森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

半鐘と並んで高き冬木哉 漱石

11月の読書録01ーーーーーーー

 夏目漱石 青春の旅

 半藤一利

 文春文庫(1994/08/10)

 1611-01★★★

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🐱本書は、平成六年に文春文庫ビジュアル版シリーズの一冊として刊行されたものである。

🐱夏目漱石はその人生において、松山、熊本、ロンドンと転居している。また、作家活動が多忙になるまでは、度々旅行に出かけている。そして、それらの各地での体験や見聞を小説に活かしている。本書は、漱石の青春期、松山時代、熊本時代、ロンドン時代、東京時代の各時代における漱石の足跡とそこから生み出された作品について、それぞれの土地に縁のある人が随筆を書き下ろしている。

🐱ビジュアル版なので写真も豊富であり、地図も掲載されていて、「漱石を歩く人」のためのガイドブックとなっている。巻末には略年譜も付いている。

 


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◾文学者漱石を受胎した明治28年  “熱狂の54日”

 坊っちゃん』と子規との松山

早坂暁

🐱松山時代は松山出身の作家早坂暁が担当し、正岡子規との関係を取り上げている。明治28年、日清戦争に従軍記者として遼東半島に渡った正岡子規は帰国の船中で喀血して神戸の病院に入院する。小康を得て帰郷して漱石の下宿(愚陀仏庵)に転がり込んだのが8月27日で、10月19日上京するまで同居している。子規が一階を占領し、漱石は二階で過ごしている。ここで子規は、柳原極堂ら地元の松風会会員と連日句会を開く。その賑やかさに、漱石は、これでは勉強ができんと自らも運座に加わったのであった。漱石は学生時代から子規に付き合って句作をしていたが熱心ではなかった。それがこの時すっかり句作にはまってしまったのであった。

🐱ある日、柳原極堂が愚陀仏庵にやってくると二人が、

「我々二人で新しい日本の文学を興そうではないか」

と語り合っているのを目撃したそうだ。

そうしてみれば、松山の愚陀仏庵の  “五十四日間”  が、英文学者をめざしていた漱石を文学者漱石に染めかえたのである。

漱石の女婿松岡譲が、

「子規の産婆術よろしきを得て、漱石は文豪になった」

と言っているのも、この愚陀仏庵の生活を指しているのだろう。

 色里や十歩離れて秋の風 子規

 愚陀仏は主人の名なり冬籠 漱石

🐱子規は勝手に蒲焼きなどを注文して勝手に食べておいて、漱石に「君払ってくれたまえ」と言って東京に帰っている。漱石曰く、

「僕もこれには驚いた」

子規はさらに上京の際、漱石から十円借りているが、返さないまま他界している。

🐱そんな仲良しさんの二人は別れの際にも俳句を交わしている

 御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花 漱石

 此夕野分に向いてわかれけり 漱石

 行く我にとまる汝に秋二つ 子規

🐱そんな賑やかな日々が終わってさみしくなったのか、

 淋しいな妻ありてこそ冬籠 漱石

そんなわけで、中根鏡子さんとお見合いして結婚を決めましたとさ。

🐱松山を去る時漱石は、たまたま帰郷していた高浜虚子と連れ立って宮島に立ち寄っている。宮島で別れるとき、漱石は短冊に一句したためて虚子に送っている。

 永き日や欠伸うつして別れ行く 漱石

🐱 『坊っちゃん』について、松山育ちで松山中学校卒業の早坂暁は、「松山中学の生徒や、松山の人間への軽蔑と嘲笑に満ちていて」 気分が悪いと書いているのだが、

ここまでの悪態は、むしろ尋常ではない気がする。待てよ、と私は考える。

そして、結論は、

どうやら、『坊っちゃん』は四国辺の中学校に舞台を借り、“なもし”の方言を借用して、祖国の江戸を占領した薩長藩閥政府を冷笑悪罵している小説らしいのだ。

🐱早坂暁は、「熱狂の五十四日間」がなければ、小説『坊っちゃん』は誕生しなかったし、小説家夏目漱石も生まれたかどうか分からないとしている。

漱石さん、よう松山へおいでたなもし」

と、私は心から申し上げたいのだ。

 

🐱早坂暁といえば、『夢千代日記』や『花へんろ』が代表作になるだろうか。吾輩は、『天下御免』が好きである。三谷幸喜早坂暁をリスペクトしていることは、よく知られている。

🐱子規が漱石から借りたままの十円は、子規の妹律のお孫さんが漱石のお孫さんの半藤末利子に返したことが、半藤末利子の『漱石長襦袢』に書かれている。(十円の価値が全然違うけどね)

 


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道後公園の子規記念博物館の前にある句碑

 ふゆ枯や鏡にうつる雲の影 子規

 半鐘と並んで高き冬木哉  漱石

 


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 復元された愚陀仏庵(撮影・丸山洋平)

 

 

◾『草枕』の旅 、『二百十日』の饒舌、九州の漱石

光岡明

🐱熊本時代は熊本出身の作家光岡明が担当している。『草枕』の舞台となった小天温泉、『二百十日』の舞台となった阿蘇を訪ね、それぞれの小説を読み解いている。また、漱石鏡子夫妻が暮らした五軒の家を紹介している。

🐱漱石の作品では『草枕』が一番好きである。どこが好きなのか考えるのだが、うまく言語化出来ない。

🐱光岡明の代表作は『機雷』だろうか。叔父の蔵書にあったな。まだ、読んでないな。

 


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熊本から小天温泉に向かう途中にある野出峠の茶屋跡

 

 

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◾足尾から『坑夫』を幻視する

立松和平

🐱漱石は足尾には行ったことは無いが、『坑夫』の舞台となった足尾を「父祖の地」とする作家立松和平が『坑夫』の原風景に迫っている。亜硫酸ガス排出のため付近の山はハゲ山と化したままである。坑道跡も廃虚と化している。廃虚マニアには、たまらん光景である。

🐱立松和平の代表作は『遠雷』、『道元禅師』だろうか。学生時代に『途方に暮れて』を読んだことがあるが、世代の違いを感じた覚えがある。

 


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坑口跡(撮影・名智健二)

 

 

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(撮影・名智健二)

 

 

漱石の二十世紀

 『三四郎』と明治四十一年の東京

関川夏央

🐱『三四郎』は明治41年(1908)、漱石41歳の作品である。朝日新聞社に入社してからでは、長編としては『虞美人草』に続く第二作目となる。関川夏央は、漱石はこの作品で「自分のまわりにいる青年たちをモデルに、また明治四十年秋以降の身辺の事件を材料に現代の青年と東京という現代都市とを描いてみよう」と構想したと解説している。『三四郎』から、

「近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強過ぎて不可ない」

「昔しの偽善家に対して、今は露悪家許りの状態にある」

という広田先生の言葉を引用して、漱石自身の時代批評、近代人批評だろうとしている。

🐱当時の世相がいろいろ紹介されているが、なかでも、「自然主義」という言葉が「性的放埒」と同義と見なされながら世間に流布していたことや、森田草平平塚らいてうの心中未遂事件と同時期に「出歯亀」事件があったことなどが興味深かった。

🐱『三四郎』は、「青春小説のていさいをとりながら日本の二十世紀そのものを描こうとした小説」であり、「二十世紀に生きる都会人たちの静かな不安をちりばめた小説」であると、結論づけている。

🐱『三四郎』の美禰子は嫌な女だとは思わない。あれは、やはり三四郎が未熟だったというだけの話だ。

🐱関川夏央の『子規、最後の八年』も読みたいのだが、大作なのでなかなか読む時間がない。

 

 

◾青春の彷徨

 ── 塩原金之助と夏目漱石

夏目房之介

父が十歳の頃に亡くなった祖父に、肉親としての親近感があるわけもない。人からは、見も知らぬ文豪の孫だ孫だといわれる。当然反発もあって、距離をおいてきた。それが、何を思ったのか漱石の史跡を巡る取材を引き受けた。

🐱「漱石の孫」である夏目房之介漱石の生い立ちと青春期に縁のある土地を訪れ、漱石に対する自己の複雑な思いを分析している。

🐱夏目房之介が父・純一などから聞いた漱石は、「ひたすら怖い存在だったというにつきる」という。

あのどっしりとした母だったからこそ、漱石の病気に耐えられたのだ、というのが子どもたちの印象だったようだ。

🐱小学生時代の漱石は「勇敢な悪戯者であり口達者な乱暴者であり疳の強い剛情者であった」らしい。

🐱夏目房之介は、「金之助の不安は、根源的な居所のなさで、自分自身がいつも人工的で不自然に感じられるようなものだ」と分析している。著者自身、自分が何者かを掴めない不安に悩まされた時期があったそうで、「本当の自分」なんてどこにもないのだと気が付いて、やっと抜け出せたそうだ。

僕はそうやって自分を相対化し、他人との関係の中へ入っていった。作家・漱石は、その相対化を家の中でではなく、むしろ作品の中でやろうとしたようにも思える。そして、真面目に正面から追いかけて、四十九歳で死んだ。

🐱夏目房之介は、その後、2003年に『漱石の孫』を刊行し、さらに真正面から「夏目漱石」に向き合っている。

 

 

◾霧の中のロンドン、スコットランドの休息

◽出口保夫

🐱「ロンドンの漱石」研究の第一人者が、ロンドン留学時代の漱石の足跡を辿り、この時代について書かれた作品から漱石の当時の心象風景を考察している。訪れたのは、漱石が下宿した五軒の建物、特に、五回目の下宿先、ザ・チェイス81番地と、漱石が自転車の練習をしたクラパム・コモン、漱石が個人教授を受けに出かけたベイカー街の横丁のクレイグ先生の下宿跡、カーライル博物館、ロンドン塔、そして、漱石が旅行したスコットランドのピットロッホリまで足を伸ばしている。

🐱出口保夫は英文学者で現在は早稲田大学名誉教授。著書に、『漱石と不愉快なロンドン』(2006)、『漱石とともにロンドンを歩く』(2007)などがある。

 

 

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◾『吾輩は猫である』の三題噺

半藤一利

🐱最後は編者自身が千駄木時代の漱石のこぼれ話を紹介している。まずは、千駄木の「猫の家」の来歴の紹介と家の構造。漱石の書斎を改めて見ると、ほとんど引きこもりの部屋と変わらない。漱石の精神状態をよく表している。次は、漱石と落語の関係。最後は、漱石と漢学の関係。いずれも著者のお得意のネタである。

🐱東大講師夏目金之助によるヒューモアとウィットについての解説が興味深かった。

ヒューモアは、

「他から見ると可笑しいが、当人自身では他から可笑しがられる訳がないと思っている。彼は真面目である。無意識に可笑味を演じつつある 」

ウィットとは、

「人を笑わせるという結果を予期して可笑味を演ずるならば、その人は如何に巧妙に道化ても、道化を自覚しつつ遣っている」

「不自然である。仮り物である。内から湧いたのではない、外から引っ付けたのである」

ただし、常に明確に区別されるとは限らないということである。ヒューモアのある人は、人間として何処か常識を欠いていなければならないそうだ。『吾輩は猫である』の登場人物たちは、ヒューモアを具現した存在であり、吾輩猫はウィットであると、著者は分析している。なるほどね。

🐱半藤一利は、1992年に『漱石先生ぞな、もし』を、1993年に『続・漱石先生ぞな、もし』を刊行している。その流れで、この本が企画されたのかも知れない。🐥

 

 

 
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