Ⅳ:ときめきの俳人・漱石
◾明治29年(1896)4月から33年(1900)9月まで
※漱石29歳から33歳。熊本の第五高等学校教授時代。29年6月9日、鏡子と結婚。33年9月8日、イギリス留学に出発する。作句数は29年522句、30年288句、31年103句、32年350句、33年19句となっている。本章の鑑賞句は39句である。
🐱著者によると、漱石の全句数は2529句で、そのうち松山時代の1年の作句数が737句、熊本時代の四年半の作句数が998句、合計1735句となり、全体の70%近い句が作られたことになる。
🐱ここでは、鑑賞句、
配達ののぞいて行くや秋の水
の項における「写生」と「理想」についての解説が興味深い。
自分の目で対象をありのままに見る、これが子規さんの写生の基本だと思いますが、『病床六尺』(正岡子規)を見ますとね、「天然を写す」写生の作は「ちょっと浅薄」のように見える、とあります。でも、「平淡の中に至味を寓するものに至っては、その妙実に言うベからざるものがある」と写生の意味が説かれています。
「理想という事は人間の考を表すのであるから、その人間が非常な奇才でない以上は、到底類似と陳腐を免れぬようになるのは必然である」とおっしゃっています。つまり、人の想像することは類似と陳腐を免れない、と。そうかといって、想像によって作ることをすべて否定しているわけではない。子規さんの究極の目的は、「空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を製出せざるべからず」(『俳諧大要』)というところにありました。空想は理想、写実は写生と同じ意味です。
掲句は、「なにげない日常の一面をうまく切り取った句」で「水彩画のようだ」という評価である。漱石の「理想」の句としては、
かたまつて野武士落行(おちゆく)枯野哉
などが挙げられている。著者は、これらの句を「時代劇俳句」と名付けている。
立籠る上田の城や冬木立
という句もある。漱石には理想の句が多いそうだ。
秋高し吾白雲に乗らんと思ふ
これは、『荘子』天地篇の「彼の白雲に乗りて帝郷に至らん」によるそうだ。帝郷は仙郷、すなわち理想郷のことらしい。現実逃避に近いとも云える。
🐱子規は、評論「明治二十九年の俳句界」(『日本』)において俳人漱石を次のように紹介している。
漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて俳句を作る時より既に意匠において句法において特色を見(あら)わせり。その意匠極めて斬新なる者、奇想天外より来りし者多し。
このように述べて、次の句を挙げている。
累々と徳孤ならずの蜜柑哉
紡績の笛が鳴るなり冬の雨
吉良殿のうたれぬ江戸は雪の中
「漱石亦滑稽思想を有す」という一節もあり、
長けれど何の糸瓜とさがりけり
などの句が挙げられている。
漱石は「一方に偏する者」ではなく、滑稽や奇警の句の他方には、雄健な句、真面目な句がある、
と説いているということだ。
🐱明治30年の俳句からは、
ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり
菫程な小さき人に生れたし
山高し動(やや)ともすれば春曇る
若葉して手のひらほどの山の寺
秋風や棚に上げたる古かばん
などが鑑賞句として挙げられている。素人からみても、これらの句は秀句だと分かる。
🐱吾輩は、漱石の俳句では昔から「菫程な」の句が一番好きである。『彼岸過迄』の「一筆がきの朝貌の様な」単純な女中を思い出す。あと、川端康成の『古都』も思い出す。
🐱「木瓜咲くや」の句は、そのまんま『草枕』の世界である。「愚かにして悟ったもの」である。この句も好きである。これは陶淵明によるらしい。「守拙」とは、「世渡りが下手なことをむしろ誇らしく思うこと」だという。漱石は、中国の隠者の生活に憧れていたのかも知れない。それが「則天去私」の原点だろうか。
🐱実は漱石は、松山時代から俳号を自分では「愚陀仏」を使っていた。ところが、子規が漱石の俳句を新聞などに載せる時には、ずっと「漱石」としていたし、漱石への手紙にも漱石と書いていた。「漱石」は元々子規の号だったのを学生時代に漱石が譲り受けたものなのだが、漱石は「漱石」を使いたくなかった節がある。子規は譲ったつもりなので使って欲しかったのだろう。結局、観念したのか、この頃から漱石は自ら「漱石」を号するようになる。夏目愚陀仏なら売れなかっただろうな。
🐱明治31年、五高学生の寺田寅彦が「俳人として有名な」漱石に俳句の弟子入りをする。この年の秋には、五高生を中心とした俳句同好会「紫溟吟社」が発足し、漱石が指導をしている。この年からの鑑賞句は、
行く年や猫うづくまる膝の上
湧くからに流るゝからに春の水
風呂に入れば裏の山より初嵐
などが挙げられている。
🐱明治32年の鑑賞句は、阿蘇旅行で得た俳句から、
草山に馬放ちけり秋の空
秋の川真白な石を拾ひけり
行けど萩行けど薄の原広し
🐱そして、この章最後の鑑賞句が、
秋風の一人を吹くや海の上
これは、留学に出発する二日前、寺田寅彦あてのはがきに記したものである。鏡子夫人の『漱石の思い出』によると、この句を短冊にしたためて、家にも残していったということである。
五高教授時代の夏目金之助先生
熊本時代、内坪井町の旧居
Ⅴ:俳人から小説家へ
◾明治33年(1900)9月から大正5年(1916)12月まで
※漱石33歳から49歳。明治33年9月、漱石、ロンドン留学に発つ。35年9月19日、子規死去。36年1月、漱石帰朝。大正5年12月9日、死去まで。ロンドン留学時代の作句数は130句。それ以降の作句数は677句。本章の鑑賞句は13句である。
🐱ロンドン留学時代からは、紅海を航行していた船中での句、
日は落ちて海の底より暑さかな
ロンドンから虚子にあてた手紙に記された句、
吾妹子を夢みる春の夜となりぬ
子規の死を悼む、
筒袖や秋の柩にしたがはず
の三句が鑑賞句に挙げられている。
🐱修善寺の大患時からは明治43年9月8日の日記に記された、
別るゝや夢一筋の天の川
秋の江に打ち込む杭の響かな
秋風や唐紅の咽喉仏
の三句が鑑賞句に挙げられている。
🐱大塚楠緒子の死を悼む、
有る程の菊投げ入れよ棺の中
について、「思い出す事など」から引いて(第七節)、
人間の死を地球や宇宙の進化の中で考えることはできるが、それで納得してしまうと、あまりにも悟りすました具合になって、たしかにつまらない気がするねえ。
とすると、「投げ入れよ」の激しさは、人間としてのあらがいでしょうか。生死を自然の当然の成り行きとして納得したくないのですね、きっと。
と、鑑賞している。自分は九死に一生を得たのに、自分よりもずっと若い大塚楠緒子が同じ時期に死んだということに対して、納得し難いものがあったのだろうか。
大正4年10月
🐱他にも漱石と虚子との関係についての話題も興味深いものがあった。🐥
📄関連日記