森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

炬燵して語れ真田が冬の陣 蕪村 ~真田丸の攻防

『城塞』再読(9)

🙀司馬遼太郎『城塞』中巻を再読しております。今回は、大河ドラマ真田丸』に先駆けて、真田丸の攻防戦を振り返りたいと思います。

 


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🔘真田丸の攻防 

◾11月29日、博労淵の戦い、野田・福島の戦いに敗れた大坂方は、翌30日、大坂城惣構えに撤退し、籠城戦に入る。同日、家康の命で藤堂高虎が大筒を放って大坂城西南の櫓を攻撃している。

 

◾12月1日、家康、「前進せよ、ただし接近すべからず」という命令を出す。

※大坂方は、北川次郎兵衛・山川帯刀率いる一万の軍勢を真田丸の後背に配置し、防備をさらに固めている。

 

◾12月2日、家康、前線を視察、真田丸を見て、「とても無理押しはできぬ」と判断する。

▶幸村は、真田丸の南にある笹の密生した「笹山」とよばれる小さな丘にも柵を組み銃隊を配している。

▶家康は前田利常に、陣地の前に壕を掘り、土塁を高々と築くように命ずる。

▶幸村は、笹山の銃卒を増やし、工事中の前田部隊に銃を乱射させる。この射撃によって前田方の死者は多数にのぼり工事が進められない。前田勢は総力をあげて笹山を奪取することを決める。

 

※前田家の筆頭家老本多安房守政重は本多正信の次男、つまり、正純の弟である。前田家は、関ヶ原のあと、徳川家に恭順する姿勢を態度で示そうと本多政重をもらいうけて、筆頭家老にしたのである。政重は家老ながら五万石、徳川家からは大名待遇をうけ、前田家の軍事・行政を牛耳っていた。前田勢の事実上の大将は本多政重であった。前田利常は本来聡明だったが、徳川家からあらぬ疑いをかけられないように生涯愚人を粧ったという。(後には、バカボンのパパみたいに鼻毛を伸ばしているのだ)

 

◾12月4日未明、前田軍が動き始める。『城塞』では、本多政重が抜け駆けしたことになっている。夜陰に乗じて笹山によじ登るが、もぬけの殻であった。事前に察知した幸村が守備兵を撤退させていたのである。

▶本多隊の銃声を聞いた他の諸隊も動き始め、笹山を先んじられたため真田丸に向かって進軍する。本多隊も慌てて真田丸に向かう。互いに先を争うが闇夜に濃霧が立ち込め方角が分からず、真田丸の堀端に至ってようやく気が付く始末。大混雑の中、後ろから押されて次々と兵は掘に落ち込んでいく。這い上がろうとしても頭上からまた人が落ちてきたりして大混乱である。

▶幸村は足を組み、柱にもたれたまま瞑目し動かない。真田丸の無数の銃眼からのぞいた銃は不気味に沈黙を守ったままであった。

 


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(『真田幸村の謀略』東映・1979年 )

 

 

▶やがて夜が明け霧が晴れる。幸村は大声で聞こえた男、藤沢重蔵に口上を述べさせる。

「それへ犇めいておわすのは、加賀中納言利常公のお手勢とお見うけ申す」

「昨夜あれなる笹山を取りまいてたいそうな発砲さわぎをなさっておられたが、あれは兎や雉でも狩り立てなさるおつもりでござったか。しかしながらあのようにお騒ぎあっては、兎も雉も居たたまれずにどこぞに逃げてしもうたでござろう。狩りが済んだ以上、早う早うおひきとりあれ」

「それとも、いくさをなさるおつもりならば、相手はこの小さな出丸、日本一の大大名のお相手にしては御不足ではござろうが、寄せてかかられては如何。それとも笹山で兎を追うだけにておひきとりあるか」

▶本多政重は、この挑発に乗り、「かかれ」と、采を振ってしまう。

▶前田勢はどっと堀へ飛び込み、さらに城壁にとりつき、登りはじめる。司馬は、一番乗りは、本多政重隊の奥村栄頼という者であったと記している。 

▶幸村は、じっと「待て」の命令を徹底させ続けている。やがて数百人が取りついたとみたころ、千挺の鉄砲が一斉に火を噴く。最初の一斉射撃が終わって硝煙が薄れたときには、城壁に一人の前田兵もいなかった。堀に落ちた兵に雨のように矢を射かけ、さらに、ふたたび銃丸を降り注がせる。

▶前田隊の前進に刺激された諸隊も動き始めるが、木村重成隊や後藤又兵衛隊を始め諸隊が猛射をあびせ、たちまち城南は濛々たる硝煙でつつまれる。

真田丸では射撃が終わると、五百の突撃部隊が前田隊の連携部隊である寺沢隊や松倉隊を急襲して潰乱させる。

▶驚いた前田利常は伝騎をもって退却命令を出した。母衣武者森権大夫が前線を駆け回って退却を連呼して帰陣してみると背中にかついだ母衣(竹製の骨でふくらませた布製の大きな袋)に48個もの弾痕があったという。

▶東軍の潰乱ぶりは全線にわたってすさまじいばかりであった。

世間は、東軍の負けとした。

家康がもっともおそれていた事態が、おこってしまったのである。

 

 

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※冬の陣図(真田信吉・信政は画面右上佐竹義宣の右)

 

 

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月岡芳年「大坂軍記真田幸村冬の陣」1873年

 

 

 

🐱というのが『城塞』での「真田丸の攻防 」なのだが、他の本には少し異なることが書かれている。火坂雅志の『真田三代』では、

 

◾本多政重隊の武将奥村摂津守が篠山を占領したが無人だったため、頭に血がのぼった奥村をはじめ前田隊が真田丸に攻め寄せ、一斉射撃を受ける。

▶前田隊の抜け駆けを知った松平忠直井伊直孝藤堂高虎の諸隊も真田丸に押し寄せるが銃撃にあい枯木のように兵達が倒れてゆき、あわてて退却をはじめる。

▶その時、真田丸後方の惣構えのうちにいた石川康勝の守備隊が、うっかり火縄を火薬の入った桶に落としてしまい、轟音とともに櫓が燃え上がる。

▶それを見た徳川勢は、城内の内通者が呼応したものと勘違いして、再び真田丸に取り付くが、兵達が殺到して、すし詰め状態のところへ、銃弾、弓矢、石つぶてが降り注ぎ大混乱に陥る。

▶それを見すました幸村は、息子大助に赤備えの兵五百をつけて、真田丸の門外に出撃させる。大助の隊は、浮き足立つ敵軍に甚大な被害を与えて意気揚々と真田丸に引き上げる。

 

※こちらの方が通説に近いようである。内通していたのは南条元忠という武将だが、南条はすでに処刑されていたという。大助には母衣(ほろ)衆(秀頼親衛隊)伊木七郎右衛門が付いていたという。伊木は目付として真田丸に入っていた。

※激怒した家康は撤退命令を出すがなかなか行き届かなかったという。徳川勢は城南に十五万もの兵を集めていたが、戦死者は最大で一万五千人という記録もある。司馬は二千ほどであったであろうとしている。

真田丸には六千もの軍勢が籠もっていたとされる。つまり、真田丸は、それくらいの規模だったということになる。実は、長宗我部盛親の部隊も真田丸に入っていたのだが、真田幸村に全部持って行かれたようだ。藤堂高虎が井楼を築いて長宗我部隊を攻撃したが、木村重成隊が援軍として駆けつけて活躍したという話もある。

※徳川方は大坂方についた牢人勢を単なる寄せ集めと軽く考えていたようだが、丸島和洋は、

「寄せ集め」の印象が強いが、同時に彼らは「歴戦の勇士」である。

と、指摘している。一方、徳川方は関ヶ原から十五年経ち世代交代が進み、主力は経験不足の者が多かったという。「兵の質」という意味では、大坂方の方が高かったということになる。司馬遼太郎も『城塞』で同じようなことを書いていて、家康の悩み事になっている。

(😽大河ドラマ真田丸』第44回「築城」で幸村も、同じようなことを言っていたな )

 

※いずれにしても、この真田丸の攻防で真田幸村は一躍その武名を天下に鳴り響かせたのであった。

(😽『真田丸』第44回「築城」で絵図に描かれた真田丸を見て家康は、

「真田。またしても、真田か!」

と唸ったが、タイミングが早過ぎたと思う。家康は、ここでそれを言うべきだと思う。秀忠が言ったという説もある)

 

真田丸は、当初は単に「出丸」と呼ばれていたようだが、この幸村勢の活躍で、いつしか「真田丸」と呼ばれるようになったらしい。別に「決まってるだろう」ということは無かったようだな。

(😽オープニングが始まらねえ)

 


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🔘幸村に仕掛けられた寝返り工作 

🐱『城塞』に戻ります。

◾家康は、この戦況の不利を謀略を用いて転回しようと画策する。

「真田左衛門佐に餌を見せよ。かれを誘(おび)きだすことが最上であろう」

本多正純へ言い、正純をしてその手配をした。

家康は、幸村の叔父にあたる真田信尹(のぶただ)を呼び、交渉の使者とする。

▶家康の提示した条件は、一万石とも十万石とも云われているが、幸村はこれを断る。

※『慶長見聞書』によると、幸村は秀頼から受けた恩顧を述べ、和睦後に召し出していただけるのなら千石で奉公しますと返事をしたという。

▶家康は、それならば信濃一国ではどうだと条件をつり上げて、再度、信尹を使者にたてる。嘘ではない証拠に本多正純の誓書を出させてもよいとまで言っている。

▶幸村は、家康のこの執拗さに激怒する。

自分が目的としているところは領地ではない、何度申したらお分かりです、私は生涯の栄光を飾りたいというそれだけでこの真田丸に籠もっている、

餌でもって男子の志を吊ろうとなさるおろかしさ、申しておきまするが、この左衛門佐は、たとえ日本国の半分を割きあたえられようとも、この御城を退きませぬぞ、左様に申しあげられよ、

▶信尹は、幸村に追い返され、すごすごと引き上げる。

「いやと申すか」

と、家康はにがい顔で、そのようにつぶやいただけであった。

※幸村は、九度山で鬱々としていた自分の器量を見出してくれ、仕事場を与えてくれた秀頼に感謝していた。合戦中の裏切りなど考えられなかったのである。幸村は、豊臣家の存続を前提としている。家康が提示する非現実的な条件にブチ切れたようだ。

 


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🐱家康と内通している織田有楽斎は早い段階で秀頼に和睦を進言しているが、秀頼はこれを退けている。

▶12月2日、鉄砲の音が、遠く醍醐(京都市伏見区)まで鳴り響く程であったが、秀頼は弱気になることはなかった。

▶12月3日、有楽斎、秀頼の和睦拒否を家康に伝える。

家康、茶臼山に陣を移し、全軍に惣構えの前まで陣を進めよと下知する。

▶12月4日、真田丸の攻防で徳川方大損害を被る。

という流れのようだ。ここから、家康は心理戦を展開し、和平工作を進める。女共、特に淀殿の心を折れさせるのが早いという悪謀である。家康としては、まず大坂城を無力化することが最善策と考えている。

🐱大坂冬の陣のこの年は、厳冬だったという(この時代は地球規模の寒冷期)。年寄りの家康には辛かっただろう。また、徳川方は兵糧不足に悩まされていたという。戦を長引かせたくなかったものと思われる。

🐱幸村に仕掛けられた寝返り工作は12月10日過ぎのことのようだ。たとえ幸村が寝返らなくても、大坂城内に悪い噂が流れるだけでも効果はあるのだ。 

🐱今まで外部と接触の無かった秀頼は、大坂の陣で刺激されて本来の資質が開花して、どんどん成長しているようだ。🐥

 


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※松江で見つかった最古と云われる「真田丸絵図」

🔎真田丸:詳細な最古絵図 松江で発見 - 毎日新聞

 

 

 

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