『城塞』再読(5)
🐱 司馬遼太郎の『城塞』中巻を再読しております。今回は、大坂冬の陣開戦までの徳川方の動きと大阪城内の対応を振り返っておきます。
🐱司馬は、家康の対大坂政略について、
かれが後世、悪人然とした印象を庶民に植えつけてしまったのは、この時期のやり方が、政略でも戦略でもなく、単なる犯罪計画で、かれ一人がそれを樹て、実行したところにあるであろう。
としている。家康は、半年も前から武器・弾薬・鉛などをさかんに買い入れている。また、大坂との開戦が決定的になったとき、後水尾天皇に対して、秀頼追討の綸旨を賜りたいと願ったという(天皇はこれを拒否)。家康自身後ろめたさがあって、開戦の名分をつけようとしたと考えられる。司馬は、家康が全ての大名を動員したのは、全ての大名を共犯者にしたかったからだと見ている。
🐱『城塞』での家康は、「世間」というものをものすごく気にしている。
戦争というのも世間である、ということを骨の髄から心得ていたのが、世間から大御所さまといわれている徳川家康であった。
「世間というものの心をどうくすぐり、どう恫(おど)し、どうころがすか」
むろん、この場合、敵も世間であり、味方も世間である。世間ということにおいては、敵味方とも一つのものであった。
🐱『城塞』における家康は「巨悪」の典型であり、淀殿は「愚」の典型であるように描かれていると思われる。
◾慶長19年(1614)9月18日、家康、播磨の国主池田利隆(輝政の子)に尼崎まで 兵を出すように命じる。
※司馬はこれが軍令第一号であったとしている。淀殿は何も知らず大蔵卿局の報告に望みを託している。
家康(73歳)、開戦を決意。諸大名に動員令を発する。
※10月2日、本田正純が藤堂高虎に宛てた書状より(読みやすいように多少改変)。
大御所様、 今度の仕合をお聞きなされ、おおかたも無くお若やぎなされ、[略]、昨日、ちとお気合あしく御座候つるが、大坂の仕合お聞きなさり候てより、すきすきとよくおなりなされ候。
※大坂謀反ときいた家康は、愛用の刀を腰に差し、「大坂討滅は本望なり」と叫び、刀をさっと抜いて飛び上がったという。(70過ぎの爺さんが)
※『城塞』では、福島正則にだけ、「江戸で留守をさせよ」と命じている。(実際には、加藤嘉明・黒田長政・平野長泰も江戸残留を命じられた)
◾10月11日早暁、家康、駿府城下を出陣し、西征の途につく。
※家康は、股引・羽織・わらじという鷹狩りの装束で、五百人足らずの小勢だった。 行くさきざきで放鷹を繰り返しながら、ゆっくりと行軍している。
◾10月12日、堺合戦。大坂方、堺を占領 。
😽大河ドラマ『真田丸』では、幸村が大坂城下の兵糧の確保と堺の占領を進言しているが、戦略としては基本中の基本であり、大坂方もそこまでアホではない。あの場面、分かりきった事を偉そうに言うキャラかと思った。兵糧は、早い段階で確保し始めている。
※板倉勝重からの報告は、14日に駿府に届いている。家康は、特に意に介した様子はなかったという。「親か子か」と尋ねながら戸に手をかけてがたがたと震えたという逸話は創作らしい。(丸島和洋『真田四代と信繁』)
※『城塞』や大河ドラマ『真田丸』では家康の出陣前に大坂城入り している。
[大坂方総大将決まらず]
※『城塞』では、9月の段階で織田信雄を総大将にしようとするが逃げられている。その後、大野修理の弟主馬(治房)案が浮上するが、主馬は即座に断っている。 司馬は、大将の人選が 遅れたのは、大野修理が希望的観測 に固執し過ぎたためだとしている。
大野修理(と淀殿)は、豊臣家の威光が、今なお世間に対して有効であると信じているのである。そんなこんなで大将が決まらないまま、軍議は毎日開かれるのだが、部署割りからして紛糾する。百論百出して容易に決まらず、 結局くじになる有様である。
大坂城には大将といえるほどの存在はなく、武略のことはもっぱら衆議による。その衆議も大野修理が秀頼に申次をするため、その意見のみ重く、牢人諸将の意見は多くは軽んぜられる。
[軍議は踊る]
※家康がまだ京に入らない頃、大坂城本丸御殿において秀頼臨席の上で軍議が開かれた。軍議の内容は書く人によって内容が微妙に異なるのだが『城塞』の場合は、幸村が父昌幸が遺言として残した出戦論を元に自ら考えた策を説いている。それは、天王山に本陣をおき、京を焼き、大和路を制圧し、さらに進んで宇治・瀬田川を守り、この線をもって家康の西上を防ぐというものである。又兵衛はじめ諸将が賛成するが、大野修理治長が籠城論を唱え反対する。淀殿が許さないからである。大野修理は、淀殿の意には逆らわないのである。
じつは、幸村の出戦案は修理にとって初耳ではなく、それ以前からきいていて、淀殿に申しあげたことがある。そのとき淀殿はぴしゃりといった。
「右大臣家(秀頼)を城外にお出し申しあげることはできませぬ」
※『難波戦記』によると、大野治長が片桐且元の茨木城を落とし京を焼き討ちし板倉勝重を虜にしようと提案し、幸村が宇治・瀬田川まで進むことを提案し、又兵衛がそれに乗るが、小幡勘兵衛景憲が「宇治・勢多を守って古来勝利した者はない」と異論を唱え、結局籠城策が採用されることになる。
※火坂雅志の『真田三代』は、これを踏襲し、小幡勘兵衛は登場せずに、治長は籠城策に転じている。
◾10月23日、家康、二条城に入る。
※家康は、片桐且元に大坂城の濠の深浅や、諸方攻口のようすなどを絵図面で説明させている。『城塞』では、秀頼・淀殿の居所のあたりに朱点を入れさせている。
且元は地図の上を這い、点を打った。地図から離れたとき、息づかいがみだれ苦しげであった。且元は朱点を入れることによって、旧主を売ったのであろう。家康が且元に期待したのはそれであった。
※『城塞』では、家康の上洛を知った淀殿が、鉢巻・腹巻姿で薙刀を持たせた侍女らをしたがえ城内を巡視している。
◾同日、秀忠、約六万の大軍を率いて江戸を出発、11月10日、 伏見に到着する。
※真田信之は、健康を理由に江戸に留まり、息子の信吉・信政を派遣している。
※秀忠は関ヶ原の恥辱をそそごうと考え、「自分がつくまで、攻撃を始めないでくれ」とたのみ、夜を日に継ぐ強行軍で駆けつける。そのため、将士がくたくたに疲れて戦力の低下をきたしたために、またしても家康の機嫌を害している。
◾11月15日、家康、二条城を発ち奈良に入る。
※『城塞』では幸村は、諜報網を張りめぐらしており、この情報をいち早くつかみ強襲を進言し、又兵衛も賛成するが、大野修理に拒否される。
※『真田三代』では、猿飛佐助と 霧隠才蔵が強襲したが失敗に終わっている。
◾11月16日、家康、奈良の宿陣を出発、大和路を西進、法隆寺に泊まる。
◾11月17日、家康、終日寒風が吹く中、強行軍で河内に入り、住吉の里に着く。
◾11月18 日、家康、早朝に住吉を発ち、枚方経由で主力軍を率いてきた秀忠と茶臼山で落ち合う。
◾11月19日、木津川口の戦いをもって、 大坂冬の陣の戦いの火蓋が切られる。
※大坂方10万人、徳川方20万人と云われている。
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