森の踏切番日記

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ゼロから始める現代数学~『無限の果てに何があるか』を読んで

8月の読書録03ーーーーーーー

 無限の果てに何があるか

 足立恒雄

 角川ソフィア文庫(2017/02/25:2002)

 ★★★★

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本書は、現代数学の基礎、数体系の構成、公理主義、数学的真理について解説した数学入門書である。実は、本書を読んだのは5月だったのだが、感想を書くのが面倒臭くなって放置していたのだ。今月に入って、ようやく感想を書く気になり再読したという次第。

 

文庫版のためのまえがきによると、

数学は社会や思想と無関係に存在するものではなく、むしろ、人間の言語能力から数学の諸概念が培われ、逆に数学によってわれわれは言語や思考の方法を鋭利なものに改良してきたのである。簡単に要約すれば、数学は人間の基本的な知的営為であるということ、これが、私が数学者として世間一般の読書人・知識人に伝えたいと望んだメッセージである。

という。つまり、「人間を離れて数学は存在しないのだ」ということが著者の主張するところである。

 

これは見方を変えると、「数学を知らずんば現代人に非ず」と主張しているようにも受け取れる。実際、本書の「プロローグ」には、

数学は全科学の共通言語である。その基本的理解なしに、どんな世界観を持てるというのだろうか。

と書かれている。著者は、数学は現代人の素養に必要のない学問ではないと主張しているのである。

 

従って、本書の目的は、

中世の暗闇的段階にとどまっている世間一般の数学的知識を、現代数学の基礎がかたまった二十世紀前半ころの数学のレベルにまで高めよう、

というところにある。現代数学の基本概念と数学の精神とは何かということについて考えるきっかけになる本であると云える。これは同時に、分からない人には分かってもらわなくても結構、という「独善的特権的地位にあぐらをかいている」数学界に対する批判でもある。

 

本書は、この種の数学入門書の中でも比較的本格的な内容であり、気軽に読めるという内容の本ではないが、名著であり良書であると思う。

 

 


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レオンハルト・オイラー

 

 

第1章 虚数とは何か

第1章では現代数学において「数」がどのように定義されているかを解説している。

 

数というのは、個数、大きさ、位置などたくさんの起源から発展してきたものを思想的に把握・統一した結果、抽象的な思惟の上だけで存在することになったものである。

 

ここでは「数は方程式を解くために創造されていった」という立場で考察を進め、「整数しか知らない世界」から数を構成していって虚数まで拡張するという話をしている。体の理論のエッセンスを解説した内容と云ってよいだろう。数学の論理性と厳密性が強調されている。数を数えるという行為や幾何学の延長である古い数学観では虚数は理解できないのである。

 

数学は純粋に論理的な学問であるが、その理解のためには何らかの具体的なイメージ作りが欠かせない。歴史的には、ガウス複素数を視覚的にイメージできる「ガウス平面(複素平面)」を普及させた事が、虚数が広く認知されるきっかけになった。人類が虚数を受け入れたことが数理科学のブレイクスルーをもたらし、現代文明の礎を築いたといっても過言ではない。また、代数学の基本定理(方程式論の基本定理)とその意義が解説されている。

 

「数は方程式を解くために創造されていった」という立場で考察を進めると困ったことが起きる。実数の中には方程式の解にはならない「超越数」が存在するので、実数全体を定義することが出来ないのだ。そこで、実数を定義する別の方法を紹介している。実数の定義とその方法は意外に難しい話になるのだが、簡単に云うと実数とは無限小数であるということになる。 

 


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カール・フリードリヒ・ガウス

 

 

第2章 三角形の内角の和はホンマに二直角か

第2章では現代数学における公理主義について解説されている。公理とは、「誰もが正しいと認める事実」という意味だと、私は理解している。

 

この章では、ユークリッド幾何の歴史を素材にして、公理という概念が「自明な命題」という地位から、一つの理論を展開する際に前提とされる「仮定命題」という地位へと変遷していく過程を話してみようと思う。

 

ここでは、ユークリッドの『原論』と平行線公準(第五公準)の解説から、ガウスロバチェフスキー、ボーヤイの三人が非ユークリッド幾何(双曲幾何)を発見する話が紹介されている。これは数学の一般向け解説書ではよく登場する話題である。双曲幾何では、三角形の内角の和は二直角より小さくなる。

 

著者によると、非ユークリッド幾何の出現によって、公理というものの性格を考え直すきっかけが与えられたことは、非ユークリッド幾何が創始されたことにも勝る数学史上の事件であったという。それが、公理が「自明に真なる命題」という意味を失い、「理論の前提となる仮定命題」へと変貌を遂げたことなのだという。

 

数学に対する世間の人たちの誤解の中でも、数学は真理、とくに物理的な真理を表していると考えているのは、いちばんの大誤解であろう。

 

数学は現実世界を忠実に反映しているという19世紀以前の考え方は正しくないということが、非ユークリッド幾何の発見の帰結なのである。そこで、数学者たちが目指したのは、自然の理とは独立した、矛盾のない、しかもすべてを証明することのできる完璧な数学の体系を作り上げることだったのだ。

 

代数学では、無定義用語というのは、単に他と区別するための言葉であると考えるという。そして、無定義用語の間の関係を記述した命題を公理としていくつか採用するという。ここでは、「関係」だけが重要なのである。こういう立場を徹底させて「公理主義」を提唱したのが、ダフィット・ヒルベルトであった。

 

数学者の自負は、「数学以外の科学に絶対的に正しい理論は原理的に存在し得ない」というところにあるようだ。

 

ある数学の理論が自然現象と合致しないとき、これは数学がまちがっているのではなく、その数学を成り立たせている前提、すなわち公理系が、自然界において満たされていないというだけのことである。

 


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ダフィット・ヒルベルト

 

 

第3章 1+1はなぜ2なのか

代数学は「集合」を基礎としているということで、本章では集合論の基礎が解説されている。数学は、集合を唯一の原材料として作り上げられている論理体系であるとみなせるという。

 

算術をはじめとする数学は、人類が現実の存在の観察から抽出して作り上げたものではあるが、すでに思惟上の存在となっていて、物理的存在とは本質的に無関係であると言いきったほうがよい。

 

ものを数えることから始まった算術が1+1=2の真理性を保証することにはならないのである。 筒井康隆の短編小説「一について」(『エロチック街道』新潮文庫)を思い出す。

 

「そんならやな、林檎一個食うてコップ割って電話かけて昼寝して、大学一番で卒業したら1+1+1+1+1=5か。その五はいったい何をあらわしとるんや」

「そんなもん、何もあらわしてないがな。あほか」

「その『あほか』というたそのことばを一としょうか」

 (「一について」筒井康隆

 

さて、数学上の概念は、集合という言葉を使って表現できるということだが、これは大雑把にいうと、「集合とその要素であることを示す∈という記号さえあれば、そこから⇒や∧などの論理記号を用いて、ありとあらゆる数学の概念が定義できるのだ」ということであり、逆に、数学とは、「少なくとも形式上は、集合とその要素であることを示す記号∈を、論理記号と一定の規則に従って組み合わせて作り上げた体系のことである」と定義できるのだと説明されている。ところが、これだけでは不十分で、その「一定の規則」と「集合とは何か」が説明されなければならない。

 

本章は、「1+1はなぜ2なのか」を説明することを目的としているのだが、その準備として論理の記号化、すなわち、述語論理(predicate logic)が解説されている。これが、分かりやすくて良かった。述語論理の定理として重要なものに、前の記事でも出てきたド・モルガンの法則がある。

 ¬∀xP(x)⇔∃x¬P(x)

 ¬∃xP(x)⇔∀x¬P(x)

上の式は、「任意のxについてP(x)でない」と「P(x)が成り立たないようなxが存在する」とは同値であることを意味している。下の式は、「P(x)を満たすようなxが存在しない」と「どんなxをもってきてもP(x)が成り立たない」とは同値であることを意味している。¬∀は部分否定で、¬∃は全否定と考えると分かりやすいと思う。

 

これで、「1+1はなぜ2なのか」を説明できるかというと、そうはいかなくて、次に集合論の公理化をしなければならない。ここでは、集合論の基礎的な公理の一部が紹介されているが、この中では分出公理が重要だろうか。

 ∃x∀y[y∈x⇔(y∈a)∧P(y)]

これは、aが集合であるとき、

 {x│(x∈a)∧P(x)}  ※{x∈a│P(x)}と略記される

は集合をなす、という意味になる。つまり、P(x)を満たすxのうち、集合aの要素となっているものの全体は集合になる(必然的にaの部分集合になる)ということを主張している。

 

次に、自然数を定義しなければならない。この辺りになるとだんだん話が難しくなってくる。自然数の定義といえば、ペアノの公理である。まず、0を定義することから始まる。あとは、ペアノの公理を表現を変えて説明している。分かりやすい説明だったと思う。

 

続いて、帰納法公理(排他公理)から数学的帰納法が説明される。これによって、自然数の足し算とかけ算の定義が与えられるのである。これで、ようやく1+1=2であることが説明できるわけである。ここでは、自然数全体の集合Nが最小の帰納的集合であり、それにより数学的帰納法という強力な論法が確立され、自然数論が完成するという構造が強調されている。

 

本章の最後に、「数を数える」という行為に定義が与えられる。これは、つまり、「上への一対一」の写像全単射)のことである。これで、論理・集合・写像の基本が説明されたことになる。こうして、数学の抽象性が保証されるのである。教科書的には、全てが説明されたわけではないが、深い内容だったと思う。自然数が定義されれば、整数も定義できるということで、第1章につながる。

 

自然数こそは人間が作った。あとの数は論理的拡大要求に従って生じた」のである。

 


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ゲオルク・カントール

 

 

第4章 無限とは何か

数学は無限に関する学問であり、その目的は有限の身である人間が、記号を用いて無限を理解することである。

ヘルマン・ワイル

 

最終章は、無限に関する話である。本書のこれまでの内容は、本章のためのネタ振りといってもよい。宇宙は膨張し続けているが無限ではない。宇宙の果ての先や平行宇宙については、人間には認識できない。我々が認識できる形而下の世界においては無限のものは存在しない。無限とは形而上の世界にしか存在しないのである。

 

無限はもともと非現実的存在であり、もともと思惟上の存在であり、またもともと自己否定的な要素を持った、矛盾を生じやすい概念なのである。

 

つまり、無限というのは、うっかり近づくと危険な存在なのだ。それ故に、古代ギリシア文明では無限という概念は避けられ、キリスト教文明では無限とはすなわち神であったのだ。現代数学は西洋文明から生まれたので、本書では東洋文明については言及されていないが、インド人は無限について考えていたようだ。

 

ルネッサンス以降の科学革命によって、科学者たちは無限について考えざるを得なくなる。そこで、「極限」という手法があみ出されたのである。本章でも極限、微積分学の基本が解説されている。この辺りは通い慣れた道という感じであるが、極限が厳密に定義されていく歴史的過程が要領よくまとめられていて、一読の価値があると思う。

 

高等学校の解析学は基礎がインチキだとか、怪しげだとか言われることもあるけれども、それはイプシロン・デルタ論法と呼ばれるさらに進んだ立場から見たときに言われることであって、教育的立場からは、高等学校で今日用いられている極限の導入法は、歴史的に見ても、教育的見地からも、十分に厳密で明解な方法であると評価してよい。

 

本書では、数列の収束の定義が紹介されている。直観的には「nをだんだん大きくしていけば、a[n]は限りなくαに近づく」となるが、これを述語論理を用いて厳密に命題の形で表現すると、

数列{a[n]}が数αに収束するとは、

 ∀ε>0∃n_0∀n[n>n_0⇒│αーa_n│<ε]

が成り立つことをいう。([n]と_0, _nはどちらも添字です)

教科書的にいうと、「どのような正の数ε>0に対しても、番号n[0]を適切に選ぶことにより、n[0]以上の全ての番号nについて、│αーa[n]│<εが成り立つようにできるとき、数列{a[n]}はαに収束するという」ということになる。竹内薫氏が言うところの、微積分学の教科書の最初に出てきて、多くの学生のやる気を失わせる定義ですな。教える立場の著者は、「人類の歩んだ無限に関する苦闘の長い道のりを思いやって感動を覚える」という。

 

ギリシア以来、無限には二種類あるとされてきたそうで、それは実無限(actual infinite)と潜在的無限(potential infinite)であるという。解析学で扱われるのは潜在的無限の方だという。ヒルベルトによると本来の無限はそのようなものではないという。例えば、自然数全体を考えれば、これは無限集合であって数ではなく、そのような無限、実無限が本来の姿であるという。

 

ということで無限といえば、やはりこの人、ゲオルク・カントールの登場である。まず、個数の概念を拡大した「濃度」について説明がある。カントールは無限集合の濃度の比較を研究したのだが、無限の個数を比較するという研究は、彼の生きた時代では異端視され理解されなかった。

 

自然数全体の集合Nと濃度が等しい集合のことを可算無限(countable set)という。偶数全体の集合や整数全体の集合有理数全体の集合自然数の平方全体の集合N^2も可算無限である。つまり、Nと濃度が等しい。無限集合を有限集合と同じように考えてはならない。発想の転換が必要である。

 

ところが、実数全体の集合の濃度(連続体濃度)は可算濃度よりも大きい。実数の無限は自然数の無限とは次元が異なるのだ。ここで、対角線論法が説明されるが、この説明は、さすが専門家だけあって、たいへん分かりやすかった。

 

カントールは、直線の濃度と平面R^2の濃度は等しいという本人も驚愕の結果を証明してしまう。カントールデデキントに書いた手紙の一節が、

 Je le vois, mais je ne le crois pas.

 (我見るも、我信ぜず)

この証明も本書で紹介されている。証明自体は難しくないが、発想が素晴らしい。それだけに信じられなかったのかも知れない。このあとカントールは、恩師のクロネッカーから激しく攻撃されることになる。

 

続いて、集合論の大矛盾、ラッセルのパラドクスが登場する。これには色々なバージョンがあるが有名なのは、「セビリアの理髪師は、自分で髭を剃ることのできないセビリアの男全員の髭を剃る。さて、セビリアの理髪師は自分の髭を剃るだろうか?」というものである。これは数学的にいうと、「自分自身を要素として含まない全ての集合からなる集合はそれ自身の要素であるか」ということになる。

 

ラッセルのパラドクスが意味していることは、全体集合(すべてを含む集合)は存在しないということである。つまり、どんな集合に対しても、それよりも大きな集合が必ず存在する(具体的には、べき集合)。こうして迎えた集合論の危機に、すでに心を病んでいたカントールは、益々絶望を深め、最期は痩せ衰えて死んでしまう。本書では、カントール連続体仮説選択公理については触れられていないが、それでも難しい内容である。

 

こうした集合論、ひいては数学界の危機を救おうと立ち上がったのがヒルベルトだった。彼は、数学の基礎を「有限の立場」で検証(数学が無矛盾であることを証明)しようではないかと提案したという。その手続きの第一歩として集合論を形式化したということで第3章とつながる。公理主義は第2章とつながっている。この部分の解説は少し分かりにくいが、他の類似本よりも詳しく書かれている。

 

ヒルベルトは、集合論の無矛盾性を証明するためのプログラムを掲げたわけだが、ここで登場するのが、ゲーデル不完全性定理である。

 

ひとことで言えば「自然数論を含む形式化可能な数学理論の無矛盾性を、その体系内で証明することはできない」という意外な結果だった。これを俗に表現すれば「自分の正しさは自分では証明できない」のである。

 

本書では、大雑把ではあるがゲーデルの方法が説明されている。かなりややこしい。前の記事で紹介した『眺めて愛でる数学美術館』(竹内薫著・角川ソフィア文庫)にもゲーデル不完全性定理の解説があるが、本書では省略された、対角線論法を使った部分の解説なので本書と併せて読むと見通しが良くなった。とは言うものの、大雑把な説明であるし、高度な理論なので、私の理解力では数学的に理解できたとは言い難い。何となく雰囲気が伝わってきたという程度である。

 

ゲーデルの第一不完全性定理 自然数論を含むような再帰的体系Sが無矛盾であれば、それ自身もその否定も証明できないような命題がSの中に必ず存在する。

ゲーデルの第二不完全性定理 自然数論を含むような再帰的体系Sの無矛盾性を、S内で形式化された論証でもって証明することはできない。

 

ゲーデルの業績は人類の知性の到達しえた最高峰と言え、また人知の勝利と言うべきだが、その内容が人知の限界を教えているというのは、まことにもって皮肉と言わねばならないであろう。

 

こうして、ゲーデル不完全性定理ヒルベルトのプログラムに、致命的な打撃を与えたのだった。無限の果てにあるもの、それは決して手の届かない真理ということか。

 


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クルト・ゲーデル

 

 

本書で取り上げられた話はここまでだが、この続きとして、1963年にポール・コーエンがカントール連続体仮説は決定不可能であることを証明した。連続体仮説は人類の手に届かない所にあるのだ。ただし、これは現行の公理系では連続体仮説は証明できないということであるらしい。連続体仮説の真偽を証明できる、人類が知らない公理系があるかも知れない。無限の果てを探る旅はまだまだ続いているのだという。

 

数学の本質は、その自由性にある。

ゲオルク・カントール

 

 

 

無限の果てに何があるか 現代数学への招待 (角川ソフィア文庫)
 

 

 

📄関連図書

読む数学 (角川ソフィア文庫)

読む数学 (角川ソフィア文庫)

 

🐱★★★☆

🐱こちらも数学入門書だが、より基本的な内容になっている。ペアノの公理ユークリッドの第五公準などを取り上げている。

 

 

🐱★★★★

🐱こちらは、数列をテーマにした数学入門書。『読む数学』よりも数学的な内容。「数列と集合論」で対角線論法を取り上げている。先生によって説明の仕方が異なるので、読み比べてみると面白い。

 

 

 

非ユークリッド幾何の世界 新装版 (ブルーバックス)

非ユークリッド幾何の世界 新装版 (ブルーバックス)

 

🐱★★★★

🐱本書で紹介されている。昔読んだ記憶がある。後半は数学的な内容だが、前半の読み物のパートは読み応えがあって面白い。

 

 

 

「無限」に魅入られた天才数学者たち (〈数理を愉しむ〉シリーズ)

「無限」に魅入られた天才数学者たち (〈数理を愉しむ〉シリーズ)

 

🐱★★★☆

🐱ギリシア文明における無限の発見から人類が無限といかにして向き合ってきたのか、ユダヤ教カバラにまで言及しているが、メインはゲオルク・カントールである。カントールの人生とその数学的業績が詳しく紹介されている。連続体仮説選択公理ゲーデル不完全性定理との関係は難解。コーエンの証明やその後の展開までフォローしている。

 

 

 

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

 

🐱★★★★

🐱数学の一般向け解説書の歴史的名著。ヒルベルト・プログラムからゲーデル不完全性定理、コーエンの証明までが紹介されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたの好きな数式は何ですか?~『眺めて愛でる数式美術館』

8月の読書録02ーーーーーーー

 眺めて愛でる数式美術館

 竹内薫

 角川ソフィア文庫(2017/05/25:2008)

 ★★☆

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講談社ブルーバックスに付いている栞にはブルーバックスでお馴染みの科学者による自筆の数式が印刷されている。全部で何種類あるのか知らないが、私が持っているのは3種類だけである。

 

一つは、古澤明(物理学)による、アインシュタインの「質量とエネルギーの等価性を表す式 E=mc^2」で、一つは、大栗博司(物理学)による、オイラーの「数学の基本的な数である、0、1、i、π、eが一堂に会した式 e^(πi)+1=0」で、もう一つは、池谷裕二神経科学・薬理学)による、シグモイド関数「薬の用量と作用の関係を表す式 S=1/(1+e^ーx)」である。シグモイド関数は、生物の神経細胞が持つ性質をモデル化したもので、ニューラルネットワークにおける活性化関数にも用いられる。

 


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シグモイド関数のグラフ。

引用元:シグモイド関数 - Wikipedia

 

 

理系の人に「あなたの好きな数式は何ですか?」と質問すれば、上のアインシュタインの式かオイラーの式を挙げる人は多いのではないだろうか。あまりにも有名なので、逆に避ける人も多いかも知れない。

 

さて本書だが、著者であるサイエンス作家・竹内薫が館長をつとめる数式美術館という設定で、古今東西(といっても東は無い)から蒐集された珍しい数式が展示されている。読者は館長の解説を聞きながらそれらを鑑賞して回るという趣向である。

 

ほとんどの数式はよく知られたもので、この種の一般向け科学解説書でよく見られるものばかりだが、おそらくサービス精神で、たまに変な数式も紛れこんでいる。各数式の解説はそれほど詳しくはないので少々物足りない感じがしないでもない。数学的な説明は厳密さよりも分かりやすさが優先されている。全体を通して読むと現代物理学と現代数学のエッセンスがなんとなく分かるように工夫されているように思う。本書をきっかけに、現代物理学や現代数学に少しでも興味を持ってもらえれば、という意図があるだろう。美術館というよりもショーケースといった趣である。

 

 

第1分館 物理と数学館

トップを飾るのは、「世界でいちばん有名な式」と題されたアインシュタインの E=mc^2 である。日本語にすると、

 エネルギー=質量×光速の2乗

解説の方は、中高生でも分かる基本的な内容である。

続いて、ハイゼンベルク不確定性原理の紹介と行列の説明がある。それから、著者の著作物ではお馴染みの自然単位系の説明とプランク長さの紹介がある。

その次に、著者の専門の超弦理論にまつわる不思議な数式が紹介される。Dブレーンの簡単な解説もある。『アスラクライン』を思い出す。

それから、何故かローレンツ変換に戻るのだが、自然単位系で紹介されているのが著者らしいところである。相対論の簡単な説明もある。

その次が、超有名な指数関数と三角関数に関するオイラーの公式 exp(ix)=cosx+isinx である。それから、関数 e^t は、微分しても積分しても変わらないという話になって、お世話になりますガウシアン(ガウス型関数)の話題へと続く。

ガウシアン exp(ーπt^2) は、フーリエ変換しても変わらないという話からフーリエ変換が紹介される。教科書的には、フーリエ変換しても変わらないガウシアンは、exp(ーt^2/2) だったと思うが、本書では一般の教科書とは異なるフーリエ変換の定義が使われている上に説明が雑なので分かりにくい。TVコマーシャルの好感度調査と「1/f分布」の話は面白かった。

その次が、お懐かしやラグランジュの未定乗数法である。例題は、もう一つくらい高度なのも紹介した方がよかったのではないか。ガンダムで有名なラグランジュ・ポイントの紹介もある。

それから、ディラック先生のデルタ関数(正しくは超関数)の紹介があって、最後にドレイクの方程式というヘンな数式が紹介される。

 

 

第2分館 数と数学館

この章は、いきなりクオータニオンで読者を驚かせる。いわゆる四元数です。これは、ハミルトニアンやケイリー・ハミルトンの定理でお馴染みのウィリアム・ローワン・ハミルトンが研究していたものだが、彼の生きた19世紀には全く理解されずにハミルトンは失意のうちに亡くなったという。それが20世紀になって、3次元グラフィックスの世界で大いに活用されることになるのだから、天才の考えることは時空を超越している。本書の四元数の説明は少々分かりにくい。クオータニオンよりもさらにヘンなオクトニオンも出てくる。ここまでくるとほとんどタコである。

 

四元数については、こちらが基本的で分かりやすい説明をされています。

四元数と三次元空間における回転 | 高校数学の美しい物語

 

続いては、これは外せないフィボナッチ数列フィボナッチ数列に関しては色々面白いネタがあると思うのだが、少し簡単すぎるのではないか。

その次が、数列つながりでカオス理論のロジスティック写像が出てくる。これも、この種の一般向け科学解説書ではお馴染みの数式である。

それから、話題が変わって、これまたよく出てくるカルダノの公式(三次方程式の解の公式)とフェラーリの公式(四次方程式の解の公式)が紹介される。このエピソードも有名なのだが、本書で紹介するには紙幅が短すぎたようだ。

そして、アーベルとガロアの登場である。五次方程式の解の公式は無いという話であるが、群論を説明するにはそれだけで1冊の本が必要になってしまう。ここでは12ページにわたって簡略に説明されているが、やはり無理があったようだ。群論を知っている人が読めば分かると思うが、知らない人が読んで理解するのは難しいと思う。

その次は、出ましたゼータ関数。ここでは、

 1+2+3+4+5+・・・=ー1/12

という式で紹介されている。これはゼータ関数の ζ(ー1) の場合の式である。本書では紹介されてないが、この式に関するラマヌジャンの証明が手品みたいで私は好きだ。この式は超弦理論でも出てくる重要な式である。本書では、ζ(2)=(π^2)/6 も紹介されている。リーマンのゼータ関数の関数等式も紹介されているが、わざと難しい式を選んでいるような気がしないでもない。

 

 

第3分館 いろいろ図形館

まずは黄金比だが、連分数形で紹介されている。黄金比の表し方は他にも色々ある。それから、有名な「ケーニヒスベルクの七つの橋」が紹介されている。オイラーの一筆書きの問題である。これは、グラフ理論につながる。

ということで、次はまた出たハミルトンのハミルトン路の紹介。これは「NP完全問題」という問題につながるが、さすがに難しすぎる。その次は、結び目理論から「結び目の多項式の公理」の紹介になるが、この辺りは現代数学の難しい部分なので正直よく分からない。

続いては、ご存じマクスウェル方程式なのだが、ちょっとひねってロジャー・ペンローズの「グラフ記法」で紹介されている。数式の表記法は一通りではないことを言いたかったようだ。ペンローズ三角形も紹介されている。

次は論理学から「可能世界」と題された

 ~□=◇~

という不思議な式の紹介。これはド・モルガンの法則の発展形だそうで、□は必然を表し∀(全称記号)と機能的に同じであり、◇は可能を表し∃(存在記号)と同じなのだそうだ(~は否定¬を表す)。つまり、

 ¬∀xP(x)⇔∃x¬P(x)

ということか。従って、「任意のxについてP(x)ではない」=「P(x)が成り立たないようなxが存在する」と同じということになる。□は平行宇宙の全ての宇宙で「必然」ということで、◇は、平行宇宙のある宇宙において「可能」ということのようだ。すると、上のヘンな式は、「任意の宇宙について事象Pは必然ではない」=「事象Pが不可能な宇宙が存在する」という意味になるのか。またしても、『アスラクライン』を思い出す。

 

 

第4分館 無限の不思議館

最終章は、無限に関する話題である。まずは、

 √2 ^√2^√2^√2^√2^√2^√2^√2^√2^√2^・・・

という式で、これは2に収束する。直感的な解法は示されているが厳密ではないので、やや消化不良。著者は、物理屋なのでと言い訳している。

続いては、

 ー1=・・・999999 

という式だが、これは、

 1=0.999999・・・ 

の逆バージョンで「p進数」という。厳密にはpは素数でなければならない。例えば、2進数だと、

 ー1=・・・111111

となる。本書では、発想の転換の例として紹介したのだと思うが、本来p進数は数論や素粒子物理学で使われていて、難しすぎて分からない。

続いて、無限といえば、やはりこの人、ゲオルク・カントールの登場である。ここでは、自然数と実数の「総数」はどちらが多いか、という問題について、対角線論法が紹介されている。これも、この種の一般向け数学解説書ではよく出てくる内容だが、説明の仕方が少し大雑把ではないかと思った。

カントールの次は、クルト・ゲーデル不完全性定理の登場である。式にすると、

 ¬∃xP(x,n,n)=f[n](n)

となるらしい([n]は添字)。これを対角線論法を使って証明する方法が紹介されている。かなりややこしい。

因みに、ゲーデルの第1不完全性定理は、「公理的集合論が無矛盾ならば証明することも反証することもできない定理が存在する」みたいな感じで、第2不完全性定理は、「公理的集合論の無矛盾性を証明する構成的手続きは存在しない」みたいな感じです。長門有希を思い出す。

ここで、参考書として紹介されている、『はじめての現代数学瀬山士郎著(ハヤカワ文庫)は、以前から読みたいと思っていた本なのだが、なかなか見つからなくて未だに手に入れていない。注文してまで読みたいという熱意は無いのだが、いつか読みたいと思っている。

このあと、グレゴリー・チャイティンアブラハム・ロビンソンと現代数学の専門的な話が続いて、最後は「海岸線の長さはどうやって測る?」と題されたフラクタルに関する話題である。海岸線の長さを測るということは、意外に難しい問題なのだ。ここでは、フラクタル次元という非整数次元が紹介されている。最後は、量子の軌跡のフラクタル次元が2でブラウン運動フラクタル次元と同じであるという解説があり、閉館となる。

 

 

こうやって全体を振り返ってみると、著者お得意の分野が多かったかなという印象で、著者の著作物を色々思い出した。重要だと思われる数式で取り上げられなかったものを幾つか思いついたが、この辺りの取捨選択は著者の好みによるものだろうか。

何故これが取り上げられなかったのか不思議に思ったのは、シュレディンガー方程式ディラック方程式熱力学第二法則、ボルツマンのエントロピー、シャノンの情報理論波動方程式ナビエ・ストークス方程式、リーマンの素数公式、ラマヌジャンのπの公式などである。オイラーガウスには他にもいろんな数式があるし、キリが無いか。ヘンな式では、素数に関するウィランズの公式とかマティヤセヴィッチの素数公式とか。量子もつれの式もなんか変。

 

最後に、私の好きな数式は、ベタでもやはりこれである。


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アインシュタインの重力方程式。

シュヴァルツシルトの闇!

 

 

 

 

眺めて愛でる数式美術館 (角川ソフィア文庫)
 

 

 


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フィボナッチ数列黄金比に関する色々な数式。一番下の式が黄金比の連分数形。

 

 


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ペンローズ三角形

※引用元:Penrose triangle - Wikipedia

 

 


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アインシュタインの直筆。

M/(1ーv^2/c^2)^(1/2)が質量を表す。v=0のとき分母が1になる。この質量を静止質量という。この時、上の式は、

 E=mc^2

となる。vが光速に近づくにつれて分母が無限に小さくなるから、質量が無限に大きくなる。

 

 


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イアン・スチュアート(イギリスの数学者)による「世界を変えた17の数式」。17番のブラック-ショールズ方程式は、デリバティブの評価などに関係する経済学の方程式。

 

 

 

 

 

 

 

AlphaGoに花束を~『人工知能はいかにして強くなるか?』を読んで

8月の読書録01ーーーーーーー

 人工知能はいかにして強くなるか?

 小野田博一

 講談社ブルーバックス(2017/01/20)

 ★★☆

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一口に人工知能(Artificial Intelligence, AI)といっても、画像認識とか音声認識とか自動運転車とか対話型AIとか文章自動生成プログラムとか様々であるが、その中でも特に対戦型AIについて「人工知能が学習して強くなるしくみ」を解説したのが本書である。

 

著者は、人工知能とは、「知的に見えるふるまいをするプログラムやシステム」であると説明している。「知的に見えるふるまい」とは、「人が行うならば知性が必要である処理」のことだという。具体的には、学習、推論、判断などのことだろう。

 

2016年3月、Googleの研究部門が開発した囲碁プログラムAlphaGoが、韓国の囲碁棋士イ・セドルとの五番勝負を四勝一敗で勝利したことは、各メディアで大きく取り上げられたが、著者によると、ほとんどの記事でAIが「学習」する意味を誤解していたという。

 

著者は、AIの「学習」は人間的な意味での学習とは違うのだと強調しているが、人間の学習の定義については、説明しなくても分かるだろうという態度で、触れられていない。

 

そこで念のために調べてみたのだが、辞書的な意味では「学問や技術の基礎的な知識を学び習うこと」となる。「習う」とは、繰り返し学ぶことである。「習」という文字は、鳥の雛が羽を動かして飛び方を習うという意味だったと思う。

 

心理学的には「経験によって生じる持続的な行動の変化」ということになる。つまり、経験を積むことにより何かを習得するということか。これも一種の相転移だろう。

 

人が学習するとき脳内ではどのような変化が生じるのかについても重要だと思うのだが、本書では触れられていない。『脳・心・人工知能』(甘利俊一・講談社ブルーバックス)によると、脳科学的には学習とは、「神経回路網の動作がよりよくなるようにシナプスの効率を変化させる」ことであるという。これには、「教師あり学習」と「教師なし学習(自己組織化)」、それに「強化学習」がある。

 

そこで思い出されるのが、ネズミを使った迷路の実験だが、前掲書によると、これは海馬にある短期記憶の「場所細胞」が関わっているらしい。脳の記憶の仕組みは、コンピュータの記憶とは全く異なるという。また、脳というのは、一種の階層並列コンピュータであって、学習と記憶を並行して行い、脳の機能を改善していくという。本書では、この辺りの解説が無いので人の学習とAIの学習の違いが分かりにくいかも知れない。

 

前掲書『脳・心・人工知能』によると、そもそも人工知能研究は、「脳の模倣とは一線を画し、記号を用いて論理的な推論を行うことによって知能を実現する戦略を掲げて」始まったのである。つまり、人間の知能そのものをもつ機械を作ろうという研究ではなくて、人間が知能を使ってすることを機械にさせようという研究なのである。従って、AIの学習が人間の学習とは異なるのは当然のことなのである。AIにおける学習とは、すなわち、「機械学習(machine learning)」のことである。

 

本書では「機械学習」とは、「素データの背後にある何らかの規則をコンピュータが拾い上げること」であると説明している。つまり、数値化されたデータを解析して推論モデル(予測式)を構築するということである。それをもとに新しい結論を得る(未知のデータの結果を予測する)ことができるわけである。

 

たとえば、多量のデータを多変量解析のプログラムに入力して計算結果を出力させることが、AIの「学習」ということになる。本書では、多変量解析の例として、回帰分析と判別分析のごく簡単な例を紹介している。統計学の基本を知っている方が理解しやすいと思う。

 

「深層学習(deep learning)」は、機械学習の一手法であるが、私が理解している限りにおいては、人工知能研究における機械学習とは出自が異なる。そもそも、脳科学人工知能研究とは対立していたのだそうだ。この辺りの事情については前掲書『脳・心・人工知能』に解説されている。

 

深層学習のもとになったのは、人間の脳の働き(神経回路網=ニューラルネットワーク)を模した学習機械パーセプトロンの研究である。脳は情報を階層的に処理していく。その階層は何段にも分かれ、それぞれが特有の情報の表現を持つ。この中で、外界の構造に合わせた表現方法を内部に自動的に作り上げていく。深層学習とはこれを目指すものだという。

 

20世紀後半に二度のニューロブームが起きたそうだが、ハード面でもソフト面でもクリアすべきハードルが高くて全体的には研究はなかなか進まなかったようだ。ところが21世紀になって、コンピュータの能力が格段に飛躍するとともに、ビッグデータが扱える状況になった。そうした中で、カナダのヒントンが2006年に多層パーセプトロンを用いた「深層学習」の構想を世に問い、状況が変わったのだそうだ。

 

どこがこれまでと違うかというと、フィードバックを備えた確率的な神経回路網を多層に積み上げているところだという。しかも、はじめに自己組織化を行って、外界の情報構造を獲得するという。深層学習がその威力を最初に見せつけたのは、パターン認識、画像認識であった。この深層学習と人工知能を組み合わせたことにより人工知能研究は新しい局面に入ったのである。

 


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Why Deep Learning Is Suddenly Changing Your Life | Suddenly, Revolution and Change

🐱ニューラルネットワークによる画像認識の例。

 

 

本書では、ニューラルネットワークの計算の方法について、複数の変数を使って複数の合成値を作り、それらの合成値を使ってさらに合成値を作ることを繰り返し最後の出力層が答えを出すという仕組みであると、簡単に説明している。前掲書『脳・心・人工知能』では、さらに深層学習のもとになった神経学習の数理モデルの解説があるが、非線形でかなり難しい。また、種々のテクニックが開発されているし、様々な考え方があるようだ。

 

脳(神経回路網)の学習には前述の通り、教師あり学習、教師なし学習(自己組織化)、強化学習の3種類があるが、これらは人工知能でも用いられている。深層学習は、はじめに教師なし学習(unsupervised learning)を行ってから教師あり学習(supervised learning)を行うというアイデアが斬新なのだそうだ。従来の機械学習に比べて人間の学習に近いように思われるが、それでも脳の学習とは異なるようだ。AlphaGoは、深層学習と強化学習(reinforcement learning)を組み合わせて使っているという。

 


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機械学習(machine learning)と深層学習(deep learning)と人工知能(AI)との関係を図にすると上のようになる。Neurocomputingは脳型学習機械のこと。

 

 

本書では、人の学習と機械学習の違いについて、機械学習は経験から学ぶわけではないと説明している。また、従来の機械学習と深層学習の違いについて、従来の機械学習は人間が特徴量(変数)を定義しなければならないが、深層学習ではAIが学習データから自動的に特徴量を抽出するというのがよくある説明なのだが、これは用意されたアルゴリズムによって特徴量を抽出するという意味であって、コンピュータが自律的に判断するわけではないと、著者は釘を刺している。

 

対戦型AIでは、局面の良し悪しを数値化する評価関数の設定と読みの深さを何手までにするかがプログラム作成上のポイントとなるようだ。計算速度の制約があるので評価と読みのどちらを優先するかという問題になる。

 

スマホの無料アプリの定番ゲームなどでは、評価関数は簡略版で読みの浅いプログラムが使われているのだろう。久しぶりにやってみたのだが、将棋ソフトのBONANZAには惨敗した。強すぎる。囲碁は早く勝負がつく九路盤でやってみたが勝ったり負けたり。憂さ晴らしにリバーシ(オセロ)で四隅を取って圧勝した。レベルが上がると評価関数の設定が変わるか読みの深さが変わるかするのだろう。

 

2人で行う完全情報ゲーム(チェスや囲碁など)において、自分の手番のときにどの手がベストか完全に解析できた場合、その結果をデータベースとして持っていれば、完璧なゲームをすることが可能ということで、本書では完全解析の基本について解説されている。

 

対戦型AIでは、探索速度が最重要だという。従って、より深く手を読むためには、いかにして探索の無駄を省くかが非常に重要になるので、その代表的な手法が紹介されている。それらの手法を用いて、チェッカーについては、すでに完全解析されているそうで、チェスについては駒数が残り5駒以下の終盤について完全解析されているという。

 

本書の後半は、ハード面(計算速度や記憶容量など)とソフト面(新しい手法の開発など)の両方の進歩によって対戦型AIが徐々に進化していった歴史が、チェッカー、チェス、囲碁の順に紹介されている。棋譜の紹介がほとんどなので、ゲーム好きの人には興味深い内容だろうが、ゲームに興味の無い人やルールを知らない人にはつまらない内容だと思う。

 

人工知能研究が本格化したのは1950年代からだが、最初のチェッカープログラムが書かれたのは1952年である。チェッカーは読みの深さが全てともいえるゲームだそうだ。人間の世界チャンピオンに勝利したのは1990年代前半で、40年かかったことになる。1980年代以降ハード面が飛躍的に進化したことも関係するかも知れない。1990年代には終盤のデータベースが完成(4000億局面以上)、2007年にチェッカーの完全解析に成功したそうだ。双方が最善を尽くせば引き分けになるという。これは、従来の機械学習による。

 

チェスのプログラムの歴史はチェッカーよりも古いそうだが、本格的なチェスプログラムが書かれたのは1957年である。1970年代前半から世界コンピュータ・チェス選手権が始まり、様々な手法が開発され進歩していく。使用言語は、FortranやAssemblyだった。1986年に駒数5以下の終盤が完全解析される。

 

1989年、DEEP THOUGHTが世界コンピュータ・チェス選手権で優勝。計算速度は100万局面/秒で、読みの深さは10層だったという。このDEEP THOUGHTが進化したのがDEEP BLUEで、1997年に世界チャンピオンだったカスパロフにマッチ(6ゲーム)で勝利したのである。やはり、40年かかっている。ただし、早指しでは1992年にFRITZというプログラムがカスパロフに勝っているそうだ。現在世界最強のチェスプログラムはKOMODOというプログラムだそうで、人間的な知識による局面評価が最大の特色だという。この辺りになるとマニアック過ぎて正直ついていけない。

 

強いプログラムであるためには深い読みが必要なのだが、囲碁では膨大な計算量が要求されるので、AIが人間を超えるのは難しいと長らく考えられてきたという。最初の囲碁プログラムは1968年に書かれた。その後長らく、チェッカーやチェスと同様に、評価関数を用いたプログラムが書かれた時代が続くが強いプログラムはまったく登場しなかったという。

 

評価関数を使わずにモンテカルロ法を使ったプログラムが初めて書かれたのが1993年のことで、その後モンテカルロ法を使った強いプログラム(といってもアマ高段者レベル)が続々と登場したという。モンテカルロ法は、乱数を発生させて解の近似値を求める手法である。円周率の近似値計算が思い出される。

 

本書には例題として、「長さ1の直線上に極小の虫(つまり、点)が2匹、それぞれランダムな位置にとまる。このとき、2匹の虫の距離の期待値を求めよ」という基本的な問題が紹介されている。なんか懐かしい。(積分を使って、答えは1/3)

 

AlphaGoは、モンテカルロ法と評価関数を併用しているという。機械学習では、強化学習にモンテカルロ法を使うのである。これは、モンテカルロ法でランダムに選ばれた手を打つことを何百回も繰り返して評価を決めるという力技らしい。

 

AlphaGoは、2000万局ものプロの棋譜を学習し、さらにAlphaGo同士の対局をたくさん行い、多量の棋譜データを解析して、結果予測プログラムの精度を高めたという。人間同士の対局だけでは、ポカもあるので正確さに欠けるということである。機械学習における学習は、1ゲームごとに教訓を得るわけではないことが、ここでも強調されている。多量のデータから解析するのが機械学習なのである。

 

AlphaGoの最大の特色は、「この局面で人間はどこに打つか」を予測するプログラムを持っている点だという。この部分に深層学習が使われていると思うのだが、深層学習だという記述が無いので分かりにくい。著者は人工知能研究よりの人なので、深層学習をなるべく目立たないようにしているのではないかと勘繰りたくなる。

 

AlphaGoは、さらに、予測の正確さを多少犠牲にした高速計算版を持っていて、モンテカルロ法に使っているという。つまり、深層学習による予測プログラムの正確な予測で探索木の枝刈り(手を選択)しながら層(読み)を深めていき、末端では高速計算版を使ったモンテカルロ法と評価関数による予測プログラムで正確な予測をすることによって、AlphaGoは強いプログラムになったということのようだ。著者は、AlphaGoの基本構造は複雑なアルゴリズムではないことを言いたかったようだが、素人にうまく伝わるかどうか。

 

著者は、AlphaGoの強さの基本は、局面評価にモンテカルロ法を使っている点にあるという。これは、従来の機械学習における話であって、AlphaGo特有のものではない。また、精度のよい「人間の着手予測(模倣)プログラム」とモンテカルロ法を補う「勝率予測プログラム(時間を節約できる)」を使用していることがAlphaGoを強くしていて、それが他のプログラムとは大きく違う点であるという。この部分が深層学習だと思うのだが、深層学習だとは書かれていない。やはり、深層学習を目立たないようにしているとしか思われない。

 

全体的な印象としては、頭のいい人特有の分かりにくい文章という感じである。分かりやすい説明ではない。統計学やゲームの理論、グラフ理論の基本は知っていないと理解しにくいかも知れない。深層学習の解説は不十分だと思った。理系の一般向け解説書は、どの分野でも云えることだが、1冊だけで理解できるというものではない。著者の立ち位置なども知っておいた方がよい。いろいろ読み比べた方がよいだろう。

 

 

 

 

 

📄関連図書

脳・心・人工知能 数理で脳を解き明かす (ブルーバックス)

脳・心・人工知能 数理で脳を解き明かす (ブルーバックス)

 

※深層学習については、こちらの方が詳しい。

 

 

📄関連日記

 

 

 

 

 

 

地上の暮らしは大変なのだ~『ウニはすごいバッタもすごい』を読んで

7月の読書録05ーーーーーーー

 ウニはすごいバッタもすごい デザインの生物学

 本川達雄

 中公新書(2017/02/25)

 ★★★★

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一般向けの科学解説書を割とよく読む方なのだが、分野に偏りがあって、数学、物理学、天文学関係の本を読むことが多い。化学についてはもうウンザリという気持ちなのだが、生物学については遺伝子とか進化とか生態系とか興味深い話題があるので、たまに読みたくなる。今回は、久し振りに生物学関係の本を読んでみた。

 

著者は、歌う生物学者として有名な本川達雄東京工業大学名誉教授。一般向け科学解説書も数多く出版されていて、『ゾウの時間ネズミの時間』(中公新書)が最もよく知られているだろう。随分前に読んだ覚えがあるが、本書でも「サイズの生物学」に基づいた解説があり、再読してみたくなった。

 

本書では、地球上の様々な環境に棲息する様々な動物の世界が紹介されている。現在知られている動物の種の数はおよそ130万もあるそうだ。そのうち脊椎動物は約6万種で全体の5%にも満たないという。大半の動物は無脊椎動物なのだ。本書で紹介されている動物もほとんどが無脊椎動物である。すごいのはウニやバッタだけではない。本書は、地球上のあらゆる動物がそれぞれにすごいのだということを教えてくれる本である。

 


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第1章では刺胞動物門に属する動物が紹介されている。刺胞動物門には、イソギンチャク、サンゴ、クラゲ、ヒドラなど約9000種の動物が属する。ここでは、サンゴ(造礁サンゴ)について詳しく解説されている。驚くべきことに、サンゴは褐虫藻と共生することにより無駄のないリサイクルを達成しているのだという。また、栄養の乏しい熱帯の海であれだけ多様な生態系を可能にしているのもサンゴ礁のおかげだという。ところが、サンゴと褐虫藻の共生関係は微妙な温度変化で破綻してしまうのだそうだ。それが白化現象なのだという。地球温暖化が生態系に深刻な影響をもたらすことがよく理解できた。

 


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サンゴ。英語では coral. 

サンゴ礁は英語では coral reef.


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ソフト・コーラル(soft coral)

 

 

第2章では節足動物門に属する動物が紹介されている。動物の中で最も種の数が多いのが節足動物門に属する昆虫で、約100万種もいるという。生物全体でみても昆虫が半数を占めるそうだ。個体数でみても昆虫が生物の中で一番多いという。つまり、地球上で最も繁栄し成功しているのは、人類ではなくて昆虫なのである。節足動物門には他に、エビ・カニ・フジツボ、ムカデ・ヤスデカブトガニ・クモ・サソリ、絶滅した三葉虫の仲間が属している。

 

ここでは、昆虫が何故地球上で大成功し繁栄しているのか、その秘密が詳しく解説されている。中でも印象的なのが、クチクラの外骨格である。軽量かつ丈夫で高機能、細い脚でも折れないし、薄くのばせば羽を作ることもできるという優れものである。人間の骨は無機物(炭酸カルシウム)だが、クチクラは有機物であることも興味深い。また、昆虫の飛翔や跳躍のメカニズムについての解説も興味深かった。特にレジリンというほぼ完全弾性体に近い性質を示すタンパク質は興味深い。

 

昆虫と被子植物との共進化についても解説されている。動物の種の7割以上が昆虫であり、全光合成生物の約7割が被子植物なのだが、このような多様性は両者の共進化により生じたものであるという。昆虫は、甲殻類(エビ・カニなど)から進化したと考えられているそうだが、このように進化し得たのは陸上に進出したからであり、それを可能にしたのがクチクラなのである。昆虫の大繁栄はクチクラのおかげと言っても過言ではない。昆虫はすごいというか、クチクラは本当にすごいと思う。

 


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バッタ。英語では grasshopper.

 

 

第3章では軟体動物門に属する動物、つまり、貝の仲間を取り上げている。ナメクジ・カタツムリ、イカ・タコも軟体動物門に属する。全動物中、節足動物に次いで種類が多く、約10万種の現生種がいるという。

 

ここでは、一般的な軟体動物の特徴と軟体動物がどのように進化してきたかが詳しく解説されている。貝の殻の巻き方がなぜ対数螺旋なのかという話も出てくる。台風や銀河などの巻き方も対数螺旋になっていて自然界にはよく出てくる図形である。殻が退化した頭足類(イカ・タコ)の話はこの種の本ではよく出てくる話題だが、二枚貝についてはかなり専門的な解説になっている。特に著者の専門であるキャッチ筋という筋肉の解説が詳しく興味深い。

 


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対数螺旋の中でも最も美しい黄金螺旋。各正方形の辺の比がフィボナッチ数列になっている。


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オウム貝。英語では nautilus.

 

 

二枚貝が殻を閉じると簡単にはこじ開けることができない。殻を閉じるときに使われる筋肉を閉殻筋といい性質の異なる二種類の筋肉でできている。一つは素早く縮む筋肉でもう一つがキャッチ筋と呼ばれる特別な筋肉である。このキャッチ筋は、縮む速さは遅いが長時間にわたり疲れずに殻を閉じておけるのだそうだ。しかもエネルギー消費量が極端に少ないという優れものである。これはタンパク質の分子構造に秘密があるようだ。キャッチ筋に限らず、生物が様々なタンパク質を巧みに利用していることには驚嘆させられる。

 


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ウミウシも軟体動物。殻を脱ぎ捨てた巻き貝の仲間。英語では sea slug「海のナメクジ」

 

 

第4章第5章では棘皮動物門に属する動物が紹介されている。棘皮動物は、ウミユリ、ヒトデ、クモヒトデ、ウニ、ナマコの五つの仲間が約7000種いる。著者は、棘皮動物を40年以上研究してきた棘皮動物の専門家だけあって、棘皮動物には思い入れが深いようだ。小学6年の時にヒトデを濃硫酸液に入れてみたことがあるのだが、あの時はすごいことになった。そんなことを思い出した。(けしてマネをしないように)

 


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ヒトデ。英語では sea star.

 

 

第4章では棘皮動物の進化と特徴について詳しく解説されている。棘皮動物のユニークな特徴として、星形(五放射相称形)、管足、皮膚内骨片、キャッチ結合組織、低エネルギー消費の五つが挙げられている。本章では、特に五放射相称形について取り上げている。ヒトデだけでなくウニやナマコも基本は五放射なのだそうだ。ヒトデをふくらませて球体にして管足が棘になったものがウニで、ウニを上下に引き伸ばして横に寝かせたものがナマコであると考えると分かりやすいらしい。

 


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ウニの殻。五放射相称形なのがよくわかる。放射状に伸びている5本のクネクネを歩帯という。

 

 

一般に動物は左右相称の細長い体を持っているが、これは海で進化した動物が素早く運動するのに適した形だからであり理にかなっている。一方、動かない生物は放射相称形なのだ。その方が色々利点があるようで、やはり理にかなっている。棘皮動物の先祖はウミユリのように固着生活をしていたので自由生活に進化しても放射相称形が名残で残ったという。それでは何故、三でも七でもなくて五放射なのか、その考察が面白かった。

 


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ウニ。英語では sea chestnut「海の栗」

 

 

第5章では棘皮動物の残りの特徴について解説されている。特に著者の専門であるキャッチ結合組織については詳しく専門的な解説になっている。結合組織というのは、例えば靭帯が骨と骨をつなぐように、二つの組織を結合する組織のことをいう。性質はキャッチ筋と同様である。ウニもヒトデもナマコも筋肉とキャッチ結合組織を上手く使って体を硬くしたり軟らかくしたりする。それによって外敵から身を守ったり餌にありついたりしている。

 

棘皮動物はどれもユニークだが、特にナマコのユニークさが際立っている。著者によると、ナマコの筋肉量は体全体の7%と少ない。それに対して結合組織は60%もあるという。哺乳類の場合は体重の半分近くが筋肉で、結合組織はその3分の1しかない。ナマコの場合は、表皮と筋肉の間の真皮と呼ばれる分厚い部分がキャッチ結合組織になっているので、真皮が体の半分以上を占めているということである。つまりナマコは「皮ばかりの生きもの」なのだ。

 

ナマコやヒトデをつかむと固くなるのはキャッチ結合組織の働きである。固くなったナマコをしごくと、ナマコが溶け始める。著者が琉球大学に赴任した時にこの性質を知って疑問を感じたことがナマコに深入りするきっかけになったそうで、ナマコが固くなったり軟らかくなったりするメカニズムが詳しく解説されていて面白かった。

 

ヒトの場合、筋肉が使うエネルギーは体全体の3分の2にも達するという。筋肉が少ないナマコは、エネルギー消費量が少なくてすむということになる。しかも、キャッチ結合組織は筋肉の10分の1しかエネルギーを消費しないという。棘皮動物は他の動物よりも極端に省エネな動物なのだ。そもそも、あまり動かないし。従って、摂取するエネルギー量も少なくてすむということになる。ナマコは、砂に付着した有機物やバイオフィルムを砂ごと丸のみすることで栄養を賄っている。それで十分なのだ。海底の砂の上に住んでいるナマコは、食糧の上に住んでいるようなものだ。皮ばかりで栄養が少ないからナマコを狙う物好きな捕食者はほとんどいない。食べ物の上で日がな一日ゴロゴロしていて食われる心配もない。まさにお気楽極楽な生活である。羨ましい。

 

棘皮動物には脳がない。心臓や血管系も肺も眼もない。そんなものが無くても生きていけるように進化したのだ。棘皮動物には中心になる器官が存在しない。著者はこれを「地方分権型」の戦略だと解説している。これに対して、運動指向型の動物は「中央集権型」なのだ。脳がないということは、幸せも不幸せも感じないということか。生きるということは何なのか、ちょっと考えさせられる。

 


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ナマコ。英語では sea cucumber「海の胡瓜」

 

 

第6章と第7章では脊索動物門に属する動物が紹介されている。脊索動物門には約6万種の動物がいて、頭索動物亜門(ナメクジウオなど、約30種)、尾索動物亜門(ホヤなど、約3千種)、そして、我々が属する脊椎動物亜門の3つの亜門に分かれている。これらの動物に共通する特徴は脊索をもつこと。脊索とは、体の正中線の背側に前後に走る棒状の支持器官(体を支える器官)のことである。著者はこれを「細長い風船にパンパンに水を詰め込んだものをイメージすればいい」と解説している。脊椎動物の場合は、発生の過程で脊索は脊柱に置き換えられる。脊柱は、硬い骨でできた脊椎骨が、関節を介して連結し柱状になったものである。ここまでくると、自分の身体を考えればよいので分かりやすくなる。

 

第6章では、ホヤを例に尾索類について、その特徴が解説されている。著者によると、ホヤは「急須のようなもの」だと考えればよいそうだ。ナマコもユニークだが、ホヤもまたユニークな動物である。よく似た環境下では、よく似た形態の生物が進化するようなので、宇宙の何処かにナマコ型宇宙人とかホヤ型宇宙人とかが存在するかも知れない。そんな阿呆なことを考えてしまった。

 

ホヤ(尾索類)の最大の特徴は群体をつくることだろう。群体とは、無性生殖で増えた個体どうしの体の一部がつながったままになっているもののことをいう。群体になる動物は他に、刺胞動物のサンゴや曲形動物のウミウドンゲなどがいて、ほとんどが固着性の濾過摂食者であるという。これらの動物は、個体としては成長せず群体として成長するという。群体をつくる方が生き残り戦略上何かと有利なのである。著者はこれを「連合共和国型」と説明している。

 


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群体ホヤの一種。Wikipedia〈ホヤ〉より。

ホヤは英語では sea squirt「海の噴水器」

 

 

第7章では我々が属する脊椎動物亜門を取り上げている。脊椎動物の祖先は無顎類というアゴのない魚である。無顎類に次いで、アゴのある魚(顎口類)が登場した。そこから進化した最初の四肢動物が両生類である。両生類から爬虫類が進化し、爬虫類から鳥類が進化した。哺乳類は、すでに絶滅した単弓類から進化してきた。単弓類と爬虫類は共通の祖先をもつ。つまり、両生類から単弓類と爬虫類の共通祖先が進化して二系統に分かれたということになる。この辺りは、よく知られた話である。脊椎動物の進化には淡水域が大きな役割を果たしたようである。

 

分類学はややこしくて素人にはよく分からない世界だが、両生類から有羊膜類が分岐して、そこから爬虫類の祖先となる竜弓類と哺乳類の祖先となる単弓類の二系統に分かれたということのようだ。双弓類というのもあるのだが竜弓類の下位グループに属するのだろうか、よく分からない。この辺りはややこしいので本書では深入りしていないのだろう。

 

本書で紹介されている分類では脊椎動物亜門は、無顎上綱と顎口上綱に分かれる。前者は顎のない魚(ヤツメウナギヌタウナギ)で、後者は顎をもつものである。顎口上綱はさらに7つのグループに分かれる。うち3グループが魚類で、軟骨魚類綱(サメ、エイ)と条鰭(じょうき)綱(魚の大半がこれ)と肉鰭(にくき)綱(シーラカンス肺魚)があり、合わせて約3万種いる。脊椎動物の種の約半数は条鰭綱、つまり、一般的な魚である。肉鰭綱の仲間から四肢動物が進化し、両性綱(約6500種)、爬虫綱(約8700種)、鳥綱(約1万種)、哺乳綱(約5500種)の4つのグループに分類される。

 

陸に上がったのは、植物の方が先である。これは光合成するには陸の方が環境が良いからである。次いで、植物を餌とする節足動物が上陸し、さらに節足動物を餌とする四肢動物が上陸した。初期の四肢動物はすべて肉食であるという。陸上に住む動物の大半は、土の中や湿った場所、あるいは他の動物の体内に住むものであり、陸上の様々な環境に順応したのは、節足動物と四肢動物だけだという。

 

著者は、動物にとって陸上が水中に比べていかに生存に不利であるか7項目について比較しているが、水分の入手・乾燥の危険、姿勢維持・歩行、食物の入手と消化、窒素代謝物の処理、生殖・子孫の分散、温度の安定の6項目では、明らかに水中の方が暮らしやすくて、陸上生活で有利に働くのは酸素の入手だけということになる。動物にとって陸上で暮らすということは大変なことなのだ。イルカのように海に戻る連中も出てくるわけである。

 

酸素の入手が容易であるということは、エネルギーをたくさん使えるということであり、それによって恒温動物への進化が可能になった。恒温動物は変温動物に比べて10倍ものエネルギーを消費するという。我々は本質的にエネルギーを多量に消費する存在なのである。ナマコとは大違いである。

 

本章では、四肢動物がいかにして陸上生活に順応していったのか、その工夫が解説されているが、特に「姿勢維持・歩行」と「食物の入手と消化」について詳しい。陸上生活に順応するために骨格がどのように変化していったのかという話は、自分の身体に当てはめて考えることができるので面白い。「魚には首がない」とか「ヒトはこけながら歩く」とか初めて読む話題ではないが、やはり興味深い。筒井康隆の「歩くとき」という短編小説(『エロチック街道』新潮文庫)を思い出して、ちょっと笑った。「歩く」という動作は単純なようで複雑なのだ。あまり考えすぎると歩けなくなる。

 

「食物の入手と消化」についても、舌の発達や消化管の分化など、我々の身体のどの部位をとってみても、長い年月にわたって陸上生活に順応するために進化してきた結果であることが分かる。反芻や共生微生物などよく知られた話題も紹介されている。

 

こうして、様々な動物の進化と生き残り戦略を見てくると、知性は生命にとって必要条件ではないことが分かる。それぞれの動物は、何らかの意図をもって進化してきたわけではない。地球上にこれだけ多様な生物が存在するのは偶然と試行錯誤の賜物なのだろう。まったく気が遠くなるような話である。何故生命は存在するのか。理由など無いのかも知れない。生命や進化については考えれば考えるほどわけが分からなくなる。

 

 


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古典的で一般的な進化の系統樹。人類代表は、チャールズ・ダーウィン。かなり大雑把。

 

 


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ドイツ語の動物の進化の系統樹。ドイツ語なのでよくわからない。

 

動物が卵から発生する際に、まず、ボール状の胚となり、それに原腸ができる。原腸の入口を原口という。原口がそのまま成体の口となっていくものを旧口動物という。本書で取り上げられた中では、刺胞動物節足動物、軟体動物が旧口動物に属する。上図の左下の軟体動物より右側は右上部分を除くほとんどが旧口動物に属する。図の中央辺りはプラナリア、サナダムシ、ミミズ、回虫などが図示されている。他にハリガネムシやワムシやクマムシなどがここに含まれる。

 

一方、成体の口が原口とは別に新たに作られるものを新口動物という。棘皮動物、半索動物、脊椎動物が新口動物に属する。上図の左側の動物が新口動物ということになる。爬虫類と鳥類と哺乳類は、ここでは同じグループになっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

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一年振りにあのコンビと再会した~『陰陽師 蛍火ノ巻』

7月の読書録04ーーーーーーー

 陰陽師 蛍火ノ巻

 夢枕獏

 文春文庫(2017/06/10:2014)

 ★★★★

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陰陽師 螢火ノ巻 (文春文庫)

 

夢枕獏陰陽師シリーズ第14作目にあたる本書は、2013年から2014年にかけて発表された短編を中心に全部で9編の短編が収められている。

 

ちょうど1年前に前作の文庫版が刊行されて、去年のこの時期も『陰陽師』を読んだので、2年続けてこの時期に『陰陽師』を読んだことになる。

 

著者には今も書き継がれているシリーズ物が幾つかあるが、この陰陽師シリーズも第一作目の発表から30年近くになる。本棚にある第一作目『陰陽師』の文庫版も随分古くなってしまい頁が抜けそうになっている個所がある。愛着のある作品なので来年は新しいのを買おうかと思っている。

 

今作も安倍晴明源博雅が移ろいゆく季節を惜しみ愛でながら酒を酌み交わす。そこに不思議な事件が舞い込み晴明が解決する。派手に陰陽術を使う場面はほとんど無い。近年は淡々とした話が多い。博雅は笛を吹く。いつもと同じである。そこがよい。文章に味わいがあって十分に堪能できる。

 

とは言うものの変化も見られる。今作は、全9編中3編で蘆屋道満が登場する。この3編には晴明・博雅コンビは登場しない。前作で蘆屋道満が登場したのは全10編中1編だけだった。

 

これは、京の都以外の場所を舞台にした話の場合、晴明と博雅が地方に出かける「仕掛け」が必要になるが、道満であれば元々神出鬼没なキャラだからどこへ姿を現してもおかしくないという理由によるものらしい。従って、道満が登場する話は全て京の都から遠く離れた地方の話ばかりである。

 

夢枕獏が描く蘆屋道満は妖怪じみてはいるが単なる悪役ではなく、どこか憎めないキャラクターなので気に入っている。道満は悪でも正義でもなく浮世をあるがままに受け入れて楽しんでいる節がある。そこが面白い。

 

本シリーズでは、晴明にしても清濁併せ呑むところがあり、単なる勧善懲悪の話ではないところが長く続いている理由の一つではないだろうか。

 

晴明・博雅コンビの話の中では「花の下に立つ女」が掌編ながら自然界の生命の連続性を描いていて気に入った。「屏風道士」も長く生き過ぎてしまった道士の悲哀を描いていて味わい深かった。

 

道満の話では「産養の磐」が鍛冶ヶ婆の説話を上手くリミックスしていて面白かった。今回は、これが一番良かった。今後も道満の地方行脚の旅は続きそうで、こちらも楽しみである。

 

 

近年は、著者も還暦を過ぎたせいか、齢を重ねることは決して悪いことではなく素晴らしいことだという感慨が目立つようになったように思う。前作収録の短編「仙桃綺譚」での蘆屋道満の台詞が印象に残っている。

 

「不死などになったら、美味い酒は飲めぬ。笛の音を聴いても、それを心地よく聴けぬ。生命に限りあればこそ、酒が美味いのじゃ。なあ──」

 

 

 

 

陰陽師 螢火ノ巻 (文春文庫)

陰陽師 螢火ノ巻 (文春文庫)

 

 

 

 


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『絵本百物語』より「鍛冶ヶ婆(かじがばば)」

※鍛冶が嬶(かじがかか)とも言う。

 

土佐国の野根という処に鍛冶屋がいた。狼がその鍛冶屋の女房を食い殺して乗り移り、飛石という処で人を捕り喰らうようになったという。

 

※絵の方は、旅人が夜道を急いでいるとたくさんの狼と出くわしたので大木によじ登ってしのごうとした。狼は次々と重なって木の上の旅人の足元に近づいてきたが、少し足りない。リーダーの狼が「鍛冶ヶ婆を呼んでこい」と言うと、一匹の狼がどこかへ駆け出し大きな狼を連れてきた。その狼が狼の山をよじ登り旅人に迫ってきたので、旅人は狼の頭に向かって刀を斬りつけた。すると、狼はちりぢりに逃げて行った。夜が明けて、旅人が木から下り最寄りの村へたどり着くと、村では鍛冶屋の婆が夜中にどこかへ出て行ったかと思うと大怪我をして帰ってきたと騒いでいた、という説話にもとづくようだ。

 

 

 

 

 

 

井伊直虎関連本を読む(3)

7月の読書録03ーーーーーーー

 女城主・井伊直虎

 楠戸義昭

 PHP文庫(2016/05/11)

 ★★☆

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今年は、NHKの大河ドラマを初回から見続けて感想も書いてきたのだが、ちょっと飽きてしまった。毎年思うことだが、やはり一年は長い。

 

ドラマの方は、ようやく運命の永禄11年(1568)に入った。寿桂尼の命日は3月14日である。直虎が今川氏真井伊谷の地頭職を取り上げられ、小野但馬守が井伊谷城代になる11月までには、まだまだ紆余曲折がありそうだ。12月には武田・徳川が駿遠に侵攻するのだが、小野政次の最期は9月頃に放送するつもりだろうか。

 

虎松の母親(しの)が松下源太郎清景と再婚した時期は、実際のところは不明であるようだ。なぜ、再婚の相手が松下源太郎だったのか以前から疑問だったのだが、ドラマの徳川方への人質としてというのは、松下源太郎自身は徳川の家臣でもないし、少し無理があるのではないだろうか。

 

 

さて本書だが、井伊直虎について書かれた本としては、よくまとまった内容だと思う。直虎については史料が少ないので、どの本も内容は似たり寄ったりになるし、直虎の生涯だけでは一冊の本にはならないので、他の部分でどのように差別化を図るかがポイントになる。

 

本書の場合には、直虎以前の井伊家の歴史が詳しく紹介されていて参考になった。直虎の生涯とその間の井伊家の動向についても、脇役陣も含めてこれまでに読んだ直虎関連本よりも詳しく書かれていたように思う。史料や伝承を素直に解釈すればこうなるだろうという内容で無難で平凡な解釈と云える。

 

直虎の人物像については著者の想像で描かれているが、これも無難で平均的な解釈と云える。小野氏についても素直に悪家老という解釈をしている。小野氏については高野澄の『井伊直政』の解釈の方が納得できる。井伊家が生き残ったのは、やはり南渓和尚の存在が大きかったのだなあと、再認識した。

 

本書では直虎の時代の井伊家の石高をおよそ二万五千石と見積もっている。どのように計算したのか根拠は分からないが、決して大きくはないが小さくもない微妙な数字だ。因みに、丸島和洋の『真田四代と信繁』によると豊臣政権時代の真田昌幸の上田領が三万八千石、信幸の沼田領が二万七千石、秀吉の馬廻衆だった信繁が一万九千石だったという。

 

著者は新聞社出身だけあって、井伊家縁の各地まで出かけて現場を取材している点は好感が持てた。亀之丞(井伊直親)の信州伊那谷での潜伏先である市田郷(現高森町)にも取材に出かけている。現地では、亀之丞は現地妻と一男一女をもうけたことになっているそうだ。これは知らなかった。亀之丞が井伊谷に帰還する際、女の子(高瀬姫)は連れて帰ったが、男の子は置いていったという。その子孫もちゃんといるそうだ。

 

直虎の出家は、直親帰還の前年にあたる天文23年(1554)としていて、直親に現地妻との間に子供がいることを知ったことを出家の理由としているが、これは飽くまで著者の想像に過ぎない。本当のところは分からない。高瀬姫は、武家の娘にありがちな人生を送ったようだ。墓は彦根にあるそうだ。

 

虎松(直政)の生涯についても、通説通りの内容で紹介されている。直政が22歳(天正10年=1582年)まで元服しなかったのは異例のことだが、これは直虎が生存している間は直虎が井伊家の当主であることを尊重したためという解釈をしているのが印象に残った。直政の元服については、家康の意向もあっただろうから少し無理な解釈かと思うが、直政の異例に遅い元服は謎の一つではある。

 

ともあれ、大河ドラマ『おんな城主直虎』の前半の内容の復習と後半の流れの展望は出来たので良しとする。虎松の奥三河鳳来寺への逃亡には、奥山六左衛門が亀之丞の時の今村藤七郎の役目を果たしそうである。井伊谷三人衆のその後は大体知っていたが、傑山昊天のその後や松下常慶など脇役陣のその後など細かい部分の情報が分かったのも収穫だった。

 

巻末には、著者の娘さんによる井伊家縁の各地を詳しく紹介した「特別史跡ガイド 女城主・直虎と井伊家の歴史の歩き方」が掲載されているのも本書の特徴である。

 

 

大河ドラマの感想を書くときには、 ドラマと史実とは別物だし先入観にとらわれたくなかったので、脇役陣の素性などは細かく調べずに書いた部分もあって、高瀬姫武田の間諜説とか頓珍漢なことを書いてしまったこともあったが、まあ気にしないでおこう。

 

 

 

女城主・井伊直虎 (PHP文庫)

女城主・井伊直虎 (PHP文庫)

 

 

 

 

 

 

 

もっと知りたい伊藤若冲

7月の読書録02ーーーーーーー

 もっと知りたい 伊藤若冲 生涯と作品

 佐藤康宏

 東京美術(2011/07/30:改訂版)

 ★★★☆

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もっと知りたい伊藤若冲―生涯と作品 改訂版 (アート・ビギナーズ・コレクション)

 

去年、ピンタレストPinterest)で伊藤若冲の作品の画像を集め始めてからおよそ一年が経ち、代表的な作品は『乗興舟』と『玄圃瑤華』以外は大体保存したと思う。

 

ところが、最初に『動植綵絵』を全て保存してからは、目についた順に作品画像を保存していった結果、まとまりがないことになってしまった。

 

例えば、屏風絵については、画像が小さくなるので各扇ごとに画像を保存しているのだが、それがバラバラになっていたりするのだ。

 

『鳥獣花木図屏風』や『樹下鳥獣図屏風』も画像が小さくなるので部分に分けて保存するのだが見栄えがよくない。

 

『乗興舟』と『玄圃瑤華』をまだ保存していないのも、できればまとめて保存したいからである。『菜蟲譜』はまとめて保存することが出来たのだが。

 

編集して画像をまとめたいと思うのだが、ピンタレストは編集機能や検索機能がお粗末で画像を並べ替えたり観賞したりするにはあまり向いていないように思う。作品を見やすいように並べ替えるには新たにボードを作った方が手っ取り早いようだ。

 

どのように作り直すか。『動植綵絵』を中心に好きな作品をセレクトするか。軸と屏風と版画と障壁画その他に分けるか。色彩画と水墨画その他に分けるか。年代順に初期中期後期と分けるか。悩ましいところである。

 


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乗興舟(部分)

明和4年(1767) 一巻 紙本拓版

縦28.7×長さ1151.8cmの一部

 


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『玄圃瑤華』のうち「冬葵」

明和5年(1768) 一帖(四十八図)のうち一図

紙本拓版 縦28.2×横17.8cm

 

 

 

そこで考えをまとめるために、おさらいも兼ねて、東京美術の美術初心者向け「もっと知りたい」シリーズの一冊である本書を読んでみた。去年は、狩野博幸若冲入門書を読んだので、本書の著者と若冲作品の鑑賞の仕方の違いを読み比べるのも興味深い。

 

本書は、伊藤若冲の生涯と同時代の出来事が年表になっていて、商人時代、画家人生初期、動植綵絵時代、天明の大火まで、晩年の各時代ごとに若冲の人生と代表作品が解説されている。特に、動植綵絵時代が詳しい。また、大典や売茶翁など若冲を取り巻く人々や曾我蕭白円山応挙など同時代の画家にも触れている。図版も豊富で初心者には分かりやすい内容である。『動植綵絵』については、三十幅全ての図版が掲載されている。

 

そういえば、澤田瞳子の『若冲』を買ったきりで、まだ読んでなかった。そろそろ読まなくては。

 

動植綵絵』の裏彩色の技法には目を見張った。裏彩色は絹に描かれた絵の裏から彩色するという東洋絵画の古い技法で、日本では古代・中世の仏画などに多くの例があるそうだ。若冲はこの手のかかる技法を『動植綵絵』で多用しているという。

 


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動植綵絵』より「雪中鴛鴦図」

宝暦9年(1759) 三十幅のうち一幅

絹本著色 縦141.8×横79.0cm

※裏彩色の技法が使われている。

 

 

 

江戸時代の多くの画家と同様に若冲も複数の弟子を動員して工房制作を行った。特に晩年の水墨画では、若冲の印がありながら実際には弟子が描いたものがある。これは知っていた。

 

弟子の名前がまた若演とか環冲とか紛らわしい名前である。宝蔵寺のホームページで若冲の鶏を模写したような弟子の作品を見たことがある。若冲の弟の白歳(青物問屋だけにハクサイ)が若冲の羅漢図を模写した作品もある。

 

本書で著者は、静岡県立美術館の『樹下鳥獣図屏風』やプライス・コレクションの『鳥獣花木図屏風』は若冲の実作ではなくて弟子が描いたものだと主張している。前者は、「若冲の下絵をもとに弟子たちが彩色したと考えられる」という。後者について著者は、「絶対に若冲その人の作ではない」と断言している。著者に言わせると「稚拙な模倣作」であると辛辣である。

 

去年、伊藤若冲については色々調べたのだが、これについてはWikipediaの〈伊藤若冲〉の項に著者・佐藤康宏と辻惟雄との論争が紹介されているので知っていた。正直言って、素人にはよく分からない話である。私的には、この二作品はあまり好きではない。

 


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『樹下鳥獣図屏風』左隻


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『樹下鳥獣図屏風』右隻


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『鳥獣花木図屏風』左隻


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『鳥獣花木図屏風』右隻

 

 

 

ショックだったのは、お気に入りだった福岡市博物館の『付喪神図』も著者に言わせると模本だということだ。これは知らなかった。「おそらく若冲の原本が存在したことを想像させるだけのユニークな造形」を見せているが、「描写が弱々しく、署名も印も若冲の真正のものではない」のだそうだ。本当だろうか?

 

言われてみると確かに作品としては劣るような気もしてくるが、造形も構図も面白いし描写の弱々しさがこの世のものではない感じを表現しているようにも思う。付喪神を描いた妖怪画としては他にはないユニークな作品だと思うし、やはり、これはこれで悪くはない。

 


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付喪神図』 一幅 紙本墨画 19世紀

 

 

 

ピンタレスト若冲作品を渉猟していると、偽若冲作品に出くわすことがある。これは弟子の作品ではなくて、他の画家の作品が若冲作になっていることがあるのだ。谷鵬の虎図や渡辺南岳の岩上猿猴図などが伊藤若冲作になっていたりする。

 

これは、プライス・コレクションの「若冲と江戸絵画展」の図版には若冲以外の作品にも「若冲と江戸絵画展」と書かれていて、誤解している人がいるのが一因のようだ。「若冲琳派展」という作品展も同様で、琳派の作品なのに若冲作となっていたりする。本書にも若冲が(日常的に周囲に尾形光琳の作品があったことから)光琳の意匠から着想を得た作品もあるという解説があるが、若冲作品かどうかは、画風や署名・落款を見れば分かるだろうにと思う。

 

プライス・コレクションの虎図を全て若冲作品として紹介している英語のサイトがあり、これも誤解の一因となっているようだ。片山楊谷の虎図が伊藤若冲作として人気を集めていたりする。他にも、長澤芦雪や中原南天棒の作品などが若冲作になっていることがある。外国人には南天棒が人の名前だと分からないらしい。こうやって間違った情報が拡散していくのだなあと実感した。

 


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ピンタレスト伊藤若冲の作品として人気を集めている「猛虎図」。どう考えても伊藤若冲が描きそうにない虎である。楊谷と署名もあるし、毛の描き方から見ても片山楊谷だと思うのだが。外国人には分からないか。

 

 

 

かくいう私も、相国寺(しょうこくじ)をうっかり〈Sokokuji temple〉と表記してしまい、面倒なので訂正していない。こうやって間違った情報が拡散していくのだなあ。訂正しなくては。

 

ともかく、偽若冲作品を保存している「伊藤若冲」とタイトルされたボードはあまり信用しないことにしている。にわかファンの半可通が多いようだ。私も素人の半可通だから気を付けねばと自戒している。そんなこともあって、今回、若冲基礎知識をおさらい出来てよかったと思う。

 

 

 

もっと知りたい伊藤若冲―生涯と作品 改訂版 (アート・ビギナーズ・コレクション)

もっと知りたい伊藤若冲―生涯と作品 改訂版 (アート・ビギナーズ・コレクション)

 

 

 

 

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