうち、「思い出す事など」に修善寺大患時の様子が描かれている。病床で自身が考えた事を冷静に振り返っていて、病床で作った俳句と漢詩も掲載されている。日記と読み比べると面白い。

 

 

 

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