🙀12月9日は、漱石の命日。なむなむ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
京における夏目漱石
🐱漱石は、生涯で四度、京都を訪れている。
◾明治25年(1892:25歳)7月、正岡子規とともに京都、大阪、堺を旅行。
🐱7月8日京都着、麩屋町通り姉小路上ルの柊屋に宿泊。翌日、山端の平八茶屋を訪れ、比叡山に登る。その夜、円山公園や清水寺辺りを歩いたようである。10日、大阪へ向かう。
🐱このあと漱石は、岡山の亡兄直則の妻小勝の実家に一ヶ月滞在し、洪水に遭遇。8月には、松山の子規を訪ねて滞在している。その時、高浜虚子と初対面する。
子規と共に京都の夜を見物に出たとき、始めて余の目に映ったのは、この赤いぜんざいの大提灯である。この大提灯を見て、余は何故かこれが京都だなと感じたぎり、明治四十年の今日に至るまでけっして動かない。(「京に着ける夕」明治40年)
三十六峰我も我もと時雨けり (明治28年)
日は永し三十三間堂長し (明治29年)
◾明治40年(1907:40歳)3月28日から京都、大阪旅行。4月12日、帰京。
🐱朝日新聞社に入社を決めた漱石は朝日新聞社長村山龍平等と会談するために大阪を訪れるが、そのついでに京都帝国大学文科大学長の狩野亨吉に招かれて京都に滞在している。狩野は下賀茂村の糺の森に住んでいた。狩野の家には、学生時代からの漱石の友人である管虎雄(当時三高教授)も同居していた。
ただでさえ京は淋しい所である。
🐱漱石は、この旅行の京都に着いた夜の印象を「京に着ける夕」に描いているが、当夜は、かなり底冷えのする夜だったようだ。
東京を立つ時は日本にこんな寒い所があるとは思わなかった。
そして、思い出したのは十五年前に共に訪れた子規の事だったようだ。「京に着ける夕」には子規の思い出が綴られている。
春寒の社頭に鶴を夢みけり
🐱漱石は、管の案内で相国寺、建仁寺などの寺を訪れたり、嵯峨野、嵐山を訪れたり、保津川下りを体験したりしている。4月9日には、狩野と管と三人で八瀬から比叡山に登っている。これらの見聞が『虞美人草』に活かされている。
🐱4月10日、奈良へ旅行する途中の高浜虚子が、京都に立ち寄り、春雨の中下鴨に漱石を訪ねる。その日は狩野も管も不在で漱石一人だった。虚子は、漱石を午飯に誘い二人は平八茶屋に行っている。
🐱その後二人は、虚子の宿泊する三条の万屋に行くのだが、そこで、女中の態度が気に入らなかったのか漱石は、突然、ブラック漱石に変身して虚子を当惑させている。(お風呂に入って機嫌が直る)
🐱それから、二人は花見小路を通って都踊りを観に行く。その後、虚子は漱石を一力に誘っている。これが漱石のお茶屋デビューである。漱石は上機嫌だったという。二人はその夜、一力に泊まっている。
※一力亭は、四条花見小路東南角。
私は京都に来て禅寺のような狩野氏の家に寝泊まりしていて、見物するところも寺ばかりであった漱石氏を一夜こういう処に引っぱって来た事に満足を覚えた。
◾明治42年(1909:42歳)10月、満韓旅行の帰途、大阪、京都を廻る。
🐱9月2日に、中村是公より招待されて満韓旅行に旅立ち、6日、大連着。旅順や奉天、ハルピンなどを歴遊。28日、平壌着。京城、仁川などを歴遊。10月14日、馬関着。17日に帰京しているので、その間に京都に立ち寄ったようである。
◾大正4年(1915:48歳)、3月19日、京都に旅行。五度目の胃潰瘍で倒れる。
🐱この時期は、『硝子戸の中』の連載を終え、『道草』の連載を始める前にあたる。京都出身の津田青楓が京都に戻っていて、気分転換にと漱石を誘い、『道草』連載の前に「呑気に遊びたい」と思っていた漱石は京都旅行を決めたと云われている。
🐱津田青楓(1880-1978)は画家で明治44年から小宮豊隆の紹介で漱石山房に出入りするようになった。鏡子夫人が漱石の気分転換を津田に頼んだという話もある。(千駄木時代に鏡子夫人は虚子にも同様の事を頼んだことがある)
津田青楓筆「漱石山房と其弟子達」
🐱3月19日午後7時30分、京都着。雨。津田青楓が迎えに来ていて、木屋町三条上ルの北大嘉に宿を取る。
🐱20日、青楓の実兄で華道家の西川一風亭(1878-1938)と三人で一力を訪れる。この日は、大石忌(大石内蔵助の命日)である。この後、清水寺辺りを廻り、晩食に磯田多佳を呼んで四人で十一時まで語ったと、漱石の日記にある。この時が、磯田多佳との初対面である。「腹いたし」ともある。
🐱磯田多佳(1879-1945)は、祇園白川の茶屋大友(だいとも)の女将。絵画・歌・俳句などをたしなみ名物女将として有名だった。
磯田多佳
🐱21日、西川一風亭の招きで富小路御池の西川邸の去風洞を訪れる。ここで、松清の懐石料理がふるまわれる。松清は鯉が名物で、献立は、鯉こく、鯉の飴煮、鯛のお造り、鯛の甘煮、海老の汁などといったものであった。漱石は、茶室の様子や料理の献立などを克明に日記に記録している。「寒きこと夥し」ともある。余程寒かったのか、主人に向かって、
「こんな家は只でも嫌だね」
と、言っている。
🐱23日の日記に「腹具合あしし」とある。いろいろ飲み食いして、胃の状態が悪化したものと思われる。
🐱24日、御多佳さんに北野天満宮に連れて行ってもらう約束をしていたのだが、すっぽかされてしまう。腹具合も悪いし寒いしで、すっかり不機嫌になった漱石は、東京へ帰ると言い出す。驚いた青楓は、御多佳さんに取りなしてもらうように頼み込む。
🐱25日、御多佳さんが、漱石ファンの芸妓、野村きみと梅垣きぬを連れて来る。きぬは「金之助」の名前で座敷に出るほどの漱石ファンであった。漱石の機嫌は直った。
🐱ところが、30日、急に胃が悪化した漱石は倒れてしまい、御多佳さんの家で二日も病臥する。ここは、谷崎潤一郎の「磯田多佳女のこと」から磯田多佳の「洛にてお目にかかるの記」を引用する。
我が一生の内病気なればこそぎおんのお茶屋で二夜もとまるとは思ひもよらぬこととお笑ひになる、私のうちも先生のやうなお方を病気のおかげでとまつて貰ひました、一生の語り草とみなみなしてしみじみ語る
この時、きみさんも金之助さんも看病したらしい。この年の漱石の句に、
紅梅や舞の地を弾く金之助
がある。
🐱谷崎によると、磯田多佳の一周忌の追善の演芸会が催された時、故人の遺影と遺墨と共に漱石の軸が掲げてあったという。その軸が、「木屋町に宿をとりて川向のお多佳さんに」と云う前書きのある
春の川を隔てて男女かな
であった。
御池大橋西詰南にある句碑
※出典:Wikipedia(mariemon)
😽漱石が倒れて、驚いた青楓は、すぐに鏡子夫人に連絡をとり、迎えに来て貰う。駆けつけた鏡子夫人は、ちゃっかり京都見物に出掛けたとか。間食を禁じられていた漱石は、腹いせにせんべいなどをバリバリ貪り食ったとか。(自爆行為)
◾4月17日、鏡子夫人と共に帰京。
「椿俳賛」大正4年、漱石が京都に遊んだ時のもの
椿とも見えぬ花かな夕曇
◾大正4年5月3日付、磯田多佳あて書簡より
御前は僕を北野の天神様へ連れて行くといってその日断りなしに宇治へ遊びに行ってしまったじゃないか。ああいう無責任な事をすると決していいむくいは来ないものと思って御出で。本がこないといっておこるより僕の方がおこっていると思うのが順序ですよ。
うそをつかないようになさい。天神様の時のようなうそを吐くと今度京都へ行った時もうつきあわないよ。以上。
◾大正4年5月16日付、磯田多佳あて書簡より
あなたをうそつきといった事についてはどうも取り消す気にはなりません。あなたがあやまってくれたのは嬉しいが、そんな約束をした覚がないというに至ってはどうも空とぼけてごま化しているようで心持が好くありません。あなたは親切な人でした。それから話をして大変面白い人でした。私はそれをよく承知しているのです。しかしあの事以来私はあなたもやっぱり黒人(くろうと)だという感じが胸に出て来ました。
私があなたをそらとぼけているというのが事実でないとすると私は悪人になるのです。それからもしそれが事実であるとすると、反対にあなたの方が悪人に変化するのです。そこが際どいところで、そこを互に打ち明けて悪人の方が非を悔いて善人の方に心を入れかえてあやまるのが人格の感化だというのです。
あなたは私をまだ感化するほどの徳を私に及ぼしていないし、私もまたあなたを感化するだけの力を持っていないのです。私は自分の親愛する人に対してこの重大な点において交渉のないのを大変残念に思います。
女将の料簡で野暮だとか不粋だとかいえばそれまでですが、私は折角つき合い出したあなたに対してそうした黒人向きの軽薄なつき合いをしたくないから長々とこんな事を書き連ねるのです。
私にはあなたの性質の底の方に善良な好いものが潜んでいるとしか考えられないのです。それでこれだけの事を野暮らしく長々と申し上げるのですからわるく取らないで下さい。また真面目に聞いて下さい。
🐱漱石は、正直を尊び、嘘を憎む人であったので、すっぽかされた事よりも嘘をつかれた事の方が引っ掛かったのだろうか。この書簡が残されていることや漱石の句を軸にして死ぬまで手元に置いておいたことなどを考えると、御多佳さんも漱石の真意を理解したのではないかと思われる。
🔘NHK BSプレミアム・ドラマ『漱石悶々』
🐱それにしても、NHKは、文豪を使って遊び過ぎではないか? このドラマの感想を書く予定はありません。なんか、アンドロイド漱石に見える。
🐱この記事のタイトルの駄句「春寒み胃がいたむなり京のこひ」は、吾輩の自作である。漱石は京都で恋に悶々としたというよりは、鯉を食べて胃が悶絶したというお話しでした。🐥
📄関連日記
祇園白川の桜(YouTube)1′37″
(京都いいとこ動画)
※吉井勇の歌碑がある辺りが「大友」跡。
かにかくに祇園はこひし寝るときも
枕のしたを水のながるる