漱石鏡子夫妻まとめ(7)
🐱土曜ドラマ「夏目漱石の妻」に合わせて漱石鏡子夫妻についてまとめております。今回は漱石の書簡から、ごく一部を紹介したいと思います。
◾明治24年(1891)7月18日正岡子規あて書簡より
昨日眼医者へいつたところが、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね、ー銀杏返しに竹なわをかけてー天気予報なしの突然の邂逅だからひやつと驚いて思はず顔に紅葉を散らしたね。まるで夕日に映ずる嵐山の大火の如し。
🐱24歳の金之助青年はしゃいでおります。金之助にとって、正岡子規は何でも話せる親友だったことが子規宛の書簡からよく分かる。
◾明治37年(1904)6月3日野村伝四(門下生)あて書簡より(大塚楠緒子について)
『太陽』にある大塚夫人の戦争の新体詩を見よ。無学の老卒が一杯機嫌で作れる阿呆陀羅経の如し。女のくせによせばいいのに。
🐱漱石と楠緒子の間に何かあったのではないかという論考もある。楠緒子の夫の保治は、旧姓小屋(おや)といい大塚家に婿養子に入っている。保治は漱石の学友で、結婚披露宴には漱石も出席している。漱石が保治に譲ったという説もある。漱石自身も冗談めかして話題にすることもあったそうで、多分何も無かったと思う。
◾明治38年(1905)7月16日中川芳太郎(門下生)あて書簡より
しかし『猫』をかいて先月十五円貰ったから早速パナマ帽をかって大得意で被っている所などは随分子供のようだ。
🐱ドラマ第3回のパナマ帽の場面はこの事実を基に創作したようだ。あの場面の竹中直人はアドリブが入っていたのでは。オノマチがちょっと引いてたと思う。『吾輩は猫である』の第6章にもパナマ帽が登場する。
◾同年10月12日鈴木三重吉(門下生)あて書簡より
小生も君のように敬慕してくれる人があると大分えらいようですが、裏の中学生や前の下宿のゴロツキから馬鹿にされる所を見ると一文の価値もないグータラですよ。世の中は妙なものであります。
🐱鈴木三重吉は漱石を尊敬し過ぎて神経衰弱になっている。漱石は慰めたり励ましたり苦言を呈したり親身になって心配していることが書簡の文面からよく伝わってくる。
◾同年11月10日鈴木三重吉あて書簡より
『猫』の初版は売れて先達印税をもらいました。妻君曰く、これで質を出して、医者に薬礼をして、赤ん坊の生れる用意をすると。あとへいくら残るかと聞いたら一文も残らんそうです。いやはや。
🐱漱石は割と率直に自分のことを門下生あての書簡に書いている。他の書簡では「学生なんか友達のような気がする」と書いている。
◾明治39年(1906)2月15日森田草平(門下生)あて書簡より
君なども死ぬまで進歩するつもりでやればいいではないか。作に対したら一生懸命に自分のあらん限りの力をつくしてやればいいではないか。後悔は結構だがこれは自己の芸術的良心に対しての話しで世間の批評家や何かに対して後悔する必要はあるまい。
🐱漱石はどの門下生に対しても本当に親身になって接している。漱石は家庭人としては欠点の多い人であったが、教師としては真に立派な教師だったと思う。門下生は漱石を尊敬し過ぎで甘え過ぎだとも思うけれども。あと、漱石の文章は当て字とかが多いので注意。「一生懸命」はそのまま引用した。
◾同年10月26日鈴木三重吉あて書簡より
僕の教訓なんて、飛んでもない事だ。僕は人の教訓になるような行をしてはおらん。僕の行為の三分の二は皆方便的な事で他人から見れば気違的である。それで沢山なのである。現在状態がつづけば気違である。死んでから人が気違ときめてしまったって少しも恥とも何とも思わない。現在状態が変化すればこの狂態もやめるかも知れぬ。そうしたら死んで君子といわれるかも知れん。つまり一人の人間がどうでもなる所が愉快で人には分からないからいい。
🐱漱石先生、今回のドラマ化を予測していたかのようである。
◾同年12月22日小宮豊隆(門下生)あて書簡より
世の中に何がつまらないって、おとっさんになるほどつまらないものはない。またおとっさんを持つより厄介な事はない。僕はおやじで散々手こずった。不思議な事はおやじが死んでも悲しくも何ともない。
🐱小宮豊隆は漱石を父親のように慕っていたらしい。漱石は自分は「先生にして友達なるもの」だと返している。小宮は山田房子と縁談があったが破談したそうだ。
◾明治40年(1907)7月23日野間真綱(門下生)あて書簡より
夫婦は親しきを以て原則とし親しからざるを以て常態とす。
細君は始めが大事也。気をつけて御し玉え。女ほどいやなものなし。
🐱漱石は門下生相手に鏡子夫人の悪口を言っていたようで、それも漱石死後に門下生達が鏡子夫人悪妻説を流布した要因になっているのではないかと思う。
◾同年8月6日小宮豊隆あて書簡より
僕が洋行して帰ったらみんなが博士になれ博士になれといった。新聞屋になってからそんな馬鹿をいうものがなくなって近来晴々した。世の中の奴は常識のない奴ばかり揃っている。そうして人をつらまへて奇人だの常識がないのと申す。御難の至である。
◾同年8月16日中村蓊(門下生)あて書簡より
細民はナマ芋を薄く切って、それに敷割などを食っている由。芋の薄切は猿と択ぶ所なし。残忍なる世の中なり。しかして彼らは朝から晩まで真面目に働いている。
岩崎の徒見よ!!!
🐱「岩崎の徒」は岩崎弥太郎を代表とする実業家たちを指す。漱石は金権主義に対する嫌悪感が大きかった。
◾明治41年(1908)7月1日高浜虚子あて書簡より
盆につき親類より金を借りに参り候。小生から金を借りるものに限り遂に返さぬを法則と致すやに被存甚だ遺憾に候。おれが困ると餓死するばかりで人が困るとおれが金を出すばかりかなあと長嘆息を洩らし茲に御返事を認め申候。
😻★★★★★
🐱 門下生あての書簡は本当に親身になって叱咤激励している。他に自身の作品についてや他の作家の作品について書かれた書簡など重要な書簡も多く収められている。また、鏡子夫人にあてた書簡も多く収められている。
ここでは手軽な文庫版を紹介しておきます。
漱石は書簡も日記も面白い。
「夏目漱石の妻」のセット。忠実に再現している。
銀杏返し。「竹なわ」は調べたが分からなかった。漱石の小説には銀杏返しの女性がよく登場する。
🐱ドラマ第3回で、鏡子は漱石の兄直矩の所へ塩原について聞きに行っているが、『道草』でも御住(鏡子がモデル)は、夫の兄の所へ行っている。『道草』では、夫の養父母が次々とやって来る事に御住は、かえって面白がっている。ドラマ原作『漱石の思ひ出』によると、鏡子夫人は塩原昌之助の事はあまり知らなかったようで、塩原については、あまり触れられていない。🐥
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